降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

私の探究・研究相談室レポート 回復が回復する 探究と時代からの解放

昨日の私の探究・研究相談室では場についての話しが比較的多かった。

 

世間一般では、主体というのは個人のことだと思われている。が、僕の認識ではむしろ場のほうが主体なのではないかと思う。

 

なぜなら個人が更新されていくために場が必要であるだけではなく、場が個人をつくると感じるからだ。個人は場という関係性の反映としてあると思う。

 

閉じた個ではなく、関係性こそが主体であるという認識は、大学では特に聞かなかった。自分に本当に必要なものは最終的には自分で見つけていくしかないし、今すでに発見されているものでは足りないと思う。そして個人はそれがその人に本当に必要ならば、時代がどうであれ、それを見出す力を持っていると思う。

 

相談室で、回復は自律なものの展開であるということを説明しようとしたとき、「自分が回復するのではなく、回復が回復する。」という表現になった。自分という自意識やその意思的な操作こそが自律的なものの展開を邪魔するという認識をもっている。

 

それぞれの人がさしおけない問題意識をもっていること、興味あるフリではなく切実に求めていることにおいて、その人は時代をこえたものを発見できると思う。違う言い方をすれば、あることについては、そのことが抜き差しならない状況にいる当事者こそが最先端の知識を発見する場にいると思っている。

 

世間が言っていることをそれが言われるままに鵜呑みにするのではなく、少なくとも自分がさしおけない事柄に対しては、そこでおこる実態に対して、よりフィットする言葉をおき、その言葉を更新していくことによって、古い考え方は更新される。

 

相談室のなかで、そもそもまず「自己肯定感」がある程度以上に高くならなければ、自分が変わっていくという体験や過程に入ることは不可能なのではないかということが言われた。

 

まず「自己肯定感」が高くなければ。多くの人がそう思ってしまうけれど「自己肯定感」の向上という考えにとらわれて停滞してしまいやすい。

 

本当にそうなっているのか? 僕の確かめてきた範囲では、自分が好きとか、そういう認識になる必要もなく、ただ自分というものが世間的になんであるかとか、人はこうしなければいけないとか、そういうことが頭から消えている状態になる状況や場、活動があれば人は変容していけると思う。(もちろん戦場とか人権侵害企業の職場とか、そういう強制的な危機的状況ではなくてであるけれど。)

 

「肯定的なものをより多く獲得する」というこの時代の強迫がしみこんだ考えでは、ああ自分はもっと獲得しなければいけないのだという思いそれだけで疲れてしまう。実のところそもそもこの時代の強迫こそが今の自分の停滞状況を作っているのだから、原因を強化するみたいなことをしているわけだ。

 

肯定的なものをより獲得するのではなく、現在自分にとって強迫的に迫ってくる考えとか認識が一時的にでも打ち消されればまずは十分なのだ。その時間と少しでも長く共にいる。浸かっておく。それで自律的なものは回復し、次の展開の力をためていく。

 

僕は心理学とか学問の専門分野に回収される言葉ではなく、素人が使える言葉や考えかたを見つけようとしてきた。そして「自分の時間が動く」という表現を使うようになった。「回復」も最近はあまり積極的には使わない。「回復しなければ」「回復してからが自分の本当の生がはじまる」みたいな考えになって「回復」自体にとらわれ停滞してしまいがちだから。

 

「回復」という達成をすることも「自分が回復した」という承認も必要ない。素人にとっては、難しい用語や考え方を覚えないと先に進めないといういうふうに思わされているけれど、「自分の時間が動くかどうか」ということにそって、物事をみていったり、体験して確かめてしていくだけで、必要は十分足りる。

 

自意識としての自分がどれだけ賢くなるかと関係なく、人には自分も知らない自律的な更新作用があって、それがなるべく活発化するような環境設定やチューニングとはなんだろうかという意識をもちながら日々を過ごせるなら、事は足りる。

 

時代的な強迫で、多幸感がないと幸せではないと思わされているけれど、そんなことはなくて、自分が幸せか不幸せかとか、世間においてはどのくらいのランクに位置するのかとか、そういう考えが消えている1秒だったり、1分だったりの間は、すでに最高の状態であり、「達成」しているとさえいえると思う。

 

そういう間、自分の時間は動いている。自分の時間が動くとき、結果として自分は変わっていく。変わらなければいけないとか、回復しなければいけないとか、そういう考えや価値観など関係なく変わっていく。

 

自分でも知らない自分になっていく。自分が回復したかどうかとか、もはやどうでもよくなるのが「回復」の最終段階なのだから。最後は「回復」にさえとらわれなくなる。そしてそのこだわりが後ろにひくことよってより自由になる。

 

僕自身は大学での出会いとか、環境によって、自分が必要なものとそうでないものを確かめてきたので、大学など必要ないとか、別にそういうことは言っていない。なんであれ、どういうものであれ、自分の時間を動かすということにおいて使えるなら使えばいい。

 

「自分の時間が動く」というとき、自分といっているけれど、それは自分ではなくて、自分も知らない自律的な変化のプロセスが動いているということだ。自分以外のものに任せられるとき、人は安心する。精神的自立とは、外部の権威の言うことの達成ではなく、自分と共にあるプロセス、他者であるそのプロセスをより信頼できるようになるということだ。

 

時間が動くという言葉は自分以外の人にも使えて、その人の時間が動くということはどういうことだろうか、という意識をもちながら探っていくなら、その人を「回復」させなければとか、「適応」させなければという言葉をつかって考えるよりは、健全になりやすいと思う。

 

多くの問題の根底に、その時代がもっている、悪い意味で神話的で実態とは違う考え方の土台とか、枠組みとか、前提とかがある。それに対して、自分のなかで自律的に動いているものに応答していくことは、一旦は吸収して内面化してしまった考えや価値の虚偽に気づき、そこから解放されていくことにつながると思っている。