降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

死としての学び

人はどのように変わりうるのか。自分はどのように変わりうるのか。

 

それをずっと考えてきた。20歳前とか、最初は変わることは「成長」することだととらえていた。だがあるべき方向性があるみたいな前提を含むのでその言葉を使うのはやめた。あるべき方向性を暗黙に前提することは変化を停滞させる。

 

変化がスムーズにすすむところは、フラットな場だ。治療の場でも人は変わる。しかし、治療者とクライアントとか、治るとか治らないとか、そういう序列やあるべき価値観が持ち込まれるので、弊害がある。

 

そもそも誰しもが自分は普通でおかしくないと思いたがっているのに、治療受けるとか、自分が普通じゃないとか、不十分だとか認めるような場にいかないし、あんまり受け入れない。ひっかかりがあると何かやっても無理やりになってしまう。

 

逆に「自分は変わらなければいけない存在だ」と意気込むのは、一見謙虚さや向上心にあふれているようにみえて、実際のところその構えが変化の邪魔をする。

 

そんなこと気にもしていない状態のほうがするっと展開するし、「自分はこう変わった!」とか特に自負しないので、そのことに変に自信をもってこだわり、後の停滞を招くようなことにもなりにくい。たちがいい。心理カウンセリングから演劇的手法やエンカウンターグループに移行していった人などは、こういうフラットさを重要視していると思う。

 

次に回復という言葉をよく使うようになった。怪我したのが元に戻る回復のような、マイナスがゼロに戻る回復ではなく、誰もが生きている限りずっと回復し続ける。あるいは回復の方向へ向かおうとする。「成長」し続けるのではなく、回復し続ける。この言い方のほうが実態に対して妥当だと思うようになった。

 

回復は回復でまあいいし、この言葉でこそ含意できるものがあるのだけれど、まあこれも今は回復していないというのを認めなければいけないような印象を与えるところもあり、受け入れがたい人もいるだろう。これは変化をある特定の側面からいいあらわしたものだ。

 

最近気づいてきたのは、「心理的問題を抱えている人」というものの変化と、特にそういう問題は顕在化してない(と思っている)人が何かに出会い自分が変えられるということとは、べつだん異なるものではないということ。

 

これは学びだ。学びとは、それに出会う前と出会った後で何かが変わっていること。データとして同じ自分にただ蓄積されるのではなく、いわばパソコンのOS自体(が自分として、それ)が大なり小なり変わってしまうようなものが学びとよべる。

 

学びとは、更新されるということだ。古いものが終わり、ただ更新されていく。終わりがない。身につけたやり方、成り得た自分はその瞬間から古くなっていく。

 

人はOSのようなもので、あることができるようになっても、ある自分になっても、次の状況に対してはそれは通じにくくなる。潜在的に常に更新される必要がある。だが生きものは何が何でも死なないように動機づけられており、更新という危険性を冒すのは基本的に苦手だ。体感される水準で危機や苦しみが顕在化しない限り、同じあり方に留まろうとする。生きものは更新と留まりという相反するせめぎあいのなかにある。実のところ、どちらかというと留まりの動機のほうが強いだろう。

 

生きものとしては留まりの動機のほうが強いのに、逆であることが素晴らしいと自意識は思いたいし、信じたい。宇宙に行けるようになったり、「発展」したりする新しさそのもの、能動性そのものになることに憧れ高揚する。自分が生の主人公でありたい。その高揚を動機にして自分を動かそうとする。

 

だが、そこには無理がある。きらびやかなものを生み、自分がそんな存在だと錯覚する一方で、そこに置いて行かれた惨めなものが生まれる。そこを認めなければ、世界は「やさしく」ならない。強迫的に素敵なものになろうとすることの反作用。限られた世界で光を集中させるためには、暗いところからより光の成分を奪わなければならない。
そして何より、肯定的なものを設定し、それになろうとするその強迫自体が、変化を阻害するのだ。継続的な変化、自律性が動き出すのは、強迫がとれたところだ。矛盾するようだが、変わるためには、変わらないことを受け入れることが前提になる。

 

生きものは圧倒的な保守性、留まりのなかにある。生きものとは、置いて行かれ、取り残されて、しかし死にきれないものである。それ否定し、高揚しようとすることは、より一層停滞を生む。しかし、自分が生ではなく、死であることを認めた時、逆に死としての自分と世界を流れていく生が感じられる。千と千尋の神隠しの歌にあるように。
”粉々に砕かれた鏡のうえにも新しい景色は映される”

 

新しい景色は所有できるものではない。そもそも鏡に映ったものは所有したものではない。自意識自体が生なのだということを諦めたときに、生は逆に与えられる。

 

学びというのは、それまでのものの死なのだ。一貫した主体はなく、それまで主体だと思っていた自意識自体が更新されたとき、次に生まれた自意識は前のものと断絶している。だから世界は新しく体験される。自分という連続性は概念上、空想上にしかない。
学び、生きものなのに死のうとするというのは、倒錯的でもあるけれども、死して更新していくという、生きものという留まりに対する反逆が人の奥底の層の動機としてある。