降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

殻と更新作用

「殻が厚くなる」という言い方は日常語で使われますが、このとき「殻」は、「厚くなっているなあ」と言われているその人本体を指しておらず、言われているその人が身にまとうもののように、その人の行動や態度のあり方を規定するようなもののようにいわれます。

 

一方、僕の周りの社会では、誰かが罪を犯したり、あるいはいいことをしたとき、その人の殻とその人は分けられたりはしません。殻とその人は同一のものとして扱われます。

 

しかし、人々の感性のなかでは、少なくともことばのうえでは、その人と殻は分けられてとらえられています。僕は殻とその人を分けるというのはとても実態に即しており、人をとらえる際、とても妥当な見方であると思います。

 

妥当だというのは、そのようにとらえることで、殻とその人が一体のものであると仮定していることで行き詰まっていることをひらくからです。

 

たとえば、意思というものが、素晴らしいもので、人間の人間たるゆえんだというようにとらえたところでは、意思の病である依存症を停滞させやすいことが最近はわかってきました。

 

自分を自分の意思でコントロールできるととらえているうちは、逆に依存症から抜けられなくなってしまうのです。そこからの回復の契機は、自分の無力さを認めることからはじまるといわれます。すると投げやりになるのではなく、今までと別のあり方で地に足をつけて変化がおこってくるのです。

 

どこにも非がなかったように思われていた「意思」が、実はそうではなかったことが次の時代で知られてくるように、現時点で常識として、検討されることもなく前提とされていることが行き詰まりをつくっていることが多いように思います。

 

色々な解決方法を模索しても、そもそもの問題の出発地点である前提に気づかなければ、それを経過し、通り過ぎていくことができずにまたちょっと先で苦しみ、行き詰まってしまいます。

 

新しい知見をもってきたりするのは、学問の専売特許のようで、もちろんそういうことも多いのですが、すでに人々のあいだで認識されていることで、学問をこえているものも僕は割にあるように思うのです。

 

たとえば、「気になる」とか「気にいる」と日常語で使われる「気」ですが、本人の意思ではないなんとなくの感じを表します。しかし、日常では、多くの物事は意思で明確に選ぶというよりは、(特に私的な場面では)なんとなく気の向くほうだったり、なんとなく感じられる兆しを行動の根拠にしていると思うのです。

 

実際そうでないと決まりきったこと、知ったことしか繰り返さず、もし自分の行動がより大きな文脈では間違ったことをしていたとしても、同じ行動のなかでは気づくこともできません。なんとなくつまらなくなったからとか、ちょっと気分を変えてみたくなるとか、そういうもので世界と新しく出会い、自分が更新されていくのだと思います。

 

日常で多用している「気」ということばのほうが、やりたいことは既に決まっており、行動の全て根拠をもって自己決定できる人間観より、人間のあり方をよくとらえているように思いませんか。

 

人は信頼のおける他者とやりとりするなかで、自分の今まで発見していなかった「やりたいこと」や「行きたい方向」が発見されてくるようです。福祉や医療の界隈でも、最近までは「自己決定」がその人を尊重することであるのだと思われてきましたが、最近はその考えではいいかたちで状況が動いていかないことが知られてきているようです。

 

これらは『中動態の世界』を書いた国分功一郎さんから知ったことです。国分さんはかつて存在した中動態という文法のあり方から「意思」の弊害やいびつさを指摘しました。全ての行動を自分の意思から行っていると考えるところでは、依存症は回復の端緒につけません。

 

自分の意思以外のもので人間は動いているし、人の意思は世間で思われているほど正しくもないし、偏っていたり、機械的であったりするのです。

 

それをうまく言い表すのが、日常語である「気」という言葉だと思います。「気が滅入る」「気をつける」など、あらゆる場面で使われる「気」という日常語は、国分さんが中動態の世界から見えてきたことを指摘する前から、既に中動態をとらえており、人々の間で現実をうまくまわすために応用されていたのです。

 

前置きが長くなりましたが、「殻」の話しにもどります。僕は人々が「殻が厚くなる」という言い方でとらえているものは、より現実の人間の複雑さをとらえているように思います。

 

では、その人のうちで、何が「殻」で何が「その人自身」的なものなのでしょうか。多くの人は、大部分がその人自身であり、殻は一部だととらえているんじゃないかなと思います。しかし、僕は自分が自分だと思うようなもの、思考、意見、判断などは殻に属すると考えています。

 

そういうふうにとらえたほうが、自分のこともより理解できるし、他人の行動も把握しやすいです。そしてそう考えることで、今までのもっていた前提のために行き詰まっていたことが開かれるように思います。

 

反論もあると思いますが、グレタさんに指摘される前から世界は大分おかしかったのに、多くの人はそれを変えようとしないように僕には見えました。日本の政治の状況にしてもそうです。動くのはほとんど最前線で否応無く直面している人だけ。なぜ多くの人は現状を変えようとするより、強いものに従い、現状に埋没するのか。そして自分自身の認識すらだましてしまうのか。それは疑問でした。

 

もともと僕は別に大衆心理とかに興味があったわけではなく、ひとりの人の変化がどのようにおこるのかをずっと自分なりに考えてきたのですが、それをより確かめていくには分野や区切りを横断せざるをえませんでした。

 

知りたいこと、理解したいことは、いわゆるその分野(僕にとっては心理学とかでしたが。)のなかだけ調べて行き詰まってしまうことがあっても、その分野の外では(たとえば演劇なり、環境再生のあり方なり。)答えが出ていることも結構あるのです。

 

僕は自分が変わることが一番難しいことであると思っていたので、本当に自分が使えるものだけを自分なりに組み立てて考えました。自分が実際に変わるのが自分で確かめられる根拠であり、それが停滞するならば、何かが間違いが含まれていると考えました。

 

その時重要なことは、自分は既に間違った前提をもっており、勘違いしているのであり、その勘違いの世界、偽りの閉じた世界があたかも継ぎ目がないようににみえているその世界で、継ぎ目を見つけ、そこに穴をうがち、閉塞した世界をもはや成り立たなくさせて更新することの繰り返しでした。

 

生きづらさは、ほおっておくとだんだんと圧力を増していきます。必要な酸素が減っていって、足りなくなって、息が苦しくなっていくように、僕にとっては自分がそうだと信じている偽りの世界のほころびを見つけて、バリバリとそこを開いていくとき、またしばらく生きられることができる、新しい空気が開いたところから入ってきます。

 

そしてその繰り返しの結果、今たどりついているのが、「殻」という考え方です。ことばをもってしまった人は、自分の脆弱性を感じなくするために「殻」を発達させるようです。殻は学習の結果生まれものであり、機械のようなものです。最近AIがどうこうとよく言われますが、言葉をもった人間の思考とか認識の仕方自体が既に機械的なもののようです。

 

武術や身体技法の分野では、自意識がコントロールしている状態や自意識的な実感があるときは、パフォーマンスが実はよくないということがよく言われるようです。それも自意識という「殻」がどういうものかをよくあらわしているように思います。それは自分のようで、自分の本体ではなく、むしろそれがあまり浮き出ているときは、動きも悪いし、周りともうまくやれないのです。

 

「殻」は、防衛機能のようで、自分を変わらないままにしようとする傾向があります。しかしそのために、世界はどんどん変わっていくのに、自分の認識や思考が変わらないまま、生きることになります。同時に、その保守的な傾向は、自分を守り、他人を抑圧することにも関係しているようです。

 

言葉をもった人は、どうも殻を発達させざるを得ないようです。言葉自体が学習の結果でもあり、殻の構成要素でもあるようです。

 

言葉で世間を認識するとは、おそらく精神にとっては、強烈な劇薬(リアリティ)にさらされ続けるようなことであり、生きるためにそれを麻痺させ、大なり小なり無感覚になろうとせざるを得ないのではないかと思います。そのため、強すぎる圧力にさらされないために、欺瞞的な、変わらない、自分を揺り動かさない世界像を自分のうちにつくり、その閉じた世界のなかで、人は生きているのではないかと思います。

殻が自分を守る傾向は自動的であり、自分の本当の気持ちや感情を騙すことさえします。AであるものをBだと信じてしまうようなことさえ、ごく普通におこります。

 

緊急時になっても、その現実を受け入れることができない「正常化バイアス」というようなものも、自我の、殻の、自動的な機能であるのかと思います。

 

殻はとにかく自分を揺り動かしそうなものをできるだけそれが遠くにいる時から察知し、意識にのぼる前にそこから逃げようとします。意識にはっきりとのぼる前なので、自意識的には、自分は逃げたのではなく、しかるべき理由のもとにそう行動した、たまたまそのように行動したと思ったり、言ったりします。しかしあとでよく調べると、自分は何かの圧力を逸らそうとしていたということがわかったりします。

 

言葉を構成要素とする殻がもつ保守傾向は自動的・自律的であり、頑強です。しかし殻があるために、その人は自分自身の認識や感じ方を更新できず、毎日を過ごしてもメリーゴーランドのように同じことの繰り返しにしか感じられなくなり、倦んでいきます。そしてその苦しさのためにより一層自分を麻痺させる刺激を求め、欺瞞の耐えきれなさをぬりこめようとします。

 

より困難で高い山にのぼることを求める人がいるように、殻が揺り動かされる状態と程よい関係をもてると、人は今までと違った世界に触れ、更新されうるようです。

 

殻の保守傾向と、それにあらがう更新作用が、人のなかにあるようです。どちらが自分が本当のものに近いかというと、更新作用のほうではないかと僕は思います。その作用はまだ意識にのぼりきっておらず、よって異物であり、言語化もされておらず、殻は危険と認識し、遠ざかろうとします。変化とは、その拮抗、せめぎあいのなかで、更新作用が結果的に新しい秩序をつくることなのかと思います。