降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

体質

雨が近いけれど、下鴨神社では今年の左京ワンダーマーケットが決行されていた。年に1度開催されていて、京都やその近隣から何か活動している人たちが勢揃いする。

京都は狭いのでちょっと街のほうに出たり、催しに参加したりすると知り合いによく会う。僕は、酒も飲めないし、遊びで人と関わる動機が薄いので、そういう感じで自然に人に会えたり関われるのは嬉しい。しかし、この催しではあまりに知り合いが多すぎて戸惑い状態になる。

 

人との関わりは、多くの人は愛着をベースにしているのだろうと思う。だから会えば感情が呼び起こされて自然なやりとりができるし、関わり自体を育て楽しみたい欲求があるのではと思う。僕は愛着が淡白なので、人と関われるのは嬉しいが、関心がその場限りになりがちで続かない。診断されに行ってないけれど、発達障害なのだろう。

 

自閉症の兄と弟の映画「レインマン」の兄レイモンドのケアを担当している施設の人がいるのだけど、レイモンドはその人がもし急にいなくなってしまっても気にしないと思われている。そこまでじゃないにしても似たような感じはあって共感する。

 

映画「ライフ・イズ・ビューティフル」で、主人公といつもクイズをしていた仲のよい人がいて、主人公がナチスの収容所に入れられた時に再会する。クイズの彼はドイツ人だったので、主人公は彼に便宜をはかってもらえないかと期待するのだが、彼はそこにいても主人公とクイズをしようとしかしない。主人公は衝撃を受ける。

 

自分もちょっとそんな気質だ。それが人と違うのがわかっているから、できるだけあるべき振る舞いをするように努力するけれど、愛着に関わる感情が淡白だと、たとえば人が不幸な状況に陥っている状況があっても、感情的な一体感がないから、頭で理解し、頭で考えた振る舞いで間接的に対応するという感じになってしまう。

 

頭でつくる振る舞いには限界があるから、弊害を避けるためにある程度の距離をとる。距離をちょっと遠目にとれば、愛着が薄いことによって結果的に人を傷つけるというような弊害はかなり避けられる。感情とは関係なくできることはある。またもともと近すぎる距離には戸惑って固まりがちになる気質でもある。

 

ライフ・イズ・ビューティフルのクイズ男がクイズをもって人と関わるように、僕は何がしかのテーマを媒介させて人と関わる。愛着のかわりにテーマで人と関わる。自分にとって有用なことと、人にとっても有用であろうと思われるところで関われる。

 

それはいいところもあって、愛着の多寡に関わらず人と関われるので、かえって知り合いは多くなっていく。また自分が淡白なので、人に対しても「そういうとき人だったらこうあるべきだろう」とかあまり思わない。

 

鉄腕アトムでアトムが自分の心が人と違うことを嘆くシーンがあるけれど、愛着をベースにした人と同じように感じられないのには寂しさがある。でも、愛着的な優しさが少なくても、害をできるだけ少なくすればいいし、寂しさは動機になって、人にも自分にも生産的なポイントをつくることができないわけでもない。「人間性」とか「優しさ」を称揚するのはあんまり優しくないなと思う人の許容性や共感性もあるだろう。

 

現代は現代と呼ばれるけれど、歴史が続くなら今は古代で、人間はこういうものだ、こうあるべきだという神話と偏見に満ちていると思う。時代がもしすすむならば、今がどれだけ人が人に対してイメージを押しつけ、お互いに抑圧し、縛り合っているのかが理解されるだろうと思う。

 

また人が世界をどのように認識し、感じるのかがもう少しわかってくれば、世界の見え方、経験のあり方は個々によって本当に違うのがわかってくるだろうと思う。

 

自然は生きものにとって完全に調和的ではない。自然の理屈と生きものの理屈は違う。生きもの側としては、全く同じ機能をもつものをつくろうとしているのに、必ず一定の確率で障害がおこる。何千万年かけてもそれが変わらない。ということは、どれだけ精密に構成されたとしても、ある種無理やりつくられていて、出たとこ勝負でしかないということだろう。生きものはそういう意味で、自然から発生しながらも、発生したときから見捨てられている。

 

健常というのは、本来的に無理やりを上手く機能させようとするもの。様々な機能が偶然上手く重なったもの。でも元々はばらばらだった。そちらをベースに考えていったほうが人は救われる。時代が進んで、障害は体質だという理解が一般的になればいいと思う。どうしようもないし、そのどうしようもなさを物理的な便宜も心理的な苦しさもどうにかましにするために、文化はつくられてきたんじゃないかなと思っている。