降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ひずみの深さ 動機の強さとは何か

動機の強さというのは何かというのもずっと考えている。

ほとんど賛同されないけれど、それはひずみの強さではないかと思っている。弾力性があって、元に戻ろうとする力が働いているところに対し、ひずみを与えるとひずみが深ければ深いほどそれを元に戻すための大きな力が働く。


自分なりに観察してきた範囲では、今のところ快さの力というのは弱いと思う。


よりよいほう、より楽なほう、より自由なほうに行けば快は増えるのだから誰でも自然にそちらに行く、と言われればそうかとも思えるかもしれないが、本当にそうだろうか?


生きものは必要以上に変化を好まない。生きものは、変わることよりも変わらないことに動機づけられていると思う。よく生きようが悪く生きようが、生きものにおいては生きるということが何よりもまず優先される。そういう体になっていると思う。

ハムスターの出産期に人間がたびたび巣を覗くなどの不安を与えるとハムスターは子どもを噛み殺してしまう。それは子育てと自分とどちらが優先されたほうが種として生き延びる確率が高いかという理屈だと思う。


生きものが同じことの繰り返しをやめるとき、変化するときとは、生の危機に関わる時だ。危機でないときに変わろうとすることはリスクがある。だから我慢できる範囲の時は動かない。


それは人間にもあてはまっているだろうと感じる。国が多少嫌ぐらいでは選挙に行かないとか、それもそういうことかもしれないけれど、本当に危機意識を感じられるまで動けない。

人間の自由意思で動かないというよりは、そのいつもの繰り返しをやめることに対する保守性は生きものとしての保守性に属するのではと思うのだ。

言葉の世界を心に入れ込むことによって、今は満たされていても明日のことに対して危機を感じるようになる。人が動物より余計なことができるのは、この危機感を利用し、体に対して無理やりのコントロールをきかせられるからではと思う。


そもそも持っている強烈な保守性にもかかわらず、体を動かすことをさせるのは危機感、苦しみ、ひずみなのだと思う。


巨大な屋久杉は、ほとんど土のない岩盤のような大地ゆえに大きく根を張り、それが巨大な幹を育てるときく。岩盤という危機をかかえて生きるためには、そうならざるを得ない。その危機が巨大な生長という現象になってあらわれる。


根源的なところの力の現れというところで、そうなりたかったからそうなったのではなく、そうならざるを得なかったからそうなっているようにみえる。そう考えるほうが周りの現象に対しても見通しが立ってくる。


だから何かをやるにしても、快だけではいけるところが限られていると思う。同じ条件なら、せざるを得ない人、切実に迫られた人のほうがその分だけ余計にいける。動機の強さとは、内在する力の溜まりであり、それはひずみであり、内在する苦しみだと思う。


復元しようとする力、本来的な状態に戻ろうとする力がまずある。それを何と呼んでもいいけれど、その力が元々の力だ。生きている間はいつまでも働く力。


その基盤のうえで、ひずみの深さが強いエネルギーを発生させる。達成とか、成長とかはこのエネルギーを使ったものだ。だから達成とか成長とかに僕はあんまり諸手を上げられない。必要悪なら片手だけ上げる。