降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「意味」の空白地帯 学びを取り戻すために

たとえば、学ぶということが生きものにとってもともと備わった行為だと考えるなら。なぜ人間以外の生きものは学校に行かなくてもいいのか。色々な考えかた、こたえかたはあるだろうけど、生きるという、まさに軸に関わることにおいては、生きものは自ら学ぶからだとこたえることもできるのではないだろうか。


この自分が生きるという軸においては、自ら学べる。当事者はその当事者性において学ぶ。生きるということをやっている当事者は、生きるということを自ら学ぶ。
学ぶとは、取り入れることによって、もともとあったものを取り去る行為であり、更新の行為であると思う。取り入れることはいつも取り去るための便宜上の方法であって目的ではない。

 

生きるものは、生きることのプロになるために動機づけられており、そういう身体を持っていると考えてみるなら、経済行為のプロ、職業としてプロになるということは、もともとの動機づけを転用したものととらえることができるのではないか。

 

職業のプロになることが当たり前になり、当然のこととして求められるようになった時代に、この自分が生きることと直接接続されることがないことに発達を強制され、自分が生きること自体の方に活用されるはずだった、もともと持っていた潜在的能力を自分以外の誰かにとって有用なように発達させられることは、社会による、生きることの搾取であるとも考えられないだろうか。

 

大きなシステムのなかで、断片化した能力として位置づけられる個人は、そもそも自らが生きることに直接投資できたはずの潜在的資源と能力を奪われ、いざシステムが機能不全になったときに自律的に生きる力を疎外された無能な存在として野に放り出される。

 

生きづらさというものが、もともと備わっていた能力や自律性を疎外された状態から生まれると考えるなら、その疎外を脱するための環境をこしらえる必要がある。身体化され、当然のものとして一体化した価値観、認識、そういうものをとっていくための環境をつくる。そのときの環境は、お金のかかる建物とか設備とかのハードであるよりは、そこにある人と人との関係性のほうが重要になってくるだろうと思う。

 

人や社会にとってどれだけ有用であるか、どれだけ認められるかという「意味」から自分がニュートラルになる場所が、その一体化を脱していく場が必要だ。何かが「素晴らしい」とき、素晴らしくないものがその背景として必要になる。何かを「素晴らしい」というとき、素晴らしくないものを同時に実体化させ、つくりだしている。

 

よって、価値があるものをつくりだすのではなく、有用性としての意味の空白地帯をつくる。意味を相殺し、ゼロにする場、一瞬をつくる。それはもちろん厳密には存在しない場だけれど、人のなかの自律性は間隙を縫い、事実と事実の合間のなかで、そのゼロを体験することができるのだ。