降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

尊重は相手のためか 学びの疎外と文化の不在

読書会や話の場で思うこと。

 

人権や尊重という言葉はあっても中身は空洞化されている。人権とは何か、尊重とは何かはなんとなくのニュアンス以上に知る必要もないと認識されているに等しいだろう。かたちだけの言葉はむしろ実態を後退させ、現状を変えないものとして機能する。

 

読書会でフリースクールについての発表がある。学校とは何かをあらためて根本的なところから問うやりとりになった。

 

学校を終えれば学ぶことは終了するのか。学びとは学校ですることなのか。どれだけよりよい学校に通うかでその後の生の豊かさ、社会的地位や成功が決まるのか。学校とはそのための場所なのか。学校はそこを出た後に「学ばないこと」を正当化する理由にすらなっている。

 

思うに学校の一番の弊害は「学び」を強制されるもの、堪えるものとして認識させ、ほとほと嫌にさせるものとしてあるのではないかと思う。余暇に出世や趣味と関係ないところで「勉強」などするものかという認識をつくって学びを疎外する。

 

本来的に学びの動機は、既知に閉じこめられ疎外される存在である人間がその閉塞に自ら亀裂をいれ、メリーゴーランドの馬に縛り付けられたように同じ風景がいつまでも繰り返される倦みの苦しみを更新したいという、生き続けるうえで根源的にもつものであるだろう。

 

また学びとは応答的なものであって、その人のなかで動こうとしているものが先にあるところで生まれるものだ。その人に何の求めも生まれていないところで既に内容の決まったことが一方的に詰め込まれるのなら、それはそもそも学びとは別のものであり、逆のものでもあるだろう。

 

学びが何であるかを知ることができるのは、強制性から自由になった学校外の場所になっている。自分のなかに一度条件づけられてしまった拒絶反応や自分に対する強制性を落としていく過程を経てようやく始まりの地点に戻れる。

 

鶴見俊輔ヘレン・ケラーとの出会いにおいて、ヘレン・ケラーが「自分は学ぶために多くのことをunlearnしなければならなかった」と話したことを紹介している。鶴見はunlearnを「学びほぐし」とした。

 

一度身につけられてしまった条件づけを落としていくことこそむしろ学びの本質的な要素であって、unlearn(学びほぐし)こそ学びであるだろう。学びとは過去の解体なのであって、ハードディスクにアプリをあれやこれやとたくさんいれて「充実」させていくようなことではない。

 

形骸化したものをあてがわれ、閉じこめられた自分の既知の世界の見え方を変えられない人は、ただ自分だけが疎外されるのではなく、周りの人に対しても自分と同じ価値観をもつことを強制するだろうし、社会を更新していく主体になるのではなく、既にある現秩序の同じ権威に従うことを求めるだろう。

 

現状「普通」で「強い」ものが正しいということを吟味する思考抜きに鵜呑みにして、それに異を唱える人、変えようとする人が「迷惑をかける人」として抑圧される社会環境が世間ということになるだろう。

 

学びは一般のイメージとは違い、更新を求める生命の本質的な動機であるだろう。止まった水が腐るように更新を止めて生きているものとはゾンビだ。ジブリアニメに「飛ばない豚はただの豚だ。」というセリフがあったけれど、学びに関していえば「更新されないゾンビはただのゾンビだ」となりそうだ。

 

SNS上で男性が作った秩序に物申す女性は苛烈なバッシングに晒されることが多い。1945年に女性に選挙権が得られて75年がたった現在でも女性が男性の作っている秩序や価値観に物申すことを許さない社会環境が残っている。女性が男をさしおいて「でかい顔」をすること、つまり対等に意見する存在であることや、思考する主体であるところの男をさしおいて、「生意気」にも思考する主体になることが許せないのが現社会だ。

 

人をして敬意が払われ正当に扱われる「人間」とその必要がない「人間以前」に分ける思考や価値観は、男性と女性における序列化に限らず、ありとあらゆることに複合的にかつ重複累積的に存在しており、社会環境を文化以前の荒野にとどめている。

 

このような現状があるうえで、いい学校を作れば状況がよくなるとか、そこでいいプログラムを作ったり発見したら状況がよくなるということはないだろう。そもそも学校こそが学ぶ場所だと見なされること自体が人間に対する否定であり、侮辱であるのではないだろうか。それは学校を出ても当たり前のように学びという更新が続けられる必要があるということでもある。

 

学びは個々に取り戻される必要がある。それは個人の更新であり、関係の更新であり、状況の更新であり、社会の更新であるだろう。誰かにお任せして自分の思考は更新されないまま、「社会がよくなる」だろうか。

 

学びの本来的な意味と実態が取り戻されたところでは、学びという更新がおこりうる文化的環境、人が「人間」と「人間以前」に分けられない環境の重要性が明確になるだろう。差別や自分の既知の外にある他者に対する尊重のなさとは、文化以前の荒野の環境なのだということが理解されるだろうと思う。

 

人権を守るとは人が「人間」と「人間以前」として分けて扱われることを拒絶することであり、それは文化の基礎だ。それが実態として守られないところは誰かが陵辱されているのにそれを皆で気づかないようにしている、文化の無法地帯だ。文化とは存在へのやさしさであるのだから。

 

尊重とは既知の世界に閉じ込められ、放っておくと自らの自己中心性から自他を疎外してしまう存在である人間が、自分一人では乗り越えていけないその疎外を関係性のなかで教えられるためにある。尊重は自分の矮小な価値観にしがみつく差別意識を解体していくために自分の知らない他者に向き合う覚悟であり、自分が人間として維持されるためのものであるという認識が必要であるだろう。相手に優しくしてあげるためなどという傲慢さ自体が人を「人間」と「人間以前」に分けている意識そのものだといえる。

 

尊重が、ひいては自分が人間であることの維持にあるのであるのであれば、自分の知っていることや自分の価値の外から差別意識を指摘された時に、「自分はそういうつもりで言っていないから」とか、「差別のこと詳しくないから」や「ジェンダーのことは勉強していないから」と向き合いの拒絶をすることは、「自分は(文化的存在としての)人間であることはやめますから」と言っているに等しい。

 

学校ではああいうことを考えたことがあったねとか、あの本を読んだからこのことはもうわかったとか、学びを過去のことにするのではなく、人間とは何か、社会とは何か、文化とは何かを実生活に隠されている実際の矛盾や抑圧を通して問い続けていく必要がある。問い続けることをやめたときに、更新は止まり、何十年でも同じままの思考や価値観が自分を疎外し、周りを疎外していくだろう。学びということを本来自分は求めていたのだと知ることもできないままに。

「理解できる/できない」「愛せる/愛せない」 心理主義をやめることと尊重

自分が持っている「価値観」は自分のものだろうか。理性的な判断と吟味のうえでできあがった妥当なものであり、正当なものであるだろうか。


パウロフレイレは現社会において支配的な人たちの価値観を人々が内面化すると指摘している。強い者への憧れがあり、一旦「有名」になり、既存の支配的で抑圧的な価値観から発言する人はマスコミに支持され、差別言動をしても風見鶏のようにくるくると発言を変えていてもなお支持され、事あるごとに意見が参照される。

 

「強い」ものへの憧れ、「美しい」ものへの憧れといったかたちで、人は今の自分を否定し、よりその価値を体現したところに行きたいと思う。だがそのような「強さ」や「美しさ」とは誰かと比較したうえでできるものであり、人を価値ある「人間」と価値が劣る「人間以前」にすることによってできあがる。

 

自分は純粋に心から憧れているからその価値をもつことがいいと本人は思うのだが、実態としてそこにはまず自分自身が憧れる価値観に対して十分でないというみじめな自己否定がある。強烈な感覚を得るために憧れの対象に同一化しようとしてしまうが、むしろそこでみるべきは、相手の素晴らしさであるよりも、相手の素晴らしさに刺激される今の自分のみじめさであり自己否定であるだろう。

 

比較とは競争であり終わりがない。『白雪姫』の王女のように毎日鏡に問い続け、自分の美しさを確認することは実態としては価値の牢獄にいれられる拷問のようなものだ。より乾いた喉に水が美味しく感じられるように、憧れの対象にちかづく時の強烈な快感は、それまでその価値観を取り入れてしまったことによって否定された分の快感なのだ。なんのことはない。

 

より素晴らしい価値観と自分との同一化が幸せのように思われるけれども、実のところは「強い/強くない」「美しい/美しくない」という内面化された価値の基準から解放され、その基準によって自動的に自己規定されてしまうことから解放されればいい。ある価値観に自己診断されていたところから、単に影響されなくなればいい。気持ちの通りがよくなる。

 

こう書いてしまえば構造は単純であるけれども、自分を含めて人を「人間」と「人間以前」にする価値観から自分が解放されるのには長い時間が必要になると思う。そうすると、社会での生活においては、内面化された差別意識がありながらも、それを可能な限り、人を傷つける場でださないということができることであり、まずはそのことこそが重要なことであると思う。

 

さしあたってはそれが文化的な環境においては最低限のあり方であるだろう。内面までは問わない。内面の素晴らしさが世間では価値とされているかもしれないけれど、重要なことは自分の内面がどうかこうかにかかわらず、まず加害や侵害をしないことだろう。内面の良さを問題にしたいのならば、差別的な価値観がのっている言動の加害や侵害をやめてからのことだろう。それは他者を尊重するということでもある。

 

尊重ということは、自分の価値基準に相手を組み込まないということであり、相手には相手の価値基準があり、自分の思いとは別個の存在であることを認め侵害しないことだろう。尊重とは自分の内面にある相手に対する尊敬などではなく、実際の言動のけじめのことだ。

 

たとえ内面的にどれだけ差別的価値観に侵されていても、たとえば自分の出世のためなどとなればそうでないように一時的に振舞うことはできるだろう。他者と接触しないとき、決して伝わらないときにまで内面からくる行動をやめよとは言っていない。人に対して実際に加害行為、侵害行為となる場でのあなたの振る舞いをやめよということしか求めていない。

 

マイノリティが本当にマジョリティに対して「理解」してもらいたいと思っていると思うなら、それは自分が相手にとって重要であるということをいまだに信じ続けているということだと思うけれど、その肥大化したナルシシズムはどこからくるのだろう。

 

マイノリティである自分を「人間以前」と眼差したり、「人間」より軽く扱ったりみなしたりするような人を重要だとかこの人に「理解」してもらいたいと思っていたりするわけがないだろう。全ては最低限社会的な場においての侵害や加害をやめてからのはなしだ。もし自分に痴漢をやめない人がいたら、痴漢と自分との間に人間的な関係がいかばかりでもあると思うだろうか。

 

尊重とは文化だといえるだろう。内面でどういう差別的価値観をもっていても、一時的にはそれから距離をもち、お互いの差別意識によって相手を加害せず、相手の時間を止めないということだ。自分の内面的な心理がどうかなどにこだわるあなたのナルシシズムはどうでもよく、それに付き合うつもりもはじめからなくて、実際に差別意識の影響が他者に伝わる場でだけ最低限やめてほしいと求めている。

 

誰もが差別意識をもっている。それにもかかわらず、その影響から抜け、さらには「人間」と「人間以前」にわける内面化された基準からいつか解放されようとしている、と仮定することが人間的で文化的なことではないだろうか。そうでないと人はいつまでも内面化された価値基準によって、他者と比較した自分をよりたかめようとする疎外の亡者をやめられないのだから。

 

人を「人間」と「人間以前」にわける差別意識を内面に持っていること自体を問題とみなすことを「心理主義」とか「内面主義」とするなら、「心理主義」や「内面主義」を第一のこととするのは問題がある。なぜなら内面に自分の価値があるので、差別意識をもっていること自体を認められず否定してしまい、さらに問題が陰湿化するからだ。

 

心理主義」や「内面主義」の問題は、実際には自分が社会的に「悪い」意識をもっていること自体を見ないようにしてしまう。また「理解」することとか「愛する」ことなど、情動を伴う感覚を本質的なものとしてしまう危険がある。それらは「自然」な人間の素晴らしさのように思われるかもしれないが、体質的なものにも内面化された価値観によっても形成されるのであてにはならない。

 

自分の内面のいかんを自分の価値とする「心理主義」や「内面主義」ではなく、尊重という文化的なけじめによって人が扱われる社会環境に移行することが重要であるだろう。「好き/嫌い」「理解できる/理解できない」というような自分の延長として他人を理解するあり方には歪みが大きすぎるし勝手すぎる。

 

まずは自分の延長ではない別の存在としての他人を尊重することができるようになったときにはじめてその社会環境は文化的になったといえるのではないだろうか。

マイクロアグレッションという陵辱

無自覚な差別意識の吐露についての話になる。本人は自分が差別意識を持っているとは思っていないが、受けたほうは屈辱の経験として記憶される。丸一俊介さんは、マイクロアグレッションとは「日常的な侮蔑や見下し」ととらえている。そしてその侮蔑や見下しをしていることを言った本人は気づきもしていないことが多い。

 

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差別の問題、また日常的な侮蔑や見下しの問題が、マナー意識とか、意識高い系みたいな受け取られ方があるので、そもそもの話からはじめたい。差別、侮蔑や見下しは、人間を価値ある人間や認められる「人間」とそうでない「人間以前」にするものであるということ。


「人間以前」とは大げさな言い方のように聞こえるかもしれないが、「一人前に対する半人前」とか、未だ社会に根強い「(価値ある)男に対する(価値のない)女」「美しい人と美しくない人」のような、世間において頻繁に使われる言い方にあるものだ。だが頻繁に使われることに何の正当性も根拠もない。もし社会環境がより文化的になったならば、横行するこれらの見下しや侮蔑は、劣悪で非文化的な環境の所産とみなされるだろうと思う。

 

これらの言葉によって実際に「下」にされる人たちにとっては、「人間以前」はその人に屈辱としてずっと残り続ける妥当な言葉であると僕は考える。差別や侮蔑、見下しは人を「人間」と「人間以前」することである。そしてこの行為はその人の実存に深く傷をいれる「陵辱」であると思う。

 

陵辱は陵辱であり、そこにマナーも意識も高さもない。無自覚無理解であっても人を陵辱したことを人として知ったなら、これは世間では普通のやりとりだとか、細かすぎだとか、言い訳で逃げることはできないことだろう。(だが現実にはこうして逃げる人が多い。)

 

丸一さんの記事では、日常的な侮蔑や見下しを受けた人の記憶力や集中力は、露骨な差別を受けたときよりも下がったという実験結果が紹介されている。言っている本人さえも無自覚な日常的な侮蔑や見下しは、明確に否定できる差別よりもむしろ悪質な面をもっている。記事では「日常的にマイクロアグレッションにさらされることで、マイノリティは本来の力が発揮できず、より不安でパワーレスな状態に置かれてしまう」と指摘している。

 

日常的な侮蔑や見下しは、それを受けた人の可能性を奪う。何の気になしにその人の可能性を奪ってしまったから自分は悪くないと自分を正当化することは道理にはかなわない。悪気なくあなたを陵辱してしまったのであるから自分には問題があるわけではないということは成り立たない。やったことと無自覚さは何の免責にも関係ない。

 

以上、差別や往往にして無自覚な日常的な見下しや侮蔑が一部の意識高い系の話し(また意識高い系に「差別」されている自分が可哀想、意識高い系による我々に対する「差別」には断固反対する!というよくある屁理屈は蹂躙を先にした自分をまるで問わない厚顔。)ではなく人を「人間」と「人間以前」に分ける行為でありそれは人間の実存に対する陵辱であること、無自覚さはやったことの大きさを軽減するものではないことを確認した。

 

また、人を「人間」と「人間以前」に分けるということは感覚の話ではない。それは筋の話であるのだけれど、それも理解されていないようだ。「あの人は気にするから(文句いうから)ここでは言わんと別のところで言おう」としても、別の場所で人を「人間」と「人間以前」に分ける物言いを他人がいるところでしているのなら、その人は自身の差別行動や他者の実存への蹂躙をやっていいと思っている。

 

その見下しや侮蔑は周りに伝わり、聞いた人を蹂躙している。社会環境を悪化させているといえる。

 

知ったことか、自分は言いたいことを言うと思うかもしれない。それを止めることはできない。何度抗議しても変わらない人はいる。だからデメリットというところでも提示したいと思う。

 

自分の発言に内在化している見下しや侮蔑、差別に対して、人に伝わる場所で話すのをやめないという場合、もちろんその人はその言動によって「人間以前」にされる人からは信用されず、忌避される。もちろんそれだけでは終わらない。

 

その人の言動が自分の友人や知り合いを傷つけうると判断する人たちからも信用されない。その人と関わりがあっても、自分や自分の友人を守るために致し方なく関係は距離を確保したものになるし、その人を重要な場面に介入させることも、誰かに紹介したりすることも控えられる。もしかしたらその人と友人である、知り合いであるということで自分も同じ価値観を持っている(またはそれを許容している)と疑われるのではないかとさえ思うだろう。


その人は自分の好き勝手なことを言って誰かを蹂躙しているが、それに無自覚な人が周りに残る。そうするとますますその人は他の感覚を持つ人からは忌避されるだろう。忌避は、積極的な攻撃ではなく、その人から自分や自分の周りを守るための致し方ない防衛だ。何を考え、何をいう事も止められないけれど、人はその人が行なっている尊重の水準に応じてその人を信頼する。都合のいい関係を求めるなら、相手からも都合のいい関係をもたれる。

パペットマン

明確な攻撃や差別発言ではないけれども、それを聞いたり見たりする人を消耗させていく言葉がある。


場において相対的に「弱い」人の立場に対して、自分はできる、やっている、(「望ましい」状態に)なっている、義務を果たしているというような「強い」価値(抑圧的価値観なのだが。)を達成していることをその発言のなかに前提させる。あからさまでないにしてもできている自分、あるいはその価値に対して格闘している素晴らしい自分を提示する。

 

世間一般的にはこのような仕草は肯定的に受け取られることも多い。やる側も受けとめられると知っているからこそ、繰り返しその受けのいい仕草をして、同族に賞賛を受けようとする。賞賛でエネルギーを得るのだが、一方でその価値観に否定される人たちはすり減らされる。それはウィンウィンではすんだりはしない。その価値に否定される誰かをだしにしてエネルギーを奪う吸血行為だ。

 

嫌になるほどありふれたそのような欺瞞の仕草や言動とは何であるのか。松岡宮さんの詩「謝れ職業人」はそれを喝破している。一般的に「常識」とされることや「望ましい」とされることが、いかに欺瞞にみちた自慢であり、グロテスクな行為であるのかが伝わってくる。

 

ーー
そう、あなた

今日も働いて働いて

上司に怒鳴られてもがんばって

同僚とのおしゃべりで気晴らして

ときどき仕事でも嬉しい事があるんだよ・・・

それなら

足下を見ろ

そこに横たういくつもの白い腹を見ろ

 

白いブヨブヨした腹を踏みつけてサーフィンしているあなた

イエイ♪ゴーゴー♪しているあなた

内臓破裂の暖かさに包まれている

あなたは

すべての弱いものに謝罪せよ

あなたの強さを謝罪せよ
ーー

◆Miya Matsuoka 活動歴・受賞歴等◆

miya.o.oo7.jp

 

これを読んで反感をもつのか、それとも自分がもつ欺瞞性に思いがいたるのか、反応はさまざまであるだろう。

 

この社会で人が人を尊重するということは、どういうことだろうか。尊重とは誰かの生きてきたプロセスを自分が知ることなど決してできないという不可知をわきまえる姿勢であり、自分が誰かの存在の価値の上下を診断するようなことを決してしないという誓いを言動に反映させることだろう。

 

そんな水準のことはできないと思うかもしれない。世間一般の倫理的水準はここよりはるかに下だ。だから自分はそんな面倒なことはしないと思われても止めることはできない。しかし、やろうとしない人と、間違いをすることが避けられなくてもそこに向かおうとする人の違いはとても大きなものだろう。

 

揺れをもつ人が尊重される向こうに、その人も知らないその人の可能性がある。マイノリティは、マジョリティ受けする仕草(特に一見マイノリティに受容的そうにみせたり、本人が自分はマイノリティに優しいと信じていたりするのがたちが悪い。)を踊り続けて精神的なエネルギーを吸い取り続けるパペットマンのような存在に日々消耗させられている。法律でそういう精神的なエネルギーに対する吸血行為が禁止されていなくても、本当にやめてほしいと思っている。

 

マイクロアグレッションという言葉がある。明確にとがめられる水準にない、微妙な差別発言、往往にして無自覚に人を小さく毀損する言動などをさすようだ。マイクロアグレッションなんてことを気にしていたら何もしゃべることができなくなるではないかと思う人もいるだろうが、それがどれだけの人の時間を毀損し、消耗させているかを想像することは意味のあることだろう。

 

マイクロアグレッションを無自覚に連発している人は、それによって信用を失っており、周りからは表面的な付き合いの対象としか思われていない。人の存在に対して深い尊重を提供する意味を知らない人は、自分自身を様々な可能性から疎外していることも知らない。

 

ある人が存在として本当に尊重される場を文化的な場と呼ぶならば、文化的な場は世間にはほとんどない。日照りで乾いた川だった場所の、大きな岩陰の下にかろうじて残った水たまりぐらいしかない。だが人の存在が本当に尊重されるということがどういうことなのかを知っていこうとするならば水たまりは増えていくかもしれない。

 

副校長が真っ当な批判をするビラを配る生徒を逮捕して警察に突き出したり、亀田製菓に意見する高校生にデマを含んだバッシングを多くがするようなことがまかり通っているこの非文化的な社会環境において、文化的環境を目指し、つくることは今の社会環境で幅をきかせている側にとっては、うるさくて叩き潰したい営為に思えるだろう。

 

しかし自分たちの周りでは、そういう非文化的環境を文化的環境にするという反逆をしていきたいと思う。やまないマイクロアグレッションや人の苦しい経験を自分の見栄えやステイタス確保のだしにすることに対しては反対していく。法律違反でなくても、その言動は環境を非文化的な荒野にすることに対しては、尊重の水準が足りないということは伝えていく。

 

「強い」側の価値(マイノリティに一見「寄り添う」ような装いをするものを含む。)にたって、そうでない人の精神的なエネルギーを日々吸い取って消耗させるパペットマン的行為はやめてほしい。

錯覚の民主制のなかで

毎月、大家さんに家賃を渡しにいく日は、お互いの問題意識を話す機会にもなっている。

 

今日は宮城県大崎市の市民条例(大崎市話し合う協働のまちづくり条例)の話しを聞かせてもらった。大崎市の行政は、よくある他の地域の行政とは違い、積極的に主役を降りて、大崎市民を考える主体としてむかえ、市民条例も行政の官僚的言葉ではなく、市民が日常に使う言葉で作られている。

 

大崎市話し合う協働のまちづくり条例

http://www.city.osaki.miyagi.jp/index.cfm/10,377,c,html/377/hanashiau_kyoudouno_machizukuri_jourei_tikujoukaisetu.pdf

 

香港の人たちは民主主義とは自分たちが行うものと考えていたと思うけれど、こちらの社会では国がやるものだと思われている。仕組みを作るのは自分たち庶民ではない「えらい人たち」であるということがあまり疑問にも思われていない。

 

大家さんが調べたところによると、ギリシアでは、「市民する」という意味にあたる動詞があったという。市民は統治システムによって決められた、動かない名詞ではなく、動的なものとしてとらえられている。

 

動詞の名詞化については、たとえば「ひきこもる」という動詞が「ひきこもり」というように名詞化された時、その名詞に括られた人はあたかも檻に入れられたように自分が動いていく可能性を奪われてしまうという批判がされている。

 

「ひきこもり」という名詞は当事者を過程と見ない見方であるといえる。それは主体を奪う言い方であり、動きをあらかじめ奪うような効果を発揮する。

 

一方、「ひきこもる」という時、それは「ひきこもり」のようなもう決定されてしまった「病態」ではなく、あくまで主体があり、主体の意志があり、過程(プロセス、変わりゆく途中)であることが含まれている。

 

自分は「ひきこもり」なのだと名詞化してとらえるとき、自分は主体を奪われ、選択以前の無力な存在と認識されてしまう。しかし、「ひきこもる」のであれば、それは選択であり、過程であり、自分には選択の力があること、今の状況には必然的な理由があることが含まれている。「ひきこもる」という動詞には、その状況から出ていく糸口の存在も示唆されているのだ。

 

一方、「ひきこもり」という名詞にされてしまえば、その定義は専門家が決めるものであり、その対処法もまた専門家に任せるものとして認識されてしまう。動詞の名詞化は、その重大性が見過ごされているが大ごとなのであり、名詞化自体によって、実際に「ひきこもる」を過程が過程であることを見失わせることによって、なくてもよかった停滞や副作用をひきおこし、当事者から力を奪うものであるということが認識される必要があるだろう。

 

 

「市民する」という動詞が過程を奪われ、「市民」という名詞のみになっているところでは、また「市民」も権威が決めた定義のもと、主体性や自律性をあらかじめ奪われた存在として自身を認識してしまう。

 

だが「市民する」という動詞にあたるものがまた作り出されるなら、大崎市のように市民とは「市民すること」によって生まれてくるものであり、行政に思考をお任せするのではなく、奪われた思考する過程を奪い返していく必然が認識されるだろう。

 

皮肉にも、専門家がつける病名ではなく、自らが自分の苦労を名付けることによって、その苦労の本質を自覚し、受動化されたところから主体を奪い返していくものだった「当事者研究」が、当事者研究の「専門家」によって、専門家の不祥事への向き合いを避け、当事者の内面の問題にするために使われたという「当事者研究の悪用」の告発が今なされている。

 

専門家から主体性を奪い返すためのものであった「当事者研究」もそこに専門家や権威ができると、その人たちの出世や成功に都合のいいものとして使われ、当事者は提供されるツールに従う受動的な存在に固定されてしまうことがわかった。

 

誰かに作ってもらった枠組みに依存させられること、そもそもの枠組み考えたり、調整する体験過程を奪われることが問題なのであり、個々人が本来持っていた環境を変えていく力を無力化し、自身の評価を低いままにとどめてしまう原因になっている。このことに時代は気づく必要があるだろう。

 

国がやっている民主主義とは、選挙制度のようなことであり、それは民主と名づけるにはあまり不足であるだろう。自分たちの地域のことが行政の専門家によって決められ、自分たちにはわかりにくい言葉で決められ、自分たちが関わらなくても、一見まわるような錯覚に陥らされる。

 

民主という言葉を使うなら、思考の主体であり、自分たちが枠組み自体を考える主体性の回復こそが、民主化とよばれるに値するのであり、思考の過程を奪われ、枠組みを調整する資格をあらかじめ奪われているところは民主化されていないと認識する必要があるだろう。

 

さらに根本的に考えるなら、民主という言葉がどういう原義なのかも気になる。作家の赤坂真里氏が「日本人にとって「民主主義」のリアリティはあるか」という投稿において、democracyの由来について調べた経緯を紹介している。

 

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英語圏の感覚を持った赤坂氏の友人たちによれば、democrcyという英語の「cy」は、外来語に用いられる時によく使われるものであり、英語ですらdemocracyは外来語的で、土着感覚がない言葉であるらしい。

 

ギリシア語までさかのぼれば、「ギリシャ語 demokratia の構成は、demos“common people(一般的人々)”、その語源としては”district(地区)” + kratos(支配、力)」となり、「demo はさらに古い形は da であり、「分ける」の意。英語の divide の語源の一部」であるとのことだった。

 

赤坂氏はさらに問いかける。

「なぜ「人々」が、「地区」と同義であり、より古くは「分ける」から来るのか?」と。

 

そこにあったのは、奴隷制という前提だった。

 

「ただ漠然とした集落単位というものはなく、人の集団の単位はいつも、その「管理」と結びついている。」

 

赤坂氏は、日本における小学校区や氏子の範囲などが、市町村区の区分け以上に生活に根付いた実感的な概念であることに言及し、「「管理しやすいように分けた、人々の単位」、それが demos であり、時代が進むと「民衆(common people)」の意味になったのではないだろうか。」と推測する。

 

民衆とは人である以前に、ある地区区分に従属する管理対象、管理資源としてあったのだ。そしてアテネにおいて、民主主義は民衆から生まれたものではなく、皇帝が与えたものだったという。

 

赤坂氏は、democacyと質の良い労働力および士気の高い戦士の大量獲得には密接な関係があったと指摘する。

 

皇帝のために戦うと考えるより、自分たちで自分たちを守ろうと認識したほうが士気は上がる。それは日本における大正デモクラシーの実態とも一致するし、兵士として男性に劣ると位置づけられた女性の選挙権獲得が遅れることとも符合するようだ。そして現代においても、民主制は支配者が行うものである。

 

民、民衆、それぞれに生きている人を一まとまりにし、管理することが前提であった民主主義は、いまだに管理するものと管理されるものを前提に存在するものではないかと思われる。一人一人は、はたして「民」であるのだろうか。

 

動詞が名詞化されるときに主体性が奪われていたように、統治するシステムによって、「民」と名づけられ、「民」であることが本来だ、当然だと信じさせられることによって主体は奪われているのではないか。そのように思わされる。

 

そうかといって、現状を全否定しても何も展開しない。そこで表と裏をただひっくり返す革命のようなことではなく(結局それは支配と管理の発想が変わらない)、思考の主体、環境との関わり方の枠組みを考え調整する主体をそれぞれに取り戻していくことが転換に向かう一歩一歩となるのではないかと思う。

 

皇帝(統治システム)が民衆をして自分たちが主体だと錯覚させながら支配する仕組み。それがいまだに続いている。「民主主義」は到達点ではない。いやもしかしたら到達などというものはないのかもしれない。しかし、この体制内にあっても、様々な水準で、いまだ奪われている主体をそれぞれに取り戻していくということができるだろう。

 

人が主体性を取り戻していくことは、実際上は奪われている主体性、自律性を奪い返していく反逆として現れる。事を荒立てないことは現秩序を補強するが、権力が必ず腐敗するように、そのことは自身が生きている世界の牢獄化をすすめる。現秩序を維持することに加担するのもまた暴力であり、実際は「事なかれ」などではないのだ。

 

しないことが非暴力だと高を括ることなどできない。現秩序の維持と更新のどっちを選んでも、それが暴力性を伴うことは否定できない。だからこそそこに単純な割り切りではない繊細な倫理性が要請され、それが育まれていく歴史的必然がある。

現秩序への反逆としての人権概念

福祉や教育、人権啓発系などの団体が内部では人権侵害している話しがよく聞かれる。企業や大学などのハラスメント委員会や相談機関みたいなものが、実態としては被害者の人権を守るよりももみ消し機能として設置されている話しもまた。

 

日本には「みんなの迷惑にならないよう」とかいうような、通俗道徳はあるけれど、実態として人権という概念は存在していない。

 

人権もあくまで自分たちに馴染みのある通俗道徳(よく聞くと実のところは保身のための処世術なのだけど)の枠組みのなかで理解されるので、今日本で人権として定着したイメージはそもそも人権とは別ものだろう。

 

もしここの社会で昔のアメリカのようなわかりやすい奴隷制があったとしても、それが「一般的」だったら、多分制度を変えることによって混乱がおき、社会の回り方が変わってしまうようなことは「正しくない」と判断されるだろう。

 

そしてそれを変えようとする人が現れれば、「お前のせいで私や私の周りの人が迷惑を受けるんだぞ」となって、周りもそうだそうだとなるだろう。たとえ一定の理解は示す人がいても賛成は決してしない。事を荒立てるのがここの社会では悪だという感覚が幼い頃より強く内面化され、身体化されているから。

 

人権はそもそも一方的に支配される関係に対して、反逆として生まれてきたはずだ。多分、その当時も「民は大事だが暴力的に事を変えるのはいかがなものか」「今の制度以上のものを保証できないのなら無責任だ」という向きもあっただろう。にも関わらず、「社会」を混乱させながら人権概念が提示され、力でそれを認めさせた。

 

「暴力反対」は抑圧的な秩序を敷くものにとっても大変都合がいい。まず自分たちは暴力で土地や富を奪い、裕福な支配階級を形成したのちに、「機会平等」な社会を作って暴力をやめましょうという。ところが裕福なものはスタートラインが違うので、今のこの社会でもかつての士族など特権階級がそのまま富裕層にスライドしている。自分たちが揺るがないようにガチガチに仕組みを作って、見かけ上は平等にする。

 

そしてこの構造的暴力のなかで、どうしようもなく暴発する人は犯罪者として取り締まり、見せしめとして罰を与えるのだ。

 

自分自身もまた通俗道徳(正しいかどうかは問わず、強いものを仕方ないとまず無条件に認め、そこからの自分の被害を最小化する「処世訓」をつくる。そして周りにその処世訓を押しつける。)に浸った環境では何が筋なのかがぱっと見えにくくなっている。だからやはり筋がなんなのかをきちんと確認していくことが必要だ。

 

人権概念の確立とはそもそもみんなが我慢して構造的暴力を黙認した「平穏」を否定した反逆であって、力でそれを社会に認めさせたもの。人権は別に事を荒立てることを悪などとしていないばかりか、積極的に抑圧を解体しようとして生まれてきている。人の本来とはどのようなものか。まだ体験していない人の本来を目指している。

 

社会が自身のいびつさに起因している自殺の増加には向き合わないのに、一方で過剰に「生命」至上主義をとっているのは、一つは自身がかつて行ったようなことを自分にして返されることを防ごうとしていることがあるだろう。

 

「お前の行動のせいで誰かが死ぬことになったらどう責任をとるのだ」ということだ。誰かが社会を揺るがすようなアクションをおこすこと、現秩序に亀裂をいれるようなことなど、「すること」は徹底的に潰そうとし、自殺生産回路である構造的暴力への干渉に対しては「生命」をたてにとる。

 

「する」暴力は悪だが「しない」暴力はどんなにその影響が大きくても許容される。当然に暴発がおこるわけだが、その暴発からは社会的文脈、歴史的文脈が奪われ、その人個人の悪にされる。よって、社会を変えるということは、おこった暴発に対して、本来提供されるべきだったものが提供されていない人間の毀損が問題だったわけで、その人個人だけの責にするのではなく、社会を変えていく契機として応答する必然がある。

 

人権と通俗道徳はその核において水と油のように相反するものだ。

 

なぜならば人権は未完成な現秩序を更新していくこと、人の本来のありようが現秩序によって毀損されている人を本来のありようにもどすことが目的とされているので、そのために現秩序を変えていくということが内在されている。

 

一方、通俗道徳は先にも述べたように、今強い現秩序を仕方なしにであれ受け入れ、それを前提にしたうえで、被害を最小化しようとする保身の処世術であり、それは周りに同調圧力をもって強要される。

 

(もちろん通俗道徳は支配される側が守るものであり、支配する側は何でもありだ。さらには支配するものは通俗道徳をたてにとって、自分たちの都合のいいように人を利用し、搾取しているという自らの意識さえごまかしながら搾取する。べてぶくろにおいて性暴力事件が公になることを抑圧しようとした事例でも、べてぶくろの活動に支障がでるから(=みんなに迷惑をかけるな)と被害者に世間に対する沈黙を強いたように。)

 

ここの社会にいるものにとっては全く位相が違うもので、あり得なさそうなもの。それが人権だ。

 

人権は現秩序を守るものではなく、現秩序に埋没して感覚まで浸かってしまっている自分たちが、本来の人のありようとはどういうものかを既に知ったものとせず、探究的に問いながら、本来の人のありようというその理念の実現に対して踏み出していくことだ。

 

人権概念が生まれたそのそもそもの経緯を踏まえるならば、人権を守るとは細かいマナーを遵守して既にあるものを維持することではなく、隠されているため見えなくなっている現秩序のゆがみを見つけて、「本来の人のありよう」が毀損されている現状況を変えていくこととなるだろう。

 

人権概念はもともと未来志向だ。通俗道徳が現秩序を支配者を認め、既にあるものに閉じるのとは逆だ。人権概念は現秩序への反逆を宣言するものであり、実践として当たり前となっている現秩序を変え次の当たり前に更新していくためにある。

 

さて、冒頭で述べたことに戻ろう。既存のものが人権を守るためには用をなさない状況がある。専門家の診断によって奪われた主体性と苦労(その人として生きている固有のプロセス)を自らに取り戻そうと生まれた「当事者研究」もまた、当事者研究の専門家によって簡単に支配や搾取の道具にされうることがわかった。

 

当事者研究もまた、その枠組みを専門家のような権威におまかせしてしまうなら思考の主体は奪われてしまう。ならば、どこからはじめればいいのか。当事者研究をしても、なおそのことが専門家から研究の対象にされてしまう。

 

しかしこの状況をまた当事者として「研究」していくことが奪われた主体を取り戻していくことになるだろうと思う。つまり社会公共的組織においてもなぜ人権侵害がおこっていくのか、それはどのようなパターンをとり、それに対してどのような対応が可能なのか。そのことを「専門家」にまかせず、自分たちで研究していくことが奪われた主体性を取り戻していくことになるだろうと思う。

 

ハラスメント委員会がなぜもみ消しをするのか、それを宿命論的に認め、世界とはこんなものと絶望し、孤立するのではなく、客体化され、無力で自分に必要な枠組みを自分で考える力がないと位置づけられている当事者たちがそれを逆に「研究」していくということができる。世界とはなんであるかを確かめていくのは専門家ではなく、自分なのだというところに戻る。そしてこの現状を変えていくのまた自分だ。

 

隅に追いやられ、何の能力もないと思わされているけれど、自分なりに確かめていく必然があることは確かめていける。そして環境をつくりだしていくこともできる。「専門家」が管理するこの社会において、お客さんになり、その結果好きにされるところから逸脱していこうとするとき、自分にふりかかってきた必然に応答していくという選択肢がある。

 

そしてこの主体化は、まだ知らない「本来のありよう」を問い、探究するものであり、環境を実際に変えていくものとなるだろうと思う。

認識の変遷 「場づくり」から「結果的な接点づくり」へ 

大学時代、四国八十八ケ所めぐりをやってみて思ったことは、人は適切な環境とそれを生かす媒体(まるごとの存在が保証されながら同時に固まってしまった自分が揺り動かされる状況が併存するような。)があれば、そこで自律的に変化や回復をしていくということだった。


それまでは心の構造をより知れば自分の理解が深まるという認識だったのが、場の状態とそれによる自分の状態の変化を感じとるような感覚がもどっていけば、既知の知識で自分をコントロールしようとするよりもずっと自然に滞りを打破して変化できるようだという認識になった。

 

以後、「技法」みたいなものよりも、場とは何か、変化がおこりうるような場はどのように生まれるか、ということを考えはじめた。

 

いかに直接に意思で働きかけず(直接だと自分にも他人にも抵抗と反動が生まれる。)、強迫的になってしまうような目的を設定せず、逆に世間では当たり前のように価値として提示される強迫の影響が一時的に気にならなくなるような、打ち消されるような、意識が普段向きがちな焦点をいい意味で奪う「建前の目標」のようなものを設定するか。強迫的なものが打ち消されたとき、自律的なものが動きはじめる。回復が回復しはじめる。

 

そういうことを考えてきたけれど、今年から、自分が関わっている畑のオープン日をもうけてみて、ぽつぽつと人が来るようになって、また見えかたが変わった。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

どうしても自前で構成した場をあつらえなければならない、ということはない。世界は本来多様であって、それが様々な社会的制約によってコンクリートで三面張りした河川のように画一化されて、多様な個々人がその変化に必要な体験をする環境が奪われているけれども、それでも個々人はやりとりのなかで、一時的に発生するような場において、間隙を縫って自分に必要な体験をしようとしていて、自分の「時間」を動かそうとしている。

 

前にお世話になった西海岸というコミュニティでは、町家の1階が24時間解放されており、様々な人が交流していた。面白かったのは、茶の間でおとなしい人、発言しない人たちが、食事会の時の皿洗いなどをするというかたちで、茶の間とはまた質の違うやりとりをしていることに気づいたことだった。

 

みんなを同じ場にポンとだしてそれぞれに必要なやりとりがおこるわけではない。それぞれの人に必要な環境のグラデーションがあり、そのようなグラデーションにおいて自分はどこにジャストフィットするのかはその人自身さえも言語化したり認識するのは難しい。しかし必要なグラデーションが先に存在すれば、その人は感じとり、自分をそこに置くことができる。

 

変化は自律的なものの自律的な変化であり、それを邪魔しているものがあるので、その邪魔をとるというふうに考えるのがいいと思っている。対象を「変えよう」とするのではなく。

 

個々人には自分で場を感じとる力があるので、自前で場を用意して待つのでなくても、自分の既知の外の世界に関わっていく何がしかの活動をしていくなかで、そのような「誰かにとって一時的にその人の時間が動く」場は派生的に次々に生まれているはずだ。

 

ある環境にどのような文脈が横たわり、交差しているのかは、釣りをするときにそこに魚がいそうかどうかのような、あたりをつける感覚や試行錯誤は必要になってくるけれど、自分個人がやることは「場づくり」というより、「結果としての接点づくり」でいいように思うようになった。世界は本来的には多様であり、人も自律的に必要な場所に自分を置くことができるのだから。

 

「結果としての接点づくり」はねらってないところにおきる。なので、自分にとって必要な体験をするための活動(自分がそれをやっていることで、自分に必要な体験が結果として提供されるような活動)はそれとして必要だ。

 

ただそこに全ての重心をかけるのではなく(かけるとうまくいかないときバランスを崩してしまうし、余計なアイデンディティになってしまう。)、派生的に生まれるものの面白さを楽しみ、派生的に生まれてきたものによって自分が更新されながらやっていくという感じがほどよいのかと思う。