降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

10/16 DIY読書会発表原稿 宇井純『自主講座「公害原論」の15年』

【はじめに】
 小松原織香さんが開いている環境と対話の会で扱われていた本。1970年から1986年まで東大で行われた自主講座の講演録。公害を扱う学問がないなかで、自ら学ぶ場を作った活動。野外で行われた講演には1000人がきたこともあった。1970年からこんな大きくユニークな活動がされていたのかと驚いた。公害の問題の構造(企業寄りの行政、専門機関である企業の隠蔽と改ざんなど)は現代とまるで変わるところがないように思える。時代に対して、変わらない問題に対して、自分たちで学びの場をつくるとはどういうことかをこの本を通して考える。

 

【読んだところ】
第一部
Ⅲ 現場からのレポート 

1、銚子火力反対運動から 2、イタイイタイ病論争 3、高知生コン闘争 4、白杵・大阪セメント反対運動 5、マンション建設反対運動 6、高知生コン闘争、その後 7沖縄アルミ工場進出阻止の運動から 8、東京都の公害現場にて
Ⅳ 1、国際人間環境会議報告 2、海洋の物質循環と人間への影響 
Ⅴ 1、カネミ油症の患者として 2、カネミ油症の最初の認定患者 3、豊前火力と闘う作家 4、四日市公害の証人として 5、渥美火力と自主調査 6、よみがえれ石狩川

 

第二部
座談会 自主講座を生み出したもの
自主講座が生まれたころ 自主講座開講前後 公害原論との出会い 自主講座と私

 

【感想】
 当時、地方の都市は行政だけでなく、住民も大工場誘致に賛成だったという。実際に空気が汚染され、川が汚れ、魚が取れなくなるということもおこるが、四日市などでは喘息はもともと喘息だった人が工場のせいで喘息になったと嘘をついているなどと、非難する街の住民も出てくる。利害関係が住民同士の分断もうんでいる。

 

 行政は基本的に工場誘致の推進派なので、企業側にたっている。住民を黙らせようとして、これは基準値以下だとか、工場や発電所のせいではない、ということを嘘を捏造してでもやる。反対ができたらいいけれど、ただ単に被害を受け、黙らされて死んでいった人もいるだろう。住民たちは、企業や行政の嘘をあばくために、自ら専門家を雇ったり、調査方法を身につけていった。そうでなければ現状は悪化するばかり。作物や魚が取れなくなるという現状があったとしても、エビデンスをもってこなければ相手にされない。環境庁もわざと汚染の数値が下がるような方法を用いて調査をしたりしている。

 

 嘘の発表、データの改ざん、汚職構造の温存など、今の原発の問題と当時の問題は変わらないように思えた。自主講座では、驚くほど多様な人たちが講演した。革新自治体の長であったり、それを批判する市民団体であったり、行政内部の人であったり、被害者であったり様々だった。被害者の行き場のなさは身に迫ってくる。カネミ油にPCBが入っているとは知らず、それを利用し続けて一家でカネミ油症になった家族。中学生の娘は顔にできた黒ずみを取ろうとして爪で肉ごと除去しようとしていたとのこと。自然に治らない新しい病の恐ろしさ。1968年におこったカネミ油では今なお被害者は苦しみ、なぜ自分たちがここまで苦しまなければならないのかという思いに苛まれている。 

 

this.kiji.is

 

 講演の発表者たちの意見は現実的で、深く考察されたものであると思った。もし彼らの意見を国が受け止めるなら状況は本質的に改善されるのだろう。しかし、そうはならない。提案したことも骨抜きにされて意味のないものにされてしまう。

 

 自主講座を主宰した宇井純さんが、この組織をずっと続くものとしなかったのはとても興味深い。初期はよかった組織が代を経ることに本質を失っていく事例は事欠かない。組織とは即興的なものであり、生きているプロセスであるとするならば、そのプロセスを生かし続けることはできず、なお維持しようとすれば、そこには死に切れない別物が生まれるだけなのかもしれない。

 

 前回の『暴力の哲学』の発表でもあったように、かつては公共的な理念があった組織もやがて自己利益の追求が目的になっていく。また世間も幼稚園が近くにくるのは反対し、薬物依存症者回復施設が立つことも反対するように、市民も公共的な存在を担っていたところから、他者から邪魔されない自分の享楽と安楽のみを追求することにはばかりなどなくなっている。かつてかたちがあったようなもの何もかもが、ドロドロと溶けていくような現状のなかで自分たちはどう生きていくことができるのかと思う。

 

 僕は今までのいわゆる社会運動とは少し違ったアプローチがあるのではないかと思っている。現代において、人は自分が感じていることを乖離させたほうが生きやすい。しかし、その乖離によって、その人は自分を現状から回復させていくことも、自分の力を増幅させていくこともできなくなっている。

 

 現代の人は自分の考えや感じ方を持った自立した個人ではなく、自分の考え以前、自分の感じ方以前の状態にいると思う。それをまず取り戻していく必要があると思う。DIY読書会をひろめようと思ったのだけれど、読書会はまだ敷居が高いかも、と思い直し、鶴見俊輔のリードインを各地でやっていくのはどうかと思っている。

 

 リードインは、参加者が他人と自分の言葉(文章)を持ってきて、それを紹介するという非常にシンプルなもの。しかし、まず他人の言葉という導きがあり、そこに自分の感じていることを添えるという行為のなかで、自分の思考と感受性がリハビリされていくと思う。意見以前、感じていること以前の状態では、まずはそこからはじめていく必要があるかと思う。

 

 色んな場所でリードインをやっていきたいと思っています。皆さんも自分のスペースや関わりのある人の場所など、リードインをやってみるのも面白いと思われたらぜひ一緒にやらせてもらいたいと思っていますので、お声がけください。

 

後記:リードイン、次回11月5日(火)19:30〜の読書会の時にやってみましょうかと提案があり、次回にやることになりました。

【感想】修復的司法×水俣×吉田寮〜対話の場を支えるもの〜

永野三智さんと小松原織香さんと吉田寮の人たちの座談会。

 

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それぞれかなり踏み込んだ自分の体験やプロセスからのお話しだった。それぞれの人、環境、お互いや主催者との間の信頼感がなければこの水準での話しがされることはなかなかないんじゃないかと思った。

 

当事者としての体験から「対話」に向ける思いと、対話の「効果」を期待することの誤りがここでも指摘されていたと思う。語りからは、問題が解決されたり、緩和されるために「対話」があるのではないということが再確認された。

 

一方で、問題を解決したり、緩和するためのものとしての、世間の言葉としての対話はもうなくならないだろうなと思った。変な言葉として使われ、消費されていくだろう。言葉がだめにされるというのはこういうことなんだろうなと思った。都合よく使う人たちのプロパガンダみたいに使われて、その結果その欺瞞や空虚さがその言葉のイメージになる。

 

ふと糸川勉さんが「自己満足」という言葉をいい意味で使っていたのを思いだす。世間では、この言葉は批判する時に使われる。(最近は言う人が少ないだろうか? 保育園つくるなとか、薬物依存症回復施設つくるなとか、最低限だった建前すら崩壊していっているなかで、自分だけ良ければいいは特に恥ずべきことでもなくなっているのだろうか。)

 

糸川さんの「自己満足」は、世間におもねることのない、深い満足のことだった。孤独をへて社会の問題に向き合った人が生み出したものは、抑圧的な規範に亀裂をいれ、新しい質を周りの人に体験させる。坂口恭平さんなら「プライベート・パブリック」というだろう。そのようなものがやがて次の公共性を生んでいく。

 

既成のものの権威にすがって自分を保っている人は新しいものは受け入れられない。自分の価値観に対する反逆のように感じられるのかもしれない。「自己満足だ」と否定する。糸川さんの「自己満足」はそれで上等だ、とそういう人たちに対する反逆の態度をこめた言葉なのかもしれない。

 

僕は、一つの言葉には使うに値する質が必要だと思っている。そして、もしある言葉に使うに値する内容があるとしたならば、このような位置づけになりうるのではないかと逆から定義することもある。思考していくにはそれが必要な行為だと思っている。

 

それは以前から述べているように、ある言葉には見えにくい前提があり、既にその前提のうちに結論を内包しているからだ。だから間違った前提が見えない限り思考は必ず間違った方向に導かれる。思考する意味がない。むしろ思考するとは、自分が無自覚に取り入れている見えにくい無自覚な前提を破綻させ、そこから抜けていくところに意味があるのではないかと思う。

 

ある言葉が使うに値しないというのは、その言葉自体が特定のバイアスを持っているために、思考を閉じた方向、誤った方向に導くからだ。真に受ければ真に受けるほど、使えば使うほど間違った方向にいく。抑圧的な結論になる。

 

もし対話という言葉に使うに値する位置づけがあるなら、それはするものでもやるものでも、しようとしてできるものでもない。対話は目的たりうるかもしれないけれど、手段ではない。問題解決、問題の緩和のための意図的な話しなら、別に「対話」のような、深い内容があるような、思わせぶりな誤解を招く言葉を使う必要はなくて、相談、折衝とでもいっておけばいい。

 

手段では成り立たないのに、なぜ対話が目的たりうるかというと、それが対話がおこりうる開かれた態度、柔軟な態度、人を大切にする態度や関わりをもたらすからだ。対話を「おこる」ものとして設定することの意義は、実際の態度を設定することだ。

 

「対話し続ける」「対話を諦めない」とは、実際には開かれた態度と応答をつづけるということであり、自分は「対話」をやっていると本気で思ってしまったら、それは既知のものにたかを括った態度になっているのであって、それは対話がおこる態度ではない。対話がおこるような態度、応答を続ける。対話がおこるような環境(自分も含む)の設定やを整えをする。それが人間にできることなのであって、状況や相手を直接操作できるように思う傲慢は、動こうとしている変化のプロセスを止める。

 

話しのなかで、「待つことだと思う」という言葉がでた。変化は自律的なものであり、それ自体の「時間」をもつ。「待つ」ということは、物事にそれ自体の自律性を認めるということ。人に対してこの理解ができないということは、人を操作対象としてしか認識していないということだ。それは人をモノとしてみることであり、そうされることによって人はさらにその人の時間を止めてしまう。

 

遺伝子操作でもしなければ、植物をどう操作しようがそれ自体のなかで決まっている時間やプロセスをこえて実をならすことはできない。ただ環境を整えることで、そのプロセスの滞りをとることはできる。それが人を対象にした途端、直ちに操作に有効な手段ばかりが発想される。その発想とアプローチ自体がその人の時間を止め、変化を停滞させるのにもかかわらず。

 

平和省は戦争に関わり、真理省は虚偽に、愛情省は拷問に、そして潤沢省は飢餓と関わっている。こうした矛盾は偶然でもなければ、一般的な偽善から生じたわけでもない。ジョージ・オーウェル『一九八四年』

 

重要な言葉が、真逆の内容をいれられて殺される。オーウェルの話しのなかだけではなく、世間では本当にそうされていく。

 

対話という言葉が、決まったゴールに対する働きかけを意味するなら、対話という言葉は使われなくなってもいいだろうと思う。真逆のことがされているから。

 

座談会のなかで直接的な言葉としてはあまり出なかったけれど、永野さんと小松原さんのお話しは、赦しとは何かということについてのお話しでもあったような気がする。自らが自らの罪を認識し、その罪に問われながら、探している。その姿自体が社会や人に与えるものがあると思う。

 

吉田寮には70人か80人ぐらいの人が来ていたかと思う。40年前に大学が寮生を追い出したり、提訴するなどと考えられなかったと衝撃を受ける人もいた。教授会で決められた決定も理事会ではひっくり返すことが可能であり、理事会が権力を握っているという現状も報告された。また京大がかつてアイヌから奪って来た遺骨の返却をいまだに拒み続け、当事者の門前払いを続けていることも伝えられた。

 

 

マズローピラミッド

マズローの古典的なピラミッドがいまだにあちこちででてくるのはどうかと思っている。

 

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ずらずら出てくるマズローピラミッド

 

 

そこでマズローが本当はどう考えていたか、という問いももちろん重要だと思うのだけれど、そこまで押さえないと批判したらいけないということでもないように思う。

 

現状として流通しているものがおかしいので、延焼を止めるようにまずその影響を打ち消すことと、真理とは何かを吟味し検証して蓄積していく手続きは、別々に考えたらいいのではないかと思う。

 

そう思うのは、誰か(は、やってほしいが。)が原典にあたって正しいことを見つけてそれを周りに伝えていく影響に対して、扇情的な情報が伝言ゲームを介して延焼していく影響のほうが圧倒的だからだ。

 

それが本当に正しいかどうかなどの確認はどうでもよくて、その扇情的な部分だけを人に伝えたい動機を持つ人が、扇情性を打ち消された情報を受け入れて訂正したりするだろうか。その労力は別の扇情的な話題を入手することに向けられるのではないだろうか。

 

おかしいことは、おかしい。そこは取り戻される必要があると思う。

 

プロや専門家が集団になって原発神話ができたのだから専門家にまかせているだけではいけない。考えてみてほしいけれど、専門家とはつまり部分的であることを意味していて、部分にしか責任を持てないし、専門外のことを考えなければいけない責任もない。その人は専門家以外の部分では素人であり、ただの消費者だ。

 

小出教授が原発関連の議論で推進派に勝った時、こう言われたという。「小出君、僕にも家族がいる。生活があるんだ」と。世間の専門性とはつまり現金収入のためのものだから、専門性のもつ政治性を無視して鵜呑みにした結果は、悪影響を受けた人の「自己責任」に転嫁される。

 

巨大な社会になったとき、決定を専門家だけに任せるということは、利権の拡張を動機として限定的な分野にしか通用しないことが世間一般に敷衍化されていくのを好き放題にさせるということだろう。

 

社会に責任をもつ人は、専門だけに閉じこもることはできないはずだ。また同時に、抑圧の現状を目撃し、違和感を持った素人が、勉強不足ゆえに自分は発言の資格がないと思わされる(対案を出せ、もまた。)のもおかしい。放射線が高くなって住めなくなった地域があるという実際をもてば、おかしなことに異議を申し立てていく資格のない人などいない。

 

マズローのピラミッドは、あたかも自分も高次の欲求をもちたい、持ったほうがいいというようなまるで明後日の方向に意識を向けるだろう。きらびやかな自己実現(「自己」と頭につく言葉はよく考えるとどこかおかしいものが多い。)によって本当の自分がやってきて、幸せがやってくる。

 

だがきらびやかなものに強く高揚させられ、魅せられるのは、そうではない現状を覆い隠せるからだ。みたくない、感じたくない弱さ、惨めさ、苦しみ。溢れる光によるホワイトアウトで見たくないものを見えなくするために高揚するものを求める。

 

高次の欲求とは裏返せば根源的な苦しみだと思う。素敵な欲求があるのではなくて、苦しみ続けているからなお充たされない欲求がある。ピラミッドや高次というあてはめは、きらびやかなものがあるかのように錯覚させる。我を忘れられるようなきらびやかさを求めること自体が、現状の否認のためのものなのだから、そろそろマズローピラミッドも換骨奪胎されて、別の図に移行される必要があると思う。

対話と対話でないもの

読書会で、対話という言葉がブームみたいになっているけれど、相手に自分と話せと強制したり、最初から自分と同じ結論にさせるつもりしかないときまで、対話という言葉が使われている現状についての話しがでる。

 

世間で流通する言葉は、明後日の方向に向いていて無責任なものも多いので、真に受けると生きづらくなる。なぜ流通するかと考えるとき、それは言うことを押しつけられる(強い)人が自分に都合のいい言説を採用するからじゃないかなとも思う。

 

押しつけられた人は、自分がおかしいのかなと思いもするが、自分からみて周りの「カースト」の高い人たちが採用しているのをみると世間とはそういうものだと内面化して抑圧し、同じような状況をみたとき、抑圧されている側の自然な気持ちの現れを、わがままに感じ、怒りを感じ、攻撃までしてしまう。

 

誰かちゃんとした人が世間の「対話」は違いますよと否定すればいいのにと思う。そうしているのかもしれないけれど、そうしたところでそれが波及などしないということなのか。

 

おかしな言葉、おかしな考え方が流通しているとき、自分たちで自分たちの身を守ることが必要なのかと思う。その言葉とは何なのか、その考え方とは何なのかを吟味し、小集団で共有する。おかしな言葉は、はじめからおかしい結論をそのうちに含んでいるので、その言葉を使って考えたものは考えたようで、その言葉を使った時点で最初から決まっている結論になる。

 

対話自体を直接的にはできない。世間の「対話をしましょう」は好意的に受け取るならば、自分の持っている前提とか価値観を直ちに正しいものとして主張する姿勢をいったんおいて、相手の話しをまずはきちんと聞きながら話しをしましょうというところかなと思う。

 

そこで実際にやっていることは、自分が謙虚になる、無知を認める、攻撃しない、ともに探究的になるといったようなことだ。その土台のうえではじめてお互いの見えているもの、感じているものが変化するようなことがおこる。

 

最初からプレッシャーを与えて、自分の間違いなどないかのように相手に話しかけたり、自分の主張しかないようなことを対話と呼んでいるなら、それは対話という言葉を使って、対話がおこることを放棄している。『一九八四年』的。それが蔓延すると、対話という言葉自体が胡散臭くなって捨てられていくだろう。

 

付箋 on Twitter: "平和省は戦争に関わり、真理省は虚偽に、愛情省は拷問に、そして潤沢省は飢餓と関わっている。こうした矛盾は偶然でもなければ、一般的な偽善から生じたわけでもない。それらは二重思考の計画的な実践である。 - ジョージ・オーウェル「一九八四年」"

 

 

 

世間をコントロールしようとしているような人は、良さそうな言葉を自分の都合に歪めて使えるだけ使って、受けが悪くなったら捨てて、次の言葉に移行するのでいいのかもしれない。

 

ある言葉、ある考え方が本当に妥当なのかどうかは、専門家にまかせておけばいい問題ではない。そこは自律する必要がある。そうでなければ、自分の思考もそのまま侵食されていく。間違った考えでも、それが大きく叫ばれるようになれば、あるいは声の大きな人がいうようになれば、コントロールしようとしている人の好きなように流されてしまう。

 

最近思うことは、もし自分の考えや感じていることがのびのびいえて、応答(一方的な主張とか抑圧ではなく。)が返ってくる環境が周りになければ、人は正しいことを正しいとも思えなくなる、ということ。自分の感じていることが間違いのように感じ、思考はぐるぐると同じところをまわってひずんでいく。そして多くの人にとっては、その環境が日常なのだということ。

 

そのような環境は行政や企業のサービスにまかせておけない。自分の周りで醸成していく必要がある。自分で自分の感受性を守れ、と言った詩人がいたけれど、応答的な環境が用意されないと、自分の思考や感性は守れないし、その思考や感性が他者との応答的やりとりを通して更新されていくことによって、はじめて健全さを保ちうると思う。

 

対話は、相手をコントロールしようとする意図を排したところ、その意図が消えたところにおこる。相手をコントロールしようとすることと対話は決して相容れないものだ。どちらかがたてば、もう一方が成り立たない。そういう関係だと思う。

 

対話は、問題解決をしない。対話は意識されていなかった問題、無自覚だった問題が発見されるためにある。既にイメージされていることを遂行するために行われたことは対話ではなく、管理や調整にすぎない。

 

既知の世界の見え方、感じ方が更新され開かれたとき、そこでは対話がおこったといえると思う。対話は手法でも道具でもない。出来事だと思う。ある手法自体を対話とよぶのは、周りに後退的な勘違いを生むだろう。意識的にやれることは、自分の武装解除であり、自他の自動的な防衛的反応をよびにくい環境の設定(手法を含む。)だと思う。

 

コントロールの意図をもち、問題解決に直接向かおうとするやりとりは、対話ではない。コントロールの意図が打ち消された時、対話は生まれやすくなり、対話がおこったところでは問題が発見される。その問題は無自覚であったけれど、重要な問題であり、お互いを人間にしていくような問題だ。

【10月の催しもの】 吉田寮水曜ゼロ円飯(炊き出し) 熾(おき)をかこむ会 修復的司法×水俣×吉田寮他

【10月の催しもの】

 

→9月より熾(おき)をかこむ会は第二火曜日の14時〜17時になりました。西川勝さんは、お仕事の都合で熾(おき)をかこむ会には来られなくなりましたが、同日18時半からの星の王子さま読書会には来られます。

DIY読書会はまた19時半開始にもどりました。

 →10月9日水曜日に京大吉田寮でイベントと炊き出し(300円カンパで食べられます。炊き出しの名前は水曜ゼロ円飯。)

 

10月8日(火)14時 熾(おき)をかこむ会 場所:茶山KPハザ

10月9日(水)19時 修復的司法×水俣×吉田寮〜対話の場を支えるもの〜

10月9日(水)19時 吉田食堂炊き出し 水曜ゼロ円飯(300円)

10月16日(水・祝)19時半 DIY読書会 場所:ちいさな学校鞍馬口

10月23日(水)19時 吉田食堂炊き出し 水曜ゼロ円飯(300円)

10月25日(金)19時 私の探究・研究相談室 場所:本町エスコーラ

10月27日(日)13時半 話しの場研究室 場所:ちいさな学校鞍馬口

 

 

  

【10/8(火)熾をかこむ会】

時間:14:00〜17:00

場所:茶山KPハザ(京都市左京区田中北春菜町34−4 白い四階建のマンション「洛北館」の西向い奥)

内容:

焚き火の灰のなかに眠る熾(おき)に空気をあてるような話しの場という趣旨の熾(おき)をかこむ会は、9月より第二火曜日の14時から17時に日程が変わりました。

僕は、成長や回復という言葉を積極的には使いません。人間の生というものが、積み重なっていくこと、「発展」していくことを本質にしているようには思えないからです。

体全身に血管が張り巡らされ血が流れているように、僕は精神を通路のように想像しています。そしてそこに気が流れているようだと思っています。その通路の一部分が狭くなっていて「気詰まり」があったりします。色々抱え込んでいると、通路はその分狭まっていきます。

生きていくなかで、色々なものを抱え込み、気が流れるその通路がだんだんと狭くなっていくときがあります。また、ものごころついたときからすでに、何かすっきりとしないもの、自分の精神を詰まらせるものもあるようです。

燃え残りである熾(おき)に空気をあてるように、自分のなかに眠っていたくすぶりを少し話しの場に出すと、それはとむらいが済んだように灰になって終わっていくことがあると思います。

精神の通路のなかにある詰まりを取り除いていくとき、血行がよくなるように、生きている感覚もめぐりのいいものになると思います。何かを付け加えるのではなく、すでにあるものを取り除いていく。精神にとって、何を獲得しなくても、気の通りがよくなればそれだけでいいのではないかとも思うのです。

初めての方もどうぞ気兼ねなくお越しください。

 

【10月9日(水)19時 修復的司法×水俣×吉田寮〜対話の場を支えるもの〜】

内容:

小松原織香さん(龍谷大学)・永野三智さん(水俣病センター相思社)座談会
修復的司法×水俣×吉田寮 ─対話の場を支えるもの─
10月9日(水) 19:00~22:30 於・京都大学吉田寮食堂 
入場無料(カンパ制)

小松原織香さん(龍谷大学)・永野三智さん(水俣病センター相思社)座談会
修復的司法×水俣×吉田寮 ─対話の場を支えるもの─
10月9日(水) 19:00~22:30 於・京都大学吉田寮食堂 
入場無料(カンパ制)

 一般的な裁判のプロセスとは異なった問題解決の方法として世界中で注目を集めている「修復的司法[Restorative Justice]」の研究者・小松原織香さんと、水俣病患者相談窓口の実践を続けてきた永野三智さんとの座談会を通じて、「対話」の可能性をさぐる座談会を行います。
 座談会が行われるのは京都大学吉田寮吉田寮生たちはこれまで補修に向けた話し合いを求めてきましたが、京都大学はついに吉田寮生を提訴しました。裁判が始まってもなお吉田寮生たちは、提訴の取り下げと対話の再開を呼びかけ続けています。

 

【10月9日(水)10月23日(水)ともに19時 吉田寮炊き出し 水曜ゼロ円飯】

場所:京都大学吉田寮食堂

内容:

吉田寮生はゼロ円で、寮外の人は300円のカンパでご飯が食べられます。吉田寮食堂に入ったことがない方はこの機会にいらしてみませんか。カンパは吉田寮支援にまわされます。

twitter.com

 

【10/16(月・祝)DIY読書会】

時間:19時半〜

場所:ちいさな学校鞍馬口(北区)

内容:

宿題なしで、自分が読んできた本を任意で発表したい人が発表する形式の読書会です。毎回3人ほどが発表します。僕は9月に引き続き宇井純『自主講座「公害原論」の15年』を発表します。

 

【10/25(金)私の探究・研究相談室】

時間:19時

場所:本町エスコーラ(東山区

内容:

 

 毎月第四金曜日の夜19時から本町エスコーラで探究の相談お話し会を行なっています。今月は25日(金)です。

 

学校が終わっても、自分の探究や自分の研究をもってみませんか。

 

自由に、自分が一番関心をひかれること、既にある分野や学問に必ずしもこだわらず、自分の探究・研究したいことに取り組んでみると、思わぬ世界が開いていきます。

 

連続して参加する人、初めて参加する人、どちらも大丈夫です。前の回から自分の研究テーマをもって研究が進んだ人、あるいは行き詰まった人はそれをぜひシェアしてください。

 

【10/27(日)話しの場研究室】

時間:13:30〜

場所:ちいさな学校鞍馬口(北区)

内容:

8月よりはじまった集まりです。月に2回やっていましたが、10月は27日のみです。自分が持っている場がある人、これから場を持とうと考えている人が自分の場をどのように自分の求めと近づけられるかを考えます。

 

世界の終わりがきても 緒方正人さんの言葉

環境は変えていく。必要なことはやっていく。

 

それぞれの考えがある。しかし、ゴールが「社会変革」だと思わされるところで、打ち棄てられる存在がある。緒方正人さんの言葉を読みなおす。

 

急にあと数ヶ月の命になったとき、逆に取り戻されることがある。人は、基底部分では、明日なき存在。そこが見えなくなるとき、人間性の抑圧は、疑問も抱かれずに、善意として浸透していく。

 

白人女性の警官が14時間勤務ののち、アパートの自室に帰ったと思ったら黒人男性がいて射殺した。そこは一階上の黒人男性の部屋だった。部屋には鍵がかかっていなかった。自分の勘違いで他人の部屋に侵入し、人を射殺した。

 

知り合いが若いころお世話になった親切な夫婦は、高速道路で重い物を積んだ隣のトラックから荷物が落ちてきて亡くなった。

 

砂浜でパートナーを驚かせようとして、とても深い落とし穴を掘ったら自分もろとも落ちて二人とも死んでしまった。

 

人の救いは、社会変革とはまた別のところにある。人は考えうる限り最高の環境があったとしても救われないことがある。人のその脆弱性、その存在のちいささ、意味のなさを忘れてしまうと、救われない人は増えていく。

 

「救いというのを社会を変革することというふうに考えないほうがいい。俺が多数ということに関心がないのはそのせいです。「人」が救われればそれでよかですたい、俺は。社会変革とか多数とかへ向かうと、コントロールしようという意志が働く。ひとりでも救われればいいという気持ちに徹することだ。そしてほんのひとりとでも出会えたらいいという思いが、俺をコントロールとは逆の方向へと運んでくれるだろう。ひとりひとりに出会う。結局これしかないんです。これがあればこそ、たとえ世界の終末が来ても、あの人がいる、この人がいる、と心に思い浮かべることもできるというもんです 緒方正人『常世の舟を漕ぎて』」

 

当事者研究のグラデーション

昨日話していたこと。

 

当事者研究は今は精神福祉領域周辺のものとして受け取られているけれど、『みんなの当事者研究』でも上野千鶴子さんが言及したように、フェミニズムも「当事者研究」であったと思う。

 

www.kinokuniya.co.jp

 

精神福祉周辺の当事者研究界隈では、ジェンダーの視点がほぼ共有されてなくて、よって抑圧に非常に無自覚なところがある。これはハラスメントではないかということがなあなあにされるところ、冗談の範疇にいれられて問題視されないところを散見するので、この雰囲気に耐えられず来れなくなった人たちはいると思う。

 

一方で精神福祉周辺の当事者研究に加えてフェミニズムにも関わっている方からは、ジェンダーだけが主題化されているとそれはそれで息苦しいところもある、精神福祉の当事者研究界隈でほっとするところもあるという感想も聞いた。

 

領域間の乖離は大きく、先の京都の文化庁抗議でも、問題は表現の問題だけではないのに、純粋に「表現」だけにしか反応しない、興味を持たない「表現の人」たちの姿には消耗させられたという声もあった。

 

自分たちの、他とは「独立」した経済圏、勢力圏に直接関することなら反応するけれど、そういう姿勢自体が同時に世間がマイノリティに無関心で普通に見捨てていくマインドの再提示そのものであるということなのだろう。動いている人ですらそうなのだから・・・とより深い失望を感じてしまうのは、その人の個人的な感性ということにおさめられるようなことではないと思う。

 

当事者研究は、精神福祉界隈に限らず、それぞれの分野、それぞれの場所で立ち上げられる必要があると思う。同じ分野のように見えるところでも、様々なグラデーションがあるのだから、それだけの当事者研究の場が必要だと思う。多くの人は、複数のマイノリティ性を持っている。それが一つだけに集約されてしまうとき、そこには抑圧が発生している。