降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

対話と対話でないもの

読書会で、対話という言葉がブームみたいになっているけれど、相手に自分と話せと強制したり、最初から自分と同じ結論にさせるつもりしかないときまで、対話という言葉が使われている現状についての話しがでる。

 

世間で流通する言葉は、明後日の方向に向いていて無責任なものも多いので、真に受けると生きづらくなる。なぜ流通するかと考えるとき、それは言うことを押しつけられる(強い)人が自分に都合のいい言説を採用するからじゃないかなとも思う。

 

押しつけられた人は、自分がおかしいのかなと思いもするが、自分からみて周りの「カースト」の高い人たちが採用しているのをみると世間とはそういうものだと内面化して抑圧し、同じような状況をみたとき、抑圧されている側の自然な気持ちの現れを、わがままに感じ、怒りを感じ、攻撃までしてしまう。

 

誰かちゃんとした人が世間の「対話」は違いますよと否定すればいいのにと思う。そうしているのかもしれないけれど、そうしたところでそれが波及などしないということなのか。

 

おかしな言葉、おかしな考え方が流通しているとき、自分たちで自分たちの身を守ることが必要なのかと思う。その言葉とは何なのか、その考え方とは何なのかを吟味し、小集団で共有する。おかしな言葉は、はじめからおかしい結論をそのうちに含んでいるので、その言葉を使って考えたものは考えたようで、その言葉を使った時点で最初から決まっている結論になる。

 

対話自体を直接的にはできない。世間の「対話をしましょう」は好意的に受け取るならば、自分の持っている前提とか価値観を直ちに正しいものとして主張する姿勢をいったんおいて、相手の話しをまずはきちんと聞きながら話しをしましょうというところかなと思う。

 

そこで実際にやっていることは、自分が謙虚になる、無知を認める、攻撃しない、ともに探究的になるといったようなことだ。その土台のうえではじめてお互いの見えているもの、感じているものが変化するようなことがおこる。

 

最初からプレッシャーを与えて、自分の間違いなどないかのように相手に話しかけたり、自分の主張しかないようなことを対話と呼んでいるなら、それは対話という言葉を使って、対話がおこることを放棄している。『一九八四年』的。それが蔓延すると、対話という言葉自体が胡散臭くなって捨てられていくだろう。

 

付箋 on Twitter: "平和省は戦争に関わり、真理省は虚偽に、愛情省は拷問に、そして潤沢省は飢餓と関わっている。こうした矛盾は偶然でもなければ、一般的な偽善から生じたわけでもない。それらは二重思考の計画的な実践である。 - ジョージ・オーウェル「一九八四年」"

 

 

 

世間をコントロールしようとしているような人は、良さそうな言葉を自分の都合に歪めて使えるだけ使って、受けが悪くなったら捨てて、次の言葉に移行するのでいいのかもしれない。

 

ある言葉、ある考え方が本当に妥当なのかどうかは、専門家にまかせておけばいい問題ではない。そこは自律する必要がある。そうでなければ、自分の思考もそのまま侵食されていく。間違った考えでも、それが大きく叫ばれるようになれば、あるいは声の大きな人がいうようになれば、コントロールしようとしている人の好きなように流されてしまう。

 

最近思うことは、もし自分の考えや感じていることがのびのびいえて、応答(一方的な主張とか抑圧ではなく。)が返ってくる環境が周りになければ、人は正しいことを正しいとも思えなくなる、ということ。自分の感じていることが間違いのように感じ、思考はぐるぐると同じところをまわってひずんでいく。そして多くの人にとっては、その環境が日常なのだということ。

 

そのような環境は行政や企業のサービスにまかせておけない。自分の周りで醸成していく必要がある。自分で自分の感受性を守れ、と言った詩人がいたけれど、応答的な環境が用意されないと、自分の思考や感性は守れないし、その思考や感性が他者との応答的やりとりを通して更新されていくことによって、はじめて健全さを保ちうると思う。

 

対話は、相手をコントロールしようとする意図を排したところ、その意図が消えたところにおこる。相手をコントロールしようとすることと対話は決して相容れないものだ。どちらかがたてば、もう一方が成り立たない。そういう関係だと思う。

 

対話は、問題解決をしない。対話は意識されていなかった問題、無自覚だった問題が発見されるためにある。既にイメージされていることを遂行するために行われたことは対話ではなく、管理や調整にすぎない。

 

既知の世界の見え方、感じ方が更新され開かれたとき、そこでは対話がおこったといえると思う。対話は手法でも道具でもない。出来事だと思う。ある手法自体を対話とよぶのは、周りに後退的な勘違いを生むだろう。意識的にやれることは、自分の武装解除であり、自他の自動的な防衛的反応をよびにくい環境の設定(手法を含む。)だと思う。

 

コントロールの意図をもち、問題解決に直接向かおうとするやりとりは、対話ではない。コントロールの意図が打ち消された時、対話は生まれやすくなり、対話がおこったところでは問題が発見される。その問題は無自覚であったけれど、重要な問題であり、お互いを人間にしていくような問題だ。