環境は変えていく。必要なことはやっていく。
それぞれの考えがある。しかし、ゴールが「社会変革」だと思わされるところで、打ち棄てられる存在がある。緒方正人さんの言葉を読みなおす。
急にあと数ヶ月の命になったとき、逆に取り戻されることがある。人は、基底部分では、明日なき存在。そこが見えなくなるとき、人間性の抑圧は、疑問も抱かれずに、善意として浸透していく。
白人女性の警官が14時間勤務ののち、アパートの自室に帰ったと思ったら黒人男性がいて射殺した。そこは一階上の黒人男性の部屋だった。部屋には鍵がかかっていなかった。自分の勘違いで他人の部屋に侵入し、人を射殺した。
知り合いが若いころお世話になった親切な夫婦は、高速道路で重い物を積んだ隣のトラックから荷物が落ちてきて亡くなった。
砂浜でパートナーを驚かせようとして、とても深い落とし穴を掘ったら自分もろとも落ちて二人とも死んでしまった。
人の救いは、社会変革とはまた別のところにある。人は考えうる限り最高の環境があったとしても救われないことがある。人のその脆弱性、その存在のちいささ、意味のなさを忘れてしまうと、救われない人は増えていく。
「救いというのを社会を変革することというふうに考えないほうがいい。俺が多数ということに関心がないのはそのせいです。「人」が救われればそれでよかですたい、俺は。社会変革とか多数とかへ向かうと、コントロールしようという意志が働く。ひとりでも救われればいいという気持ちに徹することだ。そしてほんのひとりとでも出会えたらいいという思いが、俺をコントロールとは逆の方向へと運んでくれるだろう。ひとりひとりに出会う。結局これしかないんです。これがあればこそ、たとえ世界の終末が来ても、あの人がいる、この人がいる、と心に思い浮かべることもできるというもんです 緒方正人『常世の舟を漕ぎて』」