降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

マズローピラミッド

マズローの古典的なピラミッドがいまだにあちこちででてくるのはどうかと思っている。

 

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ずらずら出てくるマズローピラミッド

 

 

そこでマズローが本当はどう考えていたか、という問いももちろん重要だと思うのだけれど、そこまで押さえないと批判したらいけないということでもないように思う。

 

現状として流通しているものがおかしいので、延焼を止めるようにまずその影響を打ち消すことと、真理とは何かを吟味し検証して蓄積していく手続きは、別々に考えたらいいのではないかと思う。

 

そう思うのは、誰か(は、やってほしいが。)が原典にあたって正しいことを見つけてそれを周りに伝えていく影響に対して、扇情的な情報が伝言ゲームを介して延焼していく影響のほうが圧倒的だからだ。

 

それが本当に正しいかどうかなどの確認はどうでもよくて、その扇情的な部分だけを人に伝えたい動機を持つ人が、扇情性を打ち消された情報を受け入れて訂正したりするだろうか。その労力は別の扇情的な話題を入手することに向けられるのではないだろうか。

 

おかしいことは、おかしい。そこは取り戻される必要があると思う。

 

プロや専門家が集団になって原発神話ができたのだから専門家にまかせているだけではいけない。考えてみてほしいけれど、専門家とはつまり部分的であることを意味していて、部分にしか責任を持てないし、専門外のことを考えなければいけない責任もない。その人は専門家以外の部分では素人であり、ただの消費者だ。

 

小出教授が原発関連の議論で推進派に勝った時、こう言われたという。「小出君、僕にも家族がいる。生活があるんだ」と。世間の専門性とはつまり現金収入のためのものだから、専門性のもつ政治性を無視して鵜呑みにした結果は、悪影響を受けた人の「自己責任」に転嫁される。

 

巨大な社会になったとき、決定を専門家だけに任せるということは、利権の拡張を動機として限定的な分野にしか通用しないことが世間一般に敷衍化されていくのを好き放題にさせるということだろう。

 

社会に責任をもつ人は、専門だけに閉じこもることはできないはずだ。また同時に、抑圧の現状を目撃し、違和感を持った素人が、勉強不足ゆえに自分は発言の資格がないと思わされる(対案を出せ、もまた。)のもおかしい。放射線が高くなって住めなくなった地域があるという実際をもてば、おかしなことに異議を申し立てていく資格のない人などいない。

 

マズローのピラミッドは、あたかも自分も高次の欲求をもちたい、持ったほうがいいというようなまるで明後日の方向に意識を向けるだろう。きらびやかな自己実現(「自己」と頭につく言葉はよく考えるとどこかおかしいものが多い。)によって本当の自分がやってきて、幸せがやってくる。

 

だがきらびやかなものに強く高揚させられ、魅せられるのは、そうではない現状を覆い隠せるからだ。みたくない、感じたくない弱さ、惨めさ、苦しみ。溢れる光によるホワイトアウトで見たくないものを見えなくするために高揚するものを求める。

 

高次の欲求とは裏返せば根源的な苦しみだと思う。素敵な欲求があるのではなくて、苦しみ続けているからなお充たされない欲求がある。ピラミッドや高次というあてはめは、きらびやかなものがあるかのように錯覚させる。我を忘れられるようなきらびやかさを求めること自体が、現状の否認のためのものなのだから、そろそろマズローピラミッドも換骨奪胎されて、別の図に移行される必要があると思う。

対話と対話でないもの

読書会で、対話という言葉がブームみたいになっているけれど、相手に自分と話せと強制したり、最初から自分と同じ結論にさせるつもりしかないときまで、対話という言葉が使われている現状についての話しがでる。

 

世間で流通する言葉は、明後日の方向に向いていて無責任なものも多いので、真に受けると生きづらくなる。なぜ流通するかと考えるとき、それは言うことを押しつけられる(強い)人が自分に都合のいい言説を採用するからじゃないかなとも思う。

 

押しつけられた人は、自分がおかしいのかなと思いもするが、自分からみて周りの「カースト」の高い人たちが採用しているのをみると世間とはそういうものだと内面化して抑圧し、同じような状況をみたとき、抑圧されている側の自然な気持ちの現れを、わがままに感じ、怒りを感じ、攻撃までしてしまう。

 

誰かちゃんとした人が世間の「対話」は違いますよと否定すればいいのにと思う。そうしているのかもしれないけれど、そうしたところでそれが波及などしないということなのか。

 

おかしな言葉、おかしな考え方が流通しているとき、自分たちで自分たちの身を守ることが必要なのかと思う。その言葉とは何なのか、その考え方とは何なのかを吟味し、小集団で共有する。おかしな言葉は、はじめからおかしい結論をそのうちに含んでいるので、その言葉を使って考えたものは考えたようで、その言葉を使った時点で最初から決まっている結論になる。

 

対話自体を直接的にはできない。世間の「対話をしましょう」は好意的に受け取るならば、自分の持っている前提とか価値観を直ちに正しいものとして主張する姿勢をいったんおいて、相手の話しをまずはきちんと聞きながら話しをしましょうというところかなと思う。

 

そこで実際にやっていることは、自分が謙虚になる、無知を認める、攻撃しない、ともに探究的になるといったようなことだ。その土台のうえではじめてお互いの見えているもの、感じているものが変化するようなことがおこる。

 

最初からプレッシャーを与えて、自分の間違いなどないかのように相手に話しかけたり、自分の主張しかないようなことを対話と呼んでいるなら、それは対話という言葉を使って、対話がおこることを放棄している。『一九八四年』的。それが蔓延すると、対話という言葉自体が胡散臭くなって捨てられていくだろう。

 

付箋 on Twitter: "平和省は戦争に関わり、真理省は虚偽に、愛情省は拷問に、そして潤沢省は飢餓と関わっている。こうした矛盾は偶然でもなければ、一般的な偽善から生じたわけでもない。それらは二重思考の計画的な実践である。 - ジョージ・オーウェル「一九八四年」"

 

 

 

世間をコントロールしようとしているような人は、良さそうな言葉を自分の都合に歪めて使えるだけ使って、受けが悪くなったら捨てて、次の言葉に移行するのでいいのかもしれない。

 

ある言葉、ある考え方が本当に妥当なのかどうかは、専門家にまかせておけばいい問題ではない。そこは自律する必要がある。そうでなければ、自分の思考もそのまま侵食されていく。間違った考えでも、それが大きく叫ばれるようになれば、あるいは声の大きな人がいうようになれば、コントロールしようとしている人の好きなように流されてしまう。

 

最近思うことは、もし自分の考えや感じていることがのびのびいえて、応答(一方的な主張とか抑圧ではなく。)が返ってくる環境が周りになければ、人は正しいことを正しいとも思えなくなる、ということ。自分の感じていることが間違いのように感じ、思考はぐるぐると同じところをまわってひずんでいく。そして多くの人にとっては、その環境が日常なのだということ。

 

そのような環境は行政や企業のサービスにまかせておけない。自分の周りで醸成していく必要がある。自分で自分の感受性を守れ、と言った詩人がいたけれど、応答的な環境が用意されないと、自分の思考や感性は守れないし、その思考や感性が他者との応答的やりとりを通して更新されていくことによって、はじめて健全さを保ちうると思う。

 

対話は、相手をコントロールしようとする意図を排したところ、その意図が消えたところにおこる。相手をコントロールしようとすることと対話は決して相容れないものだ。どちらかがたてば、もう一方が成り立たない。そういう関係だと思う。

 

対話は、問題解決をしない。対話は意識されていなかった問題、無自覚だった問題が発見されるためにある。既にイメージされていることを遂行するために行われたことは対話ではなく、管理や調整にすぎない。

 

既知の世界の見え方、感じ方が更新され開かれたとき、そこでは対話がおこったといえると思う。対話は手法でも道具でもない。出来事だと思う。ある手法自体を対話とよぶのは、周りに後退的な勘違いを生むだろう。意識的にやれることは、自分の武装解除であり、自他の自動的な防衛的反応をよびにくい環境の設定(手法を含む。)だと思う。

 

コントロールの意図をもち、問題解決に直接向かおうとするやりとりは、対話ではない。コントロールの意図が打ち消された時、対話は生まれやすくなり、対話がおこったところでは問題が発見される。その問題は無自覚であったけれど、重要な問題であり、お互いを人間にしていくような問題だ。

【10月の催しもの】 吉田寮水曜ゼロ円飯(炊き出し) 熾(おき)をかこむ会 修復的司法×水俣×吉田寮他

【10月の催しもの】

 

→9月より熾(おき)をかこむ会は第二火曜日の14時〜17時になりました。西川勝さんは、お仕事の都合で熾(おき)をかこむ会には来られなくなりましたが、同日18時半からの星の王子さま読書会には来られます。

DIY読書会はまた19時半開始にもどりました。

 →10月9日水曜日に京大吉田寮でイベントと炊き出し(300円カンパで食べられます。炊き出しの名前は水曜ゼロ円飯。)

 

10月8日(火)14時 熾(おき)をかこむ会 場所:茶山KPハザ

10月9日(水)19時 修復的司法×水俣×吉田寮〜対話の場を支えるもの〜

10月9日(水)19時 吉田食堂炊き出し 水曜ゼロ円飯(300円)

10月16日(水・祝)19時半 DIY読書会 場所:ちいさな学校鞍馬口

10月23日(水)19時 吉田食堂炊き出し 水曜ゼロ円飯(300円)

10月25日(金)19時 私の探究・研究相談室 場所:本町エスコーラ

10月27日(日)13時半 話しの場研究室 場所:ちいさな学校鞍馬口

 

 

  

【10/8(火)熾をかこむ会】

時間:14:00〜17:00

場所:茶山KPハザ(京都市左京区田中北春菜町34−4 白い四階建のマンション「洛北館」の西向い奥)

内容:

焚き火の灰のなかに眠る熾(おき)に空気をあてるような話しの場という趣旨の熾(おき)をかこむ会は、9月より第二火曜日の14時から17時に日程が変わりました。

僕は、成長や回復という言葉を積極的には使いません。人間の生というものが、積み重なっていくこと、「発展」していくことを本質にしているようには思えないからです。

体全身に血管が張り巡らされ血が流れているように、僕は精神を通路のように想像しています。そしてそこに気が流れているようだと思っています。その通路の一部分が狭くなっていて「気詰まり」があったりします。色々抱え込んでいると、通路はその分狭まっていきます。

生きていくなかで、色々なものを抱え込み、気が流れるその通路がだんだんと狭くなっていくときがあります。また、ものごころついたときからすでに、何かすっきりとしないもの、自分の精神を詰まらせるものもあるようです。

燃え残りである熾(おき)に空気をあてるように、自分のなかに眠っていたくすぶりを少し話しの場に出すと、それはとむらいが済んだように灰になって終わっていくことがあると思います。

精神の通路のなかにある詰まりを取り除いていくとき、血行がよくなるように、生きている感覚もめぐりのいいものになると思います。何かを付け加えるのではなく、すでにあるものを取り除いていく。精神にとって、何を獲得しなくても、気の通りがよくなればそれだけでいいのではないかとも思うのです。

初めての方もどうぞ気兼ねなくお越しください。

 

【10月9日(水)19時 修復的司法×水俣×吉田寮〜対話の場を支えるもの〜】

内容:

小松原織香さん(龍谷大学)・永野三智さん(水俣病センター相思社)座談会
修復的司法×水俣×吉田寮 ─対話の場を支えるもの─
10月9日(水) 19:00~22:30 於・京都大学吉田寮食堂 
入場無料(カンパ制)

小松原織香さん(龍谷大学)・永野三智さん(水俣病センター相思社)座談会
修復的司法×水俣×吉田寮 ─対話の場を支えるもの─
10月9日(水) 19:00~22:30 於・京都大学吉田寮食堂 
入場無料(カンパ制)

 一般的な裁判のプロセスとは異なった問題解決の方法として世界中で注目を集めている「修復的司法[Restorative Justice]」の研究者・小松原織香さんと、水俣病患者相談窓口の実践を続けてきた永野三智さんとの座談会を通じて、「対話」の可能性をさぐる座談会を行います。
 座談会が行われるのは京都大学吉田寮吉田寮生たちはこれまで補修に向けた話し合いを求めてきましたが、京都大学はついに吉田寮生を提訴しました。裁判が始まってもなお吉田寮生たちは、提訴の取り下げと対話の再開を呼びかけ続けています。

 

【10月9日(水)10月23日(水)ともに19時 吉田寮炊き出し 水曜ゼロ円飯】

場所:京都大学吉田寮食堂

内容:

吉田寮生はゼロ円で、寮外の人は300円のカンパでご飯が食べられます。吉田寮食堂に入ったことがない方はこの機会にいらしてみませんか。カンパは吉田寮支援にまわされます。

twitter.com

 

【10/16(月・祝)DIY読書会】

時間:19時半〜

場所:ちいさな学校鞍馬口(北区)

内容:

宿題なしで、自分が読んできた本を任意で発表したい人が発表する形式の読書会です。毎回3人ほどが発表します。僕は9月に引き続き宇井純『自主講座「公害原論」の15年』を発表します。

 

【10/25(金)私の探究・研究相談室】

時間:19時

場所:本町エスコーラ(東山区

内容:

 

 毎月第四金曜日の夜19時から本町エスコーラで探究の相談お話し会を行なっています。今月は25日(金)です。

 

学校が終わっても、自分の探究や自分の研究をもってみませんか。

 

自由に、自分が一番関心をひかれること、既にある分野や学問に必ずしもこだわらず、自分の探究・研究したいことに取り組んでみると、思わぬ世界が開いていきます。

 

連続して参加する人、初めて参加する人、どちらも大丈夫です。前の回から自分の研究テーマをもって研究が進んだ人、あるいは行き詰まった人はそれをぜひシェアしてください。

 

【10/27(日)話しの場研究室】

時間:13:30〜

場所:ちいさな学校鞍馬口(北区)

内容:

8月よりはじまった集まりです。月に2回やっていましたが、10月は27日のみです。自分が持っている場がある人、これから場を持とうと考えている人が自分の場をどのように自分の求めと近づけられるかを考えます。

 

世界の終わりがきても 緒方正人さんの言葉

環境は変えていく。必要なことはやっていく。

 

それぞれの考えがある。しかし、ゴールが「社会変革」だと思わされるところで、打ち棄てられる存在がある。緒方正人さんの言葉を読みなおす。

 

急にあと数ヶ月の命になったとき、逆に取り戻されることがある。人は、基底部分では、明日なき存在。そこが見えなくなるとき、人間性の抑圧は、疑問も抱かれずに、善意として浸透していく。

 

白人女性の警官が14時間勤務ののち、アパートの自室に帰ったと思ったら黒人男性がいて射殺した。そこは一階上の黒人男性の部屋だった。部屋には鍵がかかっていなかった。自分の勘違いで他人の部屋に侵入し、人を射殺した。

 

知り合いが若いころお世話になった親切な夫婦は、高速道路で重い物を積んだ隣のトラックから荷物が落ちてきて亡くなった。

 

砂浜でパートナーを驚かせようとして、とても深い落とし穴を掘ったら自分もろとも落ちて二人とも死んでしまった。

 

人の救いは、社会変革とはまた別のところにある。人は考えうる限り最高の環境があったとしても救われないことがある。人のその脆弱性、その存在のちいささ、意味のなさを忘れてしまうと、救われない人は増えていく。

 

「救いというのを社会を変革することというふうに考えないほうがいい。俺が多数ということに関心がないのはそのせいです。「人」が救われればそれでよかですたい、俺は。社会変革とか多数とかへ向かうと、コントロールしようという意志が働く。ひとりでも救われればいいという気持ちに徹することだ。そしてほんのひとりとでも出会えたらいいという思いが、俺をコントロールとは逆の方向へと運んでくれるだろう。ひとりひとりに出会う。結局これしかないんです。これがあればこそ、たとえ世界の終末が来ても、あの人がいる、この人がいる、と心に思い浮かべることもできるというもんです 緒方正人『常世の舟を漕ぎて』」

 

当事者研究のグラデーション

昨日話していたこと。

 

当事者研究は今は精神福祉領域周辺のものとして受け取られているけれど、『みんなの当事者研究』でも上野千鶴子さんが言及したように、フェミニズムも「当事者研究」であったと思う。

 

www.kinokuniya.co.jp

 

精神福祉周辺の当事者研究界隈では、ジェンダーの視点がほぼ共有されてなくて、よって抑圧に非常に無自覚なところがある。これはハラスメントではないかということがなあなあにされるところ、冗談の範疇にいれられて問題視されないところを散見するので、この雰囲気に耐えられず来れなくなった人たちはいると思う。

 

一方で精神福祉周辺の当事者研究に加えてフェミニズムにも関わっている方からは、ジェンダーだけが主題化されているとそれはそれで息苦しいところもある、精神福祉の当事者研究界隈でほっとするところもあるという感想も聞いた。

 

領域間の乖離は大きく、先の京都の文化庁抗議でも、問題は表現の問題だけではないのに、純粋に「表現」だけにしか反応しない、興味を持たない「表現の人」たちの姿には消耗させられたという声もあった。

 

自分たちの、他とは「独立」した経済圏、勢力圏に直接関することなら反応するけれど、そういう姿勢自体が同時に世間がマイノリティに無関心で普通に見捨てていくマインドの再提示そのものであるということなのだろう。動いている人ですらそうなのだから・・・とより深い失望を感じてしまうのは、その人の個人的な感性ということにおさめられるようなことではないと思う。

 

当事者研究は、精神福祉界隈に限らず、それぞれの分野、それぞれの場所で立ち上げられる必要があると思う。同じ分野のように見えるところでも、様々なグラデーションがあるのだから、それだけの当事者研究の場が必要だと思う。多くの人は、複数のマイノリティ性を持っている。それが一つだけに集約されてしまうとき、そこには抑圧が発生している。

安心の国

安心の国では、安心をおびやかすものが嫌われる

 

安心の国の安心は、みんなのやることには疑問をもたずに従うことで手に入れられる

 

安心は、自分より強いものがくれる
みんなは強いものに従っている
だからみんなとは強さだ そして正しさだ

 

https://www.instagram.com/p/BAgwqpsJWzH/

 

安心の国は、変化が嫌いだ
なぜなら変化は自分たちが頼れるものを変えるかもしれないから

 

安心の国では、時間は止まったままであることが求められる

 

だから安心の国の弱い人たちは、止まった時間のなかで希望を持つことができない

 

 

https://www.instagram.com/p/9eqerYpW_t/


安心の国の人たちは、みんながいうことと同じでなければ、自分自身の考えなど信じられないようにならされてきた

 

安心の国の人たちはいつも不安でたまらない
頼れるものを見つけたくてたまらない
生きていく責任が自分にもどってくることに耐えられない

 

https://www.instagram.com/p/6zXZAPpWzX/

 

約束のネバーランド 鬼も人間も「美味しいもの」を我慢できない フェイルセーフの人間観へ

約束のネバーランド

 

sp.shonenjump.com

 

被抑圧者(人間)が自分たちの生存と幸福を守るために抑圧者(鬼)を滅ぼそうという流れのところで、抑圧者を完全に滅ぼさないと彼らは自身の生存だけでは満足せず、必ず美味しいもの(人間)を食べようとする、自分たち人間も美味しい食べ物を我慢できないようにとのセリフ。

 

鬼たちには、食用人間の管理を一手に担う王と貴族がいて、彼らはその力によって下層民を支配している。鬼たちは人間を食べないと知性と人格が瓦解してしまう。決定的なものを握り支配しようとするのは人間と同じ。

 

マンガではそれ以上は言及されていなかったけれど、力を持つものは自らの幸福を守り、その増進を前提とし、やがて抑圧者に転じるだろうと想像させられた。

 

主人公たちは今は抑圧されているが、鬼を滅ぼすときの容赦のない論理はやがて同族に向けられていくだろう。生きるためには、「みんな」のためには、犠牲は仕方がない、死ぬ人も必要だ、と。抑圧すること、殺すことの肯定。しかし、その理屈はそこに垣間見えている「美味しいもの」を我慢できない人間に利用されている。

 

子どもの頃読んだ学研の理科マンガに、二酸化炭素の忍者にさらわれた火の姫を酸素の忍者が助けにいくという話しがあった。火の姫は二酸化炭素の影響で消えそうになっている。酸素の忍者は二酸化炭素より軽いので、戦って二酸化炭素の忍者を打ち倒す。消えそうだった火の姫は、酸素の忍者によって燃え上がるが、酸素の忍者は二酸化炭素の忍者になる。終わらない回帰。

 

支配の正当化、権力の正当化は、この繰り返しにつながるだろうと思う。人間にはそれらが美味しすぎて我慢ができない。

 

ある真っ当な運動の正当化が、やがて外部だけでなく内部の抑圧に至るのも、このことが内在されているからのように思う。そして美味しいものを得ようと行動していても、意識的には気づかない。その衝動は自意識を欺ける。

 

正しい理屈。それ自体が権力と支配を正当化する武器となる。万人に強制できるイデオロギーはない。正しい理屈はその正しさによって、それを利用してはいけないものに利用される。

 

今一般に流通している人間観は、人間の本姓を素朴によいものとしたり、素晴らしいものとする。特に「国家」が「国民」に提示するところにおいては、そのような人間像が提示される。だがそれは権力者や富裕層にとても都合がいい。

 

ボルネオで先住民の森を伐採した木材が今度の東京オリンピックに使われている。反対運動をする原住民のリーダーが暗殺されたりしている。プナンの人たちだ。読書会で取り扱った本に書かれていた人たちだ。

 

あからさまな暴力の行使。しかし、そんな遠方の国のことは見えてこない。いや、大勢は見たくないのだ。日本国内の入管の人権侵害にしても、気にする人は僅かだ。違和感や矛盾を感じなくすることができない人はこの社会で「順調」には生きられない。

 

余計なことを見たり、聞いたり、考えたり、気づいたりすることは社会生活のサバイバルに影響する。その矛盾を指摘するような声はすぐ抑圧する。ごく自然に、自動的に、自分の善意すら信じて。

 

いい人間像、素晴らしい人間像の提示は、暗い部分を見えなくする。矛盾を隠すためにその人間像は使われる。気分を高揚させ、健全な違和感を塗りこめる。

 

そういう強迫的な人間像、人間観を自分たちの周りから変えていくことがサークルのような、文化的な個々の小集団にはできるだろう。本質が善だったり、素晴らしいとされるからこそ、そうあれない素直で感受性が残った人が生きづらさを感じる。

 

人間は自らの衝動に対して自己管理できない。そのシンプルな人間観に戻ればいい。するとそのネガティブな人間観に人間は絶望するだろうか? 人間をはじめから罪人とみなす宗教もある。人間は自己管理できないからこそ、その自己疎外をとどめる役割をする他者が必要だ。自分で自分を管理できると思っている人間は他者に感謝などしない。そして、あからさまでなくても、「自分を管理できない人」を軽視する。

 

自立した人間像というのは、他人に頼ることを個々に恐れさせ、お互いを頼らせないようにする。人間の自己完結した善性を支配層が提示することで、自分のたちの欺瞞を糊塗することができ、そして自分たちの作った環境によって疎外され、抑圧される人たちに「自己責任」を押しつけることができる。

 

人間の衝動は、人間を欺く。そのことを前提にするならば、本来はフェイルセーフの仕組みが作られるはずだ。フェイルセーフの仕組みとは、システムのある部分が故障や誤作動をおこしたときに、それによっておこされる危険性をあらかじめとどめる仕組みだと理解しているけれど、一つのシステムで全部を管理するのではなく、どこかに異常がおこった時に、それを止める別のシステムがあらかじめ組み込まれていることが必要だ。

 

本来であれば、力をあまり一部に集中させてはならない。力は分散され、拮抗していないと、人は権力の美味しさに耐えきれず、より権力を獲得し、肥大化し、人を抑圧しはじめる。正しい人に丸ごと何かをお任せできるというのも、そもそもの嘘だ。正しい人などいない。その設定は、自分の応答性の放棄と結果の押しつけのためのものでしかない。

 

人の衝動は自己管理できない。人は自分を正しく見れない。人は間違う。そういうことを前提にした人間観では、人はむしろ自分に抱えこまず、適切な他者とのやりとりによって、むしろ健全さや安心をお互いに回復するだろう。「自立した人間像」こそ、多くの人を不安におとしいれ、孤立させ、強いものに依存させることに拍車をかけるだろう。


鬼は人の外にいるのではなくて、人のなかにある。そのことを認めることで、むしろ人はゆるされた感覚をもつだろう。それは衝動を暴走させるよりも、衝動が出ても大丈夫な仕組みを周りにつくる。

 

フェイルセーフの人間観に移行する時、同時に自分こそが管理者である、正義の執行者であるというように振る舞うものに対して、健全な疑念を持つようになるだろう。