降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

約束のネバーランド 鬼も人間も「美味しいもの」を我慢できない フェイルセーフの人間観へ

約束のネバーランド

 

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被抑圧者(人間)が自分たちの生存と幸福を守るために抑圧者(鬼)を滅ぼそうという流れのところで、抑圧者を完全に滅ぼさないと彼らは自身の生存だけでは満足せず、必ず美味しいもの(人間)を食べようとする、自分たち人間も美味しい食べ物を我慢できないようにとのセリフ。

 

鬼たちには、食用人間の管理を一手に担う王と貴族がいて、彼らはその力によって下層民を支配している。鬼たちは人間を食べないと知性と人格が瓦解してしまう。決定的なものを握り支配しようとするのは人間と同じ。

 

マンガではそれ以上は言及されていなかったけれど、力を持つものは自らの幸福を守り、その増進を前提とし、やがて抑圧者に転じるだろうと想像させられた。

 

主人公たちは今は抑圧されているが、鬼を滅ぼすときの容赦のない論理はやがて同族に向けられていくだろう。生きるためには、「みんな」のためには、犠牲は仕方がない、死ぬ人も必要だ、と。抑圧すること、殺すことの肯定。しかし、その理屈はそこに垣間見えている「美味しいもの」を我慢できない人間に利用されている。

 

子どもの頃読んだ学研の理科マンガに、二酸化炭素の忍者にさらわれた火の姫を酸素の忍者が助けにいくという話しがあった。火の姫は二酸化炭素の影響で消えそうになっている。酸素の忍者は二酸化炭素より軽いので、戦って二酸化炭素の忍者を打ち倒す。消えそうだった火の姫は、酸素の忍者によって燃え上がるが、酸素の忍者は二酸化炭素の忍者になる。終わらない回帰。

 

支配の正当化、権力の正当化は、この繰り返しにつながるだろうと思う。人間にはそれらが美味しすぎて我慢ができない。

 

ある真っ当な運動の正当化が、やがて外部だけでなく内部の抑圧に至るのも、このことが内在されているからのように思う。そして美味しいものを得ようと行動していても、意識的には気づかない。その衝動は自意識を欺ける。

 

正しい理屈。それ自体が権力と支配を正当化する武器となる。万人に強制できるイデオロギーはない。正しい理屈はその正しさによって、それを利用してはいけないものに利用される。

 

今一般に流通している人間観は、人間の本姓を素朴によいものとしたり、素晴らしいものとする。特に「国家」が「国民」に提示するところにおいては、そのような人間像が提示される。だがそれは権力者や富裕層にとても都合がいい。

 

ボルネオで先住民の森を伐採した木材が今度の東京オリンピックに使われている。反対運動をする原住民のリーダーが暗殺されたりしている。プナンの人たちだ。読書会で取り扱った本に書かれていた人たちだ。

 

あからさまな暴力の行使。しかし、そんな遠方の国のことは見えてこない。いや、大勢は見たくないのだ。日本国内の入管の人権侵害にしても、気にする人は僅かだ。違和感や矛盾を感じなくすることができない人はこの社会で「順調」には生きられない。

 

余計なことを見たり、聞いたり、考えたり、気づいたりすることは社会生活のサバイバルに影響する。その矛盾を指摘するような声はすぐ抑圧する。ごく自然に、自動的に、自分の善意すら信じて。

 

いい人間像、素晴らしい人間像の提示は、暗い部分を見えなくする。矛盾を隠すためにその人間像は使われる。気分を高揚させ、健全な違和感を塗りこめる。

 

そういう強迫的な人間像、人間観を自分たちの周りから変えていくことがサークルのような、文化的な個々の小集団にはできるだろう。本質が善だったり、素晴らしいとされるからこそ、そうあれない素直で感受性が残った人が生きづらさを感じる。

 

人間は自らの衝動に対して自己管理できない。そのシンプルな人間観に戻ればいい。するとそのネガティブな人間観に人間は絶望するだろうか? 人間をはじめから罪人とみなす宗教もある。人間は自己管理できないからこそ、その自己疎外をとどめる役割をする他者が必要だ。自分で自分を管理できると思っている人間は他者に感謝などしない。そして、あからさまでなくても、「自分を管理できない人」を軽視する。

 

自立した人間像というのは、他人に頼ることを個々に恐れさせ、お互いを頼らせないようにする。人間の自己完結した善性を支配層が提示することで、自分のたちの欺瞞を糊塗することができ、そして自分たちの作った環境によって疎外され、抑圧される人たちに「自己責任」を押しつけることができる。

 

人間の衝動は、人間を欺く。そのことを前提にするならば、本来はフェイルセーフの仕組みが作られるはずだ。フェイルセーフの仕組みとは、システムのある部分が故障や誤作動をおこしたときに、それによっておこされる危険性をあらかじめとどめる仕組みだと理解しているけれど、一つのシステムで全部を管理するのではなく、どこかに異常がおこった時に、それを止める別のシステムがあらかじめ組み込まれていることが必要だ。

 

本来であれば、力をあまり一部に集中させてはならない。力は分散され、拮抗していないと、人は権力の美味しさに耐えきれず、より権力を獲得し、肥大化し、人を抑圧しはじめる。正しい人に丸ごと何かをお任せできるというのも、そもそもの嘘だ。正しい人などいない。その設定は、自分の応答性の放棄と結果の押しつけのためのものでしかない。

 

人の衝動は自己管理できない。人は自分を正しく見れない。人は間違う。そういうことを前提にした人間観では、人はむしろ自分に抱えこまず、適切な他者とのやりとりによって、むしろ健全さや安心をお互いに回復するだろう。「自立した人間像」こそ、多くの人を不安におとしいれ、孤立させ、強いものに依存させることに拍車をかけるだろう。


鬼は人の外にいるのではなくて、人のなかにある。そのことを認めることで、むしろ人はゆるされた感覚をもつだろう。それは衝動を暴走させるよりも、衝動が出ても大丈夫な仕組みを周りにつくる。

 

フェイルセーフの人間観に移行する時、同時に自分こそが管理者である、正義の執行者であるというように振る舞うものに対して、健全な疑念を持つようになるだろう。