降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

【9月の催しもの】話しの場研究室 熾(おき)をかこむ会 DIY読書会 私の探究・研究相談室

【9月の催しもの】話しの場研究室・熾をかこむ会・DIY読書会

 

→9月から熾(おき)をかこむ会は第二火曜日の14時〜17時になりました。なお、同日19時からは西川勝さんによる星の王子さま読書会があります。

DIY読書会はいつもより30分早く19時開始です。

 

9月8日(日)13時半 話しの場研究室 場所:ちいさな学校鞍馬口

9月10日(火)14時 熾(おき)をかこむ会 場所:茶山KPハザ

9月16日(月・祝)19時 DIY読書会 場所:ちいさな学校鞍馬口

9月27日(金)19時 私の探究・研究相談室 場所:本町エスコーラ

9月29日(日)13時半 話しの場研究室 場所:ちいさな学校鞍馬口

 

 

【9/8(日)・9/29(日) 話しの場研究室】

時間:13:30〜

場所:ちいさな学校鞍馬口(北区)

内容:

8月よりはじまった集まりです。自分が持っている場がある人、これから場を持とうと考えている人が自分の場をどのように自分の求めと近づけられるかを考えます。

 

僕自身は最近は新しい人がくる場でどのような前置きが必要かというところを考えようと思っています。わりと今までは同じ人たちとやっていたので当然のように共有されていたことも、やはり言わないと議論しはじめたり、知識の話しをはじめたり、色々おこります。あんまりこれはだめ、あれはいけないとがんがん言いたくはないので、最低限で必要を大まかにみたす前置きを考えます。

 

参加者には自分の想定する場の探究課題を持ってきてもらいます。お互いの探究を発表し、場について様々な角度から学ぶ集まりです。

 

【9/10(火)熾をかこむ会】

時間:14:00〜17:00

場所:茶山KPハザ(京都市左京区田中北春菜町34−4 白い四階建のマンション「洛北館」の西向い奥)

内容:

焚き火の灰のなかに眠る熾(おき)に空気をあてるような話しの場という趣旨の熾(おき)をかこむ会は、今月より第二火曜日の14時から17時に日程が変わりました。

僕は、成長や回復という言葉を積極的には使いません。人間の生というものが、積み重なっていくこと、「発展」していくことを本質にしているようには思えないからです。

体全身に血管が張り巡らされ血が流れているように、僕は精神を通路のように想像しています。そしてそこに気が流れているようだと思っています。その通路の一部分が狭くなっていて「気詰まり」があったりします。色々抱え込んでいると、通路はその分狭まっていきます。

生きていくなかで、色々なものを抱え込み、気が流れるその通路がだんだんと狭くなっていくときがあります。また、ものごころついたときからすでに、何かすっきりとしないもの、自分の精神を詰まらせるものもあるようです。

燃え残りである熾(おき)に空気をあてるように、自分のなかに眠っていたくすぶりを少し話しの場に出すと、それはとむらいが済んだように灰になって終わっていくことがあると思います。

精神の通路のなかにある詰まりを取り除いていくとき、血行がよくなるように、生きている感覚もめぐりのいいものになると思います。何かを付け加えるのではなく、すでにあるものを取り除いていく。精神にとって、何を獲得しなくても、気の通りがよくなればそれだけでいいのではないかとも思うのです。

初めての方もどうぞ気兼ねなくお越しください。

 

【9/16(月・祝)DIY読書会】

時間:19時

場所:ちいさな学校鞍馬口(北区)

内容:

宿題なしで、自分が読んできた本を任意で発表したい人が発表する形式の読書会です。毎回3人ほどが発表します。僕は宇井純『自主講座「公害原論」の15年』を発表します。今回はいつもより30分はやくはじまります。

 

【9/27(金)私の探究・研究相談室】

時間:19時

場所:本町エスコーラ(東山区

内容:

先月の相談室では、それぞれの人に自分の探究の仕方ってどういう感じでしたかとお話しもうかがいました。自分にあった探究の仕方もそれ自体また探究しないとなかなか見つからないのです。

 

イチローの引退会見でのセリフを思い出しました。

地道に進むしかない。進むというか、進むだけではないですね。後退もしながら、あるときは後退しかしない時期もあると思うので。でも、自分がやると決めたことを信じてやっていく。

 でも、それが正解とは限らないわけですよね。間違ったことを続けてしまっていることもあるんですけど。でも、そうやって遠回りをすることでしか本当の自分に出会えないというか、そんな気がしているので。

 

dot.asahi.com

 

 

私の探究・研究相談室は、自分の関心のあること、調べてみたいと思っていること、探究したいことを持ち寄って話すことで、一人だけでは手につかなかったことが進んでいくかもしれません。

 

毎月第四金曜日の夜19時から本町エスコーラで相談会を行なっています。今月は27日(金)です。

 

学校が終わっても、自分の探究や自分の研究をもってみませんか。

 

自由に、自分が一番関心をひかれること、既にある分野や学問に必ずしもこだわらず、自分の探究・研究したいことに取り組んでみると、思わぬ世界が開いていきます。

 

連続して参加する人、初めて参加する人、どちらも大丈夫です。前の回から自分の研究テーマをもって研究が進んだ人、あるいは行き詰まった人はそれをぜひシェアしてください。

 

言葉の更新 「私たちのは学びであり、あなたがたのは回復である」ところから

対話の文化祭のワークショップでも話したのですが、学びと回復ということは別のことではないと考えています。一方が教育分野の事柄であり、もう一方が福祉分野の事柄であるようなことではないと思います。

 

ある人が変容したことを学びとは考えず回復としてだけ捉えたり、逆にある人が学んだという事態をその人の人としての回復としてとらえないことは、よく考えるなら、人を馬鹿にしたとらえ方だと思います。

 

私どものは学びだけれど、あなたがたのは回復ですというわけです。

 

回復という言葉は、元にもどるという意味なので、元でなかったもの、元より下になったものが元にもどる、「普通(=あるべき姿)」にもどると考えているようです。元というのは私たち(=あるべき姿としての「普通」、ニーチェ的な批判をもっていうなら、より「劣った」集団を設定することで自分たちを「人間」(=価値あるもの)と位置づける昔からのあり方。)であり、回復とは「普通」である私たちに近づくことだという傲慢な見方です。

 

僕は今は回復という言葉はあまり使わないのですが、それでも回復という言葉をもう少し妥当に位置づけるなら、回復は世間一般の「普通」にもどることではなくて、人間としての本来性に近づいていくということです。働けるようになったから「はい、回復。」ではないのです。

 

学びと回復を一つのものとしてとらえるという話しにもどります。そこに共通するのは、変容がおこった時に世界の見え方や感じ方が更新され、変わるということです。それまでの自分のあり方が変わります。

 

変容や変化といったときに、「悪く」変わる場合もあるだろうと思うかもしれませんが、「悪く」変わった場合は、自分は別に変容してなくて、むしろ以前の自分に不本意ながらとどまり続けるために「悪く」なるのだと思います。

 

教育哲学者林竹二が指摘するように、学びとはカタルシスです。カタルシスといっても、それは単に感情的なうっぷんを晴らすようなことではなく、自分のなかで、繰り返す停滞をおこしていたような固定的な構造を解体するものです。

 

パウロフレイレは人間とは、本来的な人間へと移行していくものであり、その移行していく状態、プロセスにこそ人間の本質があると考えました。その意味では、より困難な状況にある人が変容していくことは、今現在は変容の過程から遠のいている「善人」よりも人間としての本質を体現していることになります。

 

回復という言葉は積極的には使わなくなったのですが、出会い、対話、学びという関連しあう言葉はまだしばらくは使うかと思います。

 

言葉は、定義の仕様によっては、生きたものを死んだものにし、逆に死んでいたものを生きたものにもしうると思います。たとえば回復を世間的な「普通」にもどる回復と位置づけるなら、そんな言葉はないほうがマシなのではないかとさえ思ってしまいます。

 

べてるの家の人たちは自分たちのボキャブラリーを作っています。それは単に変わったようにいっているのではなく、彼らが探究して掴みとった現実をあらわしたものです。

 

たとえば、病気をプロセスととらえず強制的に薬で「治し」てしまうと、本来その人が得られたはずの新しい人との関わり方や世界との関わり方をその人から遠ざけてしまいます。べてるの「勝手に治すな自分の病気」という言葉には、そのように、世間より一段深い現実の認識があるのです。

 

「病気」をプロセスと考えず、単に悪いものと考える世間の風潮、前時代的考え方があるなかで、べてるの家のように、「病」=「悪」から「病」=「新生」と言葉の意味を更新することで、世界との関わり方はより妥当なものになっていきます。

 

フレイレは、実践によって、本当の言葉が作り出され、本当の言葉に導かれ、実践はより妥当なものとして変化していくと指摘しています。「病」=「悪」とするところでは、次の実践が生まれていきません。言葉をより本当のものにしていくこと、現実をつかむものにしていく必要があると思います。

 

行動の欠落は空虚な言葉主義を招き、省察の欠落は盲目的な行動主義を招く。真正ならざる言葉は現実を変革する力をもたず、その結果、二つの構成要素は分断されることになる。

行動という次元から根こぎにされた言葉は、当然の帰結であるが省察とも無縁なものとなり、聞く者と語る者の双方を疎外する。泡のように虚ろな言葉からは真の現実否定も変革への意思も、ましてそのための行動も期待することはできない。他方、行動だけを強調して省察を犠牲にすると行動のための行動に邁進することになり、真の実践は否定され、対話は不可能になる。 里見実『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』

 

 

さて、言葉の定義に戻ります。対話は「する」ものではなく「おこる」ものだと考えていると繰り返し述べているのですが、世間的に対話を「する」、対話の場を作るという時は、対話という変容のプロセスがおこりうる状況設定をすることだと考えています。対話とは変容のプロセスであり、それは「する」ことができません。ただそれがなるだけおこりうるような状況を整える、ということができるだけです。

 

「対話」を専門にしている人でも、当事者や近い人からあなた本当に対話しているのと訊かれることもあると思います。そんな時にいやいや私は対話しているよこんな風に、とか相手に言っても仕方がありません。その応答は対話がおこる整えとしては機能しません。

 

あくまで意思的には状況を整えるということができるだけであって、私は「対話」の専門家ですから、私が対話すると言えばそれは対話なのです、は現実的には成り立っていないのです。同様に、どのような人であっても意思的に対話そのものをすることはできないのだと思います。

 

ただ、世間では状況の整えのことを「対話する」と言っているので、世間の言い方なのだなと理解しています。でもその世間的理解で全部すませると理解をより深める方向へとはすすんでいかないと思うので、フレイレもいうように、より妥当な位置づけを探っていく必要があるのだと思います。

 

ある言葉の定義を今のままの理解にせず、機会があればより妥当な位置づけをしていくことで、ある言葉は次の思考を切り開くものにもなりうると思います。

 

最後に、出会い、対話、学びという言葉を位置づけしなおしたいと思います。最初からこれを書くつもりだったのですが、前置きが長くなりました。まず出会いというのは、他者との関わりにより自分のあり方が一新される、更新される出来事であると思います。(これは宗教哲学マルティン・ブーバーの考え方ですが、世間で使われている「出会い」という言葉のなかにもこの意味は底に含まれていると思います。)

 

学びというのもこの出会いと重なる部分が多い言葉です。
学びは、更新に向かう世界との関わりです。(出会いは「出来事」でした。)

 

ただ本人の意図の有無に関わらず、変容のプロセスがともなうやりとりがあるときが学びなのであり、この変容のプロセスがともなわない、知識や技術の蓄積はいわば「習得」であり、学びという更新とは区別します。

 

単に知識や技術が蓄積され、自分が強化され、自分の殻がより厚くなったとしたらそれは学びとはいえないと考えます。そうなってしまえば、学びという方向からはむしろ遠のいているのではないかと思います。

 

学びは蓄積であるよりも、むしろ今までの自分のあり方が解体されることです。その時、自分の世界の見え方や感じ方が一新されます。

 

預金型教育のように、自分の準備や状態、プロセスとは関係なく一方的に働きかけられるとき、そこに自分の変容のプロセスはおこっていません。自分のなかにあるものに応じ、世界に働きかけ、そしてその働きかけに対して、世界や他者から応答されるとき、変容のプロセスは続いていきます。

 

この変容のプロセスが続いていった結果として、出会いという更新がおこるわけですが、この変容のプロセスにあること、このプロセスに入ることを学びと位置づけたらいいのではないかと思います。

 

「対話」は、出会いが更新という事態そのものをさすとしたように、変容のプロセスそれ自体をさす言葉とすれば、おさまりがいいかと思います。つまり変容のプロセスに入ること、入っていくことが「学び」であり、そこでおこっている変容のプロセスが「対話」というわけです。

 

変容のプロセスである「対話」を抜きにした「学び」はありません。「対話」は「学び」の前提条件です。対話なき学びがないように、学びなき対話もないでしょう。学んでいれば対話がおこっているはずだからです。

 

そして変容のプロセスが続いていった先に、自分の感じ方、見え方が更新される出来事(=出会い)があります。

 

最後と言いましたが、さらについでにいえば、この変容のプロセスに入ることを阻むのは人間の殻の強さということになると思います。自分の弱さを感じなくさせるために厚くなり、発達した殻は揺れること、変化していくことに自動的に、ともすれば無自覚に抵抗や拒否をし、遠ざかります。

 

殻の強さは相当なもので、いわば自分というのが殻そのものです。多くの人は自覚なく殻を分厚くすることで生きのびていくという生存戦略をとっていると思います。事故や病気、不遇など受難によって殻が壊された人が大きく変化するのは、このためだと思います。そうでない人はできあがった殻があるために、その殻が壊れないとあまり変われないのです。

 

「順調な」人は、ごく自然に世間の殻を身につけていきます。それは弱きもの(自分自身のそれも含め)への共感を自然に感じなくなっていくということでもあると思います。

 

ただこの圧倒的な殻の強さがあっても、学びのための整えをすることは人間に残されていると思います。世界に対し、自分自身のなかのものから働きかけ、応答を感じることが人間にとっての最も大きい充実であると思うので、世界と直接に応答関係を結び、その応答を続けていくことは殻の弊害や厚さを薄めていくことにつながるのではないかと思います。

『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』読書会報告

パウロフレイレ「被抑圧者の教育学を読む」』読書会、主催含め18人の方にお越しいただきました。

 

山下さんの司会で、それぞれの関心や読んで思ったことなどお話ししてもらいました。枠組みとしては、誰がきてもいいし、読んでこなくてもいいというゆるいもので、思った以上に人が来られたので内容の核心により迫っていくというよりは、内容もさらっと紹介しつつ、主にそれぞれの問題意識、経験を語るというかたちになりました。

 

知っていることの差があったり、他人が使っている言葉の難しさがあるという指摘もありました。差別、抑圧など、わりに普段から周りと考えたり話したりしている人も、そういう環境でない人もそれぞれいたので、ある人の問題意識や言葉や考えは、別の人にとっては理解が難しかったり、そのせいで自分がこの場にそぐわないんじゃないか、という不安や疎外感が出てしまうこともあるようです。

 

もっと内容に迫ってほしいという意見も一方で出ました。フレイレの考え方であれば、こういうことはどうなるのか、というより突っ込んだところなど、それはそれで応答できる人が応答したり、という感じでした。本を読んでない人もいるので、両方の求めに同時に答えることは難しかったですが、それぞれの立場の人がいるということで、受け取ってもらうかたちになりました。

 

ある人にとっては、言いたいことを言おうとしたら別の人には難しく込み入ったことになってしまうのですが、だからといって我慢してだまっていなければならないということだと、それはそれで一方的になってしまいます。その人にとっては、今、場でおこっているトピックややりとりだけなら、わざわざこの本を扱っている意味、自分が読んできた意味がないだろうと感じてしまうわけです。

 

しかし、預金型教育における教える人と教えられる人の権力関係の体験談、学びとは何か、強い人たちの抑圧的な価値観を弱い人たちも内面化してしまうこと、抑圧する人も抑圧しなければいけないほど内面が追い詰められていること、持たない人たちの無力が抑圧する人を解放する力をもっていることなどについては、場のやりとりからよく伝わってきたのではないかなと思います。

 

僕自身は預金型教育に加えて、フレイレの人間化と非人間化についての考え方に深く納得するところがあったので、それも発言しました。

 

人間化・非人間化も言葉の感じは難しそうですが、例えば誰かが働いてないから1人前でないとか言われたりしますが、上に立つ人たちが共有しているあるべき姿に足りてないと、普通の人間より下であるとされ蔑みや別扱いの対象になります。

 

人間とは「まっとうな人間」、「あるべき基準を満たしている人間」のことであり、そうでない人は実際上はまっとうな人間とは見なされないし、そう扱われません。人間とは「認められる」人間のことであって、その時初めて権利が与えられて然るべきだとなります。

 

基準以下の人は「一人前」ではないし、「まっとう」ではないから、自分たちに比べて何かが奪われていて当然、多少ぞんざいに扱って問題なし、もっとちゃんとやれよ、というわけです。しかし、そういう蔑みを受ける人は、まるで岩に縛りつけられるように屈辱や自己卑下、劣等感覚におとしいれられ、より自分らしく生きていく変化の基盤を奪われてしまいます。その人の「時間」が止まってしまうのです。

 

よって、誰かに対して特にその人が逃れられない属性をもってバカにしたり、蔑んだりするようなことは、お互いを人間として扱うことをしていないということであり、その行為自体が非人間的であると言えるでしょう。自分は一人前だがあの人は一人前ではないと言うときも、その発言者は非人間化しています。

 

大昔から人間は奴隷など自分より下の人を作っては、あるいは能力の高さによって、自分は上の人である、いい人間である、人間らしい人間であるとしてきました。しかし、その行為自体がフレイレからすれば非人間化した状態だと言えるのです。

 

フレイレはさらにこう言います。人間とは、人間化に向かう過程にあるものを指すのだと。つまり自分のうちに差別的意識、無自覚に自分や誰かをモノ(利用対象・尊厳を与える必要のないもの)として認識し、評価していたり、価値を奪って扱っている状態を発見し、そこから離れていくことが、人間化であると考えるのです。

 

出会いの哲学者マルティン・ブーバーの考えと並べてみます。人間は既知のものをモノとして、利用対象として認識し、そのように関係しますが、自分を作り変える他者<なんじ>と出会うとき、その自分そのものが刷新されます。

 

フレイレは、その刷新されるという出来事がおこっているときが人間が人間の本質を生きているときであり、いわばブーバーのいう<なんじ>と繰り返し出会い続け、自分の内面の価値観を刷新し続けることをもって人間が人間になっていくと考えているようです。

 

ですので、一度価値観や感じ方が変わったからといってそこを動かず閉じこもれば、もうそれは非人間化に向かっているのです。何を獲得しても、何を達成しても、自分の知らない他者に出会うことに向かわないのなら、人は非人間化していくのです。

 

そして人間化するか、非人間化する選択をするかは、それぞれの人の今ここの選択にかかっており、いわば人間は常により人間化していくチャンスと、非人間化していく危険に同時に直面しているとフレイレは指摘します。

 

この考えかたは厳しいようで、非常に妥当な人間の定義なのではないかと思います。なぜなら先に述べたように、人間はいつも、自分を「〜をもっているから(まっとうな)人間だ」「〜より上だから、〜できるから(まっとうな)人間だ」というふうに、自以外の人やものを下にして自分が人間であることを固定化し、確かなものにしようとするからです。

 

何を所有したとしても、何を達成したにしても、そこに止まるなら非人間化に向かっているということであり、ふんぞり返った偉い人たち、権威たちを批判しつつ、逆にたとえ犯罪を犯した人でも変わっていくプロセスにあるときは人間であるという考えは非常に先進的であり、100年後(もっとかも。)の価値観なのではないかなと思います。

読書会が最終盤になったとき、個人の発言に対する割と強めな批判が出て、そのやりとりを怖いと感じる人がいたり、この会自体のあり方が抑圧であり、排除であるのではないかという激しい問いかけが出て、場は一瞬、荒波にのまれたような状態になりました。

 

ですが、その危機、亀裂に対して、応答する人たちが現れました。今まで比較的発言が少なかった人も自分の感じたことを率直に丁寧に伝えたり、自分はこう思うというふうに思いが返されました。

 

誰かの発言や行動が強く場を飲み込んで硬直したような状態に、静かな、しかし確かな別の見方が現れてきて、場の状態はいわば今までで一番優しいものが流れている状態になったように感じました。

 

あの時、対話がおきていたと思います。

 

割りと毎度毎度「対話」という言葉は同じ議論になるのですが、対話を「する」ものであると捉えると、対話が何かを強制するもの、抑圧するものになってしまいます。

 

対話は、「おこる」ものであって「する」ことはできないと僕は考えています。対話とは、変容のプロセス自体のことであり、さあ対話しなさいなどと誰かに強制しても、自分は対話をしています、なんて押し付けがましいことをいっても、変容のプロセスはむしろこわばって止まってしまいます。

 

相手を尊重しながら、自分にとって本当のことを場に表現する時、その表現は場や人の状態を変容させると思います。その人がその人の震えるところを出すとき、場や人はその震えに打たれます。その人が無防備になっていることが感じられます。それは場やそれぞれの人に対して他の何も代え難い信頼を表しているのです。

 

信頼とは保証ではありません。傷つけられないから、大丈夫だから話すというのは、つまるところは、かけひきなのだと思います。震えるところを場に表現する人は、傷つく可能性を知りながら、駆け引きを捨てて、相手がどうするかに関係なく、自分を先に与え、ゆだねているのです。

 

自分の防衛を捨てたそのあり方は相手を変えます。その表現を聞くものは、強く信頼されているという感覚をもちます。自分がどう反応するか関係なく、信頼されている。その相手の勇気は、自分がどれだけ怯えていたか、小さかったかということを目撃させる鏡でもあります。

 

さて、里見実『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』は、要望があれば、色んなところでやりたいと思っています。自分個人としてもまだまだここに書かれていることから得られることがあると思っています。どうぞお知らせください。まだ日程未定ですが、大阪でもう1回やる予定です。

時間をとめるもの 

8月26日(月)にフォロ・オープンスペースで里見実の『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』の読書会をします。

 

foro.jp

 

一昨日に非モテ研の西井さんと三重ダルクの市川さんの対談に行ってきました。

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お話しはとてもよかったです。僕は最近は回復というもの自体に向かおうとする話しにだんだん関心が薄れてきて前より聞けなくなっているのですが、その状態でも面白く聞けました。


帰りがけに西井さん、西川さん(市川さんではなく。)と一瞬話して、治癒や回復を意思的に目指すこと自体に停滞があるというところはお互いの共通の感覚としてあるのではないかなと思いました。

 

しかし、治癒や回復を意思的に目指すとか、専門家がイニシアチブをとって人を導くというそのそもそもの発想とか、そういうところに間違いがあるという認識がやってくるのはやってきたとしても大分未来だと思うのです。

 

何かが発見されたとしても、それを取り入れることを拒否する力があれば場は更新されません。変化へのプロセスは止められたままです。

 

たとえば、男女平等の度合いについて、世界経済フォーラム(WEF)の調査では日本の平等のランキングは144か国中114位であるそうです。

 

より平等なほうが社会のあらゆるところが生き生きとしていくというのは、色んな調査で実証されているところだと思います。ではなぜ変わらないのか。

 

話しの場でも、社会であっても、変化を止めるものは、その場の権力であるようです。権力は変化を止め、時間を止めます。話しの場においては、どのような力がその場を支配しているのか、変えないようにしているのかを知り、それを打ち消すことによって、自律的なものが動きだします。

 

ジェンダーギャップ指数が114位だというのは、いわばそのギャップのままがいい人たちがたくさんいて、どんなところでも幅をきかせ、その力を譲るまいとしているということでしょう。

 

だからいくら江戸時代から400年たっても、400年分どんな状況も新しくなるのではなく、後退すらしうるのです。誰かがより力を持とうとするところでは、時代に関係なく、状況は保守化し、後退すると思います。

 

お子さんを持つ方々から聞く京都の学校の話し、下着の色まで決められるとこがあるとか。たぶんその話しは氷山の一角だろうなと想像します。

 

時代の流れというふうにいいますが、流れがあるのは川です。外がどう変わろうを変化を拒むものは沼か何かなのだろうと思います。

 

そのような力を持つことは閉鎖性と関わっていると思います。限られた空間内で力は維持しやすいし、その力がしく秩序が変わりにくいです。でも変化していかない場は淀んでいきます。

 

結局、変わらないということは、そこに止める力、引き戻す力が働いているということであり、単に新しい認識や知見が示されれば変わるなんていうことはないのだと思います。

 

知という領域においても、状況が更新されるのは純粋な発見だけでは足りず、その場における勢力図、パワーバランスが変わる必要があるのだろうなと思います。

 

パウロフレイレは、学びとは対話であり、変容がおこることだとしています。知識を提供するだけの預金型教育は、人々から自信を失わせ、自発的な主体であることを奪います。しかし、フレイレがそれを指摘して何年たったのが現代なのかと思うのです。50年です。

 

強い力が直接に統制をかけているところに変化がおこるのは大変なのですが、実は個々人は自律的に構成する小集団のなかで、属する環境の価値観に同一化することから距離をとり、内面化した価値観を更新していくことができます。できるというか、変化は自律的なものなので、止めているものを打ち消せば勝手に動き出すようです。

 

そういう理屈は、あまり僕の周りでは出回っていませんでした。もっと難しい本を探して読めばあったかもしれませんが、ある特定のやり方や手順だけでなく、個々人は自分なりに探究し、つかんでいくこともできると思っています。探究のやり方はこれだけ、「真理」への道はこれだけ(そしてそれは私たちが持っているから私たちに従いなさい)ということはないのだと思います。

 

個人はその内にまだ自分でも意識化や言語化できないような、自律性をもっています。その自律性は応答を続けていくことによって、力強く、より信頼できるものになっています。

 

26日の読書会では、そんなこんなも少し話せればいいなと思います。

 

【8月の催しもの】話しの場研究室・熾をかこむ会・お金についてのお話し会・DIY読書会ほか

8月は催しが多くなります。

 

8月11日(日)13時半 話しの場研究室 場所:ちいさな学校鞍馬口

8月14日(水)14時 熾(おき)をかこむ会 場所:茶山KPハザ

8月15日(木)16時 お金についてのお話し会 場所:キッチン・ハリーナ

8月19日(月)20時 DIY読書会 場所:ちいさな学校鞍馬口

8月23日(金)19時 私の探究・研究相談室

8月25日(日)13時半 話しの場研究室 場所:ちいさな学校鞍馬口

8月26日(月)13時半 『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』読書会 場所:フォロ・オープンスペース(地下鉄谷町線・京阪「天満橋駅」徒歩5分

 

【8/11日話しの場研究室】

時間:13:30〜

場所:ちいさな学校鞍馬口(北区)

内容:

第2、第4日曜日の話しの場研究会は、どのような話しの場であれば話しが成り立つのか、あるいは成り立たないのかを実際に経験されたケースを当事者研究するかたちで毎月ずっとやっていくつもりです。蓄積されたことは冊子か本かにしていきます。

 

これは自分の探究や研究を発表するジャンル難民学会やDIY読書会の雰囲気が多くの人に共有されるものにすることを趣旨とするものです。自由かつそれぞれの人が尊重される場の重要性はこのブログでも何度も述べてきたことですが、それがどういうことかは世間ではまるで共有されていません。

 

求められていないのに、自分の知識を相手に「教え」たり「指導」するような動機で人と話すと、話された相手は自分で考えたり探究したりしていくそもそもの気が失せます。そのように人に関わるのではなく、今その人にどんなプロセスがおきているのかを感じとろうとする尊重の態度を関わり方(聞きかた、話しかた)の基盤におきます。

 

相手をいかに自分の思う状態に持っていくかではなく、相手のプロセスは相手の自意識をこえた自律的なものなのだという理解を持ちます。そのプロセスがいこうとしているほうのつゆ払いをするつもりで、たとえば氷上で自分からどちらかへと動こうとしているカーリングのストーンがあるとして、そのストーンが行こうとしている前をはいてあげるような気持ちで聞いてみると「新しいこと」がおこっていくのがわかるかと思います。

 

「新しいこと」がおきないと、結局前と同じ考えをし、同じことの繰り返しをします。それはお互いにそうです。なので、その古い繰り返しの殻から新しいものが脱皮していくように、お互いにその「新しいこと」がおこる状況を与えあうということが、自分の変容に伴う話しの場には必要なのだと思います。

 

自分が変わらないで状況だけ変えようとする話しの場もありますし、何を趣旨とするかによって、それはそれで妥当性もあることだと思いますが、それは自分たちがやらなくても色々検討されていると思うので、僕は自分の感じられていること、見えている風景が変わるということを趣旨とした話しの場のあり方を探究したいと思っています。

 

14日は今回で5回目の熾をかこむ会です。西川さんがお仕事の都合で来られなくなりましたが、なんとなく場の感じの共有もできてきた感じになっています。初参加の方もどうぞ。

 

【8/14(水)熾をかこむ会】

時間:14:00〜17:00

場所:茶山KPハザ(京都市左京区田中北春菜町34−4 白い四階建のマンション「洛北館」の西向い奥)

内容:

話しの場では、今まさに自分におこっていることを話すような場もあれば、記憶の遠くにあるようなこと、ずっと昔から自分のどこか
にあった感覚や思いを確かめるような場もありうると思います。

焚き火があり、まきが燃えて崩れ、細かくなっていきます。しばらくの時間がたち、一見して火が消え、全て灰になってしまったようにみえても、そこに熾(おき)が残っています。そこに空気をあて、何かを燃えるものを置くなら火はまたおこります。

誰もが生きてきたなかで、心の奥底に残ってくすぶっている熾(おき)を持っているように思うのです。それは忙しい日常では背景にひいていて、しかし実は自分の生の基調低音に影響を与えているようなものではないかとも思うのです。

人の話しを聞いていると、そして自分にある熾が感じられてくることもあります。話しを「する」という気持ちよりも、話しが「おこる」感覚で話しをしてみましょう。

 

【8/15(木)お金のお話し会】

発案者 境 毅
日時:8月15日16:00〜20:00
場所:キッチンハリーナ(左京区
急に暑くなり、暑い日が続いていますが、みなさまお変わりありませんか。
昨年ハリーナで連続3回のお話し会をやりましたが、はや1年が経ちました。参加してく
ださったみなさまのこの1年はいかがでしたか。みなさまがたからの報告を聞きたくて、このお話し会を企画しました。
私からは、今年の初めに商品とお金の弁証法精神分析をテーマとすることにし、慣れ
ない精神分析関係の本を読んできましたが、その経過を報告させてください。
SNSの時代で、オンラインでのコミュニケーションが中心になってしまっていますが、
私は、フェイスブックの自分の投稿が規定に引っかかる、ということで没にされたことがあり、それ以降フェイスブックはやっていません。でも、メールにはフェイスブックの友達の情報が入ってきて、それは見たりもしています。そんな状態ですが、やはりサークル的な集まりで顔をつきあわせて話し合うことも大事ではないかと考えています。
また、初めて参加される方も歓迎です。お金の話がメインテーマです。
お話し会詳細
話題:みなさまからの報告
なお、食事しながらの交流会も予定しています。交流会参加希望者は、ハリーナに連絡
してください。

 

【8/19(月)DIY読書会】

時間:19日20時

場所:ちいさな学校鞍馬口(北区)

宿題なしで、自分が読んできた本を任意で発表したい人が発表する形式の読書会です。毎回3人ほどが発表します。僕は奥野克己さんのプナンの続きをやります。

 

【8/23(金)私の探究・研究相談室】

時間:19時

場所:本町エスコーラ(東山区

内容:

自分の関心のあること、調べてみたいと思っていること、探究したいことを持ち寄って話すことで、一人だけでは手につかなかったことが進んでいくかもしれません。

毎月第四金曜日の19時から本町エスコーラにて相談会をやっています。

学校が終わっても、自分の探究や自分の研究をもってみませんか。

自由に、自分が一番関心をひかれること、既にある分野や学問に必ずしもこだわらず、自分の探究・研究したいことに取り組んでみると、思わぬ世界が開いていきます。

連続して参加する人、初めて参加する人、どちらも大丈夫です。前の回から自分の研究テーマをもって研究が進んだ人、あるいは行き詰まった人はそれをぜひシェアしてください。

 

【8/25(日)話しの場研究室】

時間:13:30〜

場所:ちいさな学校鞍馬口(北区)

内容:8月11日に開始した話しの場研究室です。

 

【8/26(月)『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』読書会】

時間:13:30〜

場所:フォロ・オープンスペース

内容:

パウロフレイレ(1921〜1997)という人の名前を聞いたことがあるでしょうか。フレイレは、エンパワメントという概念を提唱した人で、既存の社会から抑圧された人たちが自らの状況を解放していく実践的なあり方を提示し、世界中に大きな影響を与えた人です。

 

といっても、亡くなられたのはもう20 年以上も前です。わざわざそんな古い人の思想を学ぶよりも、今ならもっと発展した思想やアプローチがあるだろうにと思われるかもしれません。私自身も里見実さんが書かれたこの著作『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』を読むまでは、フレイレの著作を読むこともなく、それ以上の興味を持っていませんでした。

 

ですが、この本を読んだとき、これは今の日本の状況に見事にあてはまるなと衝撃を受けました。自分が世間や社会に対してなんとなく感じていたリアリティが、ここではもう既に、明確に言葉にされていました。

 

「抑圧」という言葉がやや大仰に聞こえるかもしれませんが、ここでいわれる被抑圧者とは、世間やマジョリティの価値観を内面化した、大勢の「普通」の人も含まれます。マイノリティはマジョリティ(社会の強者)の価値観を内面化してしまうものなので、自分は劣っていると感じ、社会の強者に憧れ、強者の思想や判断基準を取り入れて自分を補おうとします。その結果マイノリティ同士がお互い自覚のない部分ではマッチョであり、攻撃しあってしまったりするのです。

 

どうすれば人は内面化してしまった抑圧的な価値観からも解放されうるのか。それこそが今も変わらず問われるべきことではないかなと思います。フレイレはそこにおいて核心的な領域まで到達した人だと思います。

 

この本は単にフレイレの本をわかりやすく、やさしく解説しているだけではありません。それと同時に筆者である里見さん自身も同じ一人の実践家、思想家として、今まで吟味し続けてきた経験と思想をもって、フレイレと「対話」をしているのです。正直なところ、私はフレイレ以上にこの対話を行っている里見さんという人の存在に感銘を受けたといっても過言ではありません。

 

里見さんは、フレイレの実践は、「支配」の装置として作動している「教育」を人間の解放の行為に反転させていくあり方を探り続けたものなのだといいます。「教育」は、反転させてこそようやく人間を人間にしていく対話になりうるのだ、とさらっと書く里見さんですが、読んで理解すれば当たり前のこのスタートラインは、フレイレの死後もいまだに日本の公教育では実践されていませんし、その問題性は一般にはまるで共有されていないようです。

 

The more things change, the more they stay the same.(多くのことが変わる一方で、それよりももっと多くのことが変わらずにそのままだ。)という言葉があります。様々なことが発見され、新しい理解が生まれても、社会は全く新しくなっていないようです。里見さんが紹介するフレイレの分析を知ると、現代の日本の状況、SNS上でおこっているようなことなどがそのままあてはまることに驚かれるでしょう。

 

社会では、先人が既に深く分析していることがまるでなかったように忘れられ、見過ごされて、またゼロから同じ問題が議論されているように感じます。石が積み上げられては崩されゼロになる、賽の河原のようなことがこの社会で繰りかえされていますが、この本はそんな現代の日本の社会のなかで生きる一人一人に、特にそれに疑問をもち、違和感を感じている人に、一つの確かな視座を提供してくれるものではないかなと思います。みなさんと一緒にこの本を読めることを大変嬉しく思っています

【案内の更新】7/26私の探究・研究相談室

本町エスコーラで開催させてもらっている私の探究・研究相談室の案内を更新しましたので、下記に転載します。

 

私の探究・研究相談室は、ジャンル難民学会(仮)の発表のための相談の場で、また発表というかたちを考えていなくても、自分の関心はどこに焦点をもっているのか、今感じていること考えていることなどを話してみるという場です。

 

僕は一般社団法人化に向けて、その枠組みと実際にどう準備していくかというところをまとめて発表しようと思います。

 

理想的には、今やっているDIY読書会のような場がそれぞれの場にできたらいいと思っています。しかし、いきなりあの雰囲気になるのは難しいのだろうと思います。マウンティングするみたいな人がやってきて、上から評価したり、アドバイスというかたちをとって自分の意見や価値観を押しつけたり、場を独占する人が延々としゃべったりするだろうと思うのです。

 

話しの場で、どういう感じが「いい感じ」なのか、その感覚を共有するが必要だと思っています。そもそも一般の場では、人の考えていることや話しを大切にするということがどういうことなのかということはまるで理解されていません。しかし同時に、その感覚がある場でははじめから何も「研修」しなくてもそれぞれの人の話しが聞かれもします。

 

話しの場、発表の場において、何が「いい感じ」なのか。まずそれを哲学カフェ的に話しあうことからはじめてもいいのかもしれません。

 

私の探究・研究相談室

日時:7月26日(金)19:00〜

場所:本町エスコーラ(東山区

アクセスはこちらから→ 一般社団法人 エスコーラ

 

 

人が本当に変わっていくということがどういうことなのかと思います。

 

ある人が本当に関心を持っていること、偽りなく問いをもっていることだけが、その人自身の保守性とか欺瞞性をこえていくために必要な亀裂だと思います。そしてその亀裂が自分にとって何であるかは、生きることを通して確かめられていく値打ちがあると思うのです。

 

自分に見えている風景を変えていくことは、他者である世界を既に知っているものだとせず、実際に触れて、思っていたものと違うことを目撃することであると思います。

 

精神にとっての贈りものは、既知のものを守り通したり、思い通りにする以上に、見えている世界が変わり、それまでの感じかたが更新されることなのではないでしょうか。世界が変わらない、とメリーゴーランドのような同じ風景に倦むとき、既知の外にある他者に触れにいくこともできます。

 

 

自分の関心のあること、調べてみたいと思っていること、探究したいことを持ち寄って話すことで、一人だけでは手につかなかったことが進んでいくかもしれません。

 

学校が終わっても、自分の探究や自分の研究をもってみませんか。

 

自由に、自分が一番関心をひかれること、既にある分野や学問に必ずしもこだわらず、自分の探究・研究したいことに取り組んでみると、思わぬ世界が開いていきます。

 

連続して参加する人、初めて参加する人、どちらも大丈夫です。前の回から自分の研究テーマをもって研究が進んだ人、あるいは行き詰まった人はそれをぜひシェアしてください。

 

 

【催しもの】8/26 里見実『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』読書会

大阪のフォロ・オープンスペースで行う読書会です。

 

里見実『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』

日 時:8月26日(月)13時半~
場 所:フォロ・オープンスペース
    地下鉄谷町線・京阪「天満橋駅」徒歩5分 →地図
参加費:500円

 

山下耕平さんとツイッターでやりとりしていて、読書会やりたいです、とお伝えしたところ応えていただいて、実現しました。

 

 

下記の案内文のThe more things chage, the more they stay the same (多くのことが変わる一方で、それよりももっと多くのことが変わらずにそのままだ。)は、バイオハザード6のエイダ・ウォンのセリフから知った言葉です。フランス革命がおこって多くのことが変わったように思えて、社会の下層の人たちの状況は変わらないじゃないか、という批判がこめられた言葉だったようです。

 

www.quora.com

 

 

 ◆案内文

パウロフレイレ(1921〜1997)という人の名前を聞いたことがあるでしょうか。フレイレは、エンパワメントという概念を提唱した人で、既存の社会から抑圧された人たちが自らの状況を解放していく実践的なあり方を提示し、世界中に大きな影響を与えた人です。

 

といっても、亡くなられたのはもう20 年以上も前です。わざわざそんな古い人の思想を学ぶよりも、今ならもっと発展した思想やアプローチがあるだろうにと思われるかもしれません。私自身も里見実さんが書かれたこの著作『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』を読むまでは、フレイレの著作を読むこともなく、それ以上の興味を持っていませんでした。

 

ですが、この本を読んだとき、これは今の日本の状況に見事にあてはまるなと衝撃を受けました。自分が世間や社会に対してなんとなく感じていたリアリティが、ここではもう既に、明確に言葉にされていました。

 

「抑圧」という言葉がやや大仰に聞こえるかもしれませんが、ここでいわれる被抑圧者とは、世間やマジョリティの価値観を内面化した、大勢の「普通」の人も含まれます。マイノリティはマジョリティ(社会の強者)の価値観を内面化してしまうものなので、自分は劣っていると感じ、社会の強者に憧れ、強者の思想や判断基準を取り入れて自分を補おうとします。その結果マイノリティ同士がお互い自覚のない部分ではマッチョであり、攻撃しあってしまったりするのです。

 

どうすれば人は内面化してしまった抑圧的な価値観からも解放されうるのか。それこそが今も変わらず問われるべきことではないかなと思います。フレイレはそこにおいて核心的な領域まで到達した人だと思います。

 

この本は単にフレイレの本をわかりやすく、やさしく解説しているだけではありません。それと同時に筆者である里見さん自身も同じ一人の実践家、思想家として、今まで吟味し続けてきた経験と思想をもって、フレイレと「対話」をしているのです。正直なところ、私はフレイレ以上にこの対話を行っている里見さんという人の存在に感銘を受けたといっても過言ではありません。

 

里見さんは、フレイレの実践は、「支配」の装置として作動している「教育」を人間の解放の行為に反転させていくあり方を探り続けたものなのだといいます。「教育」は、反転させてこそようやく人間を人間にしていく対話になりうるのだ、とさらっと書く里見さんですが、読んで理解すれば当たり前のこのスタートラインは、フレイレの死後もいまだに日本の公教育では実践されていませんし、その問題性は一般にはまるで共有されていないようです。

 

The more things change, the more they stay the same.(多くのことが変わる一方で、それよりももっと多くのことが変わらずにそのままだ。)という言葉があります。様々なことが発見され、新しい理解が生まれても、社会は全く新しくなっていないようです。里見さんが紹介するフレイレの分析を知ると、現代の日本の状況、SNS上でおこっているようなことなどがそのままあてはまることに驚かれるでしょう。

 

社会では、先人が既に深く分析していることがまるでなかったように忘れられ、見過ごされて、またゼロから同じ問題が議論されているように感じます。石が積み上げられては崩されゼロになる、賽の河原のようなことがこの社会で繰りかえされていますが、この本はそんな現代の日本の社会のなかで生きる一人一人に、特にそれに疑問をもち、違和感を感じている人に、一つの確かな視座を提供してくれるものではないかなと思います。みなさんと一緒にこの本を読めることを大変嬉しく思っています。