降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

【7月の催しもの】DIY読書会 熾をかこむ会 私の探究・研究相談室

7月の催しものです。全て初参加OKです。

 

【7/9(火)DIY読書会】

自分の読んできた本、または自分の活動の報告など、自分の発表したいことがある人が発表して、聞きにくる人は聞くDIY読書会、発表者も参加者も増えてきました。初参加も可能、入退場自由です。

時間:19:30〜
場所:ちいさな学校鞍馬口 https://goo.gl/WcJSpe

1)『忘れられた日本人』宮本常一(前回のつづき) rep:エコー

2)『目の見えない人は世界をどう見ているのか』伊藤亜紗/著 rep:松岡佐知

3)『近代日本150年』山本義隆著 rep:角南和宏

*初参加の方はcasaludens@gmail.com へご連絡をお願いいたします。(資料作成準備のため)

 

【7/10(水)熾をかこむ会】

時間:14:00〜17:00

場所:茶山KPハザ(京都市左京区田中北春菜町34−4 白い三階建のマンション「洛北館」の西向い奥)

内容:臨床哲学者の西川勝さんと共にお話しをします。今回が3回目です。初めての方もどうぞ

 

【7/26(金)私の探究・研究相談室】

時間:19:00

場所:本町エスコーラ http://www.escola-kyoto.com/escola-index.html

内容:自分にとって核心的な関心や興味を探究し、それをお互いにシェアします。私の探究・研究相談室は、発表する前に相談もできるゼミのような場所です。ジャンル難民学会の新しい展開に関心がある方もどうぞお越しください。今後、有志とともに発表ができる場所を関西各地に作っていく予定です。

 

 

週プレ「キン肉マン」の考察 

週プレのキン肉マン。ジャンプ連載当時は雑魚扱いで散々な役所にまわされ報われなかった数々の超人たちがそれぞれの過去を挽回していくこの物語のあり方をなんと呼べばいいだろう? 

wpb.shueisha.co.jp

キン肉マンは今流行になるような面白く新しいマンガである必要がない。作者自身が送る作品世界へそして自分自身へのはなむけのようだ。

 

Wikipediaよるとキン肉マンは、1979年に連載を開始した。当初は稚拙であるとされ編集部内でも評判がよくなかったが、途中からバトル重視のプロレスマンガに路線を変え、大ヒット。

 

僕の記憶では最初は単なるギャグだけでキン肉マン自身もあまり強くもなかったのだが、なぜか予選を勝ち上がり、ロビンマスクというチャンピオンで紳士で貴族でチャンンピオンであるレスラーと決勝戦で闘うことになる。

 

ロビンマスクは、人間性においても実力においても、また家柄のようなところにおいてもどこにも隙がない「完璧」なキャラ。一方、キン肉マンは親に豚と間違われて地球に捨てられ、貧乏で性格も怠惰でひがみっぽく、かっこ悪いという3拍子が揃ったキャラ。

 

だが、そのキン肉マンは、ロビンマスクの無自覚だった自分自身へのおごりをつき、勝利をおさめる。おそらく順風満帆なエリートであることが自分のアイデンティティであったロビンマスクは、頂点から奈落へと落ち、ならず者に加担してまでキン肉マンへの復讐を遂げようとする。

 

ロビンとの闘いのころから、ほぼふざけるばかりのギャグマンガだったところに、人間の深い苦しみが描かれるようになった。そしてエリートと落伍者、ろくでなしが出会い、闘いを通して変わっていくというテーマが現れる。

 

物語では、ロビンマスクテリーマンというエリートたちが不運(キン肉マンとの闘いなども含む。)に遭い、転落し、失意に溺れていく。

 

なんちゃって正義の味方を気取るが実際はほぼろくでなしのキン肉マンだったが、目の前で弱いものが虐げられることは許さない態度を当初より持っており、出会う相手たちの人間としての苦しみに直面し、闘いを通して、時折、何もかもかなぐり捨てたような、裸の受けとめを見せるようになる。

 

エリートたちのその転落した痛みは、実は社会の最底辺で皆に馬鹿にされ屈辱を受けてきたキン肉マン自身が経験してきた痛みではなかったか。わがままで自分勝手なキン肉マンだが、相手が深い痛みをみせるとき、それに震え、一瞬、誰よりも真人間に戻るような、底の見えない不思議な姿を見せた。

 

キン肉マンは、それまで尊厳を備えた人間として扱われてこなかった。彼は人から馬鹿にされ、周りから鼻をつままれるようなダメな特徴を全て詰め込んだような存在だった。彼がドンキホーテばりに自身を世界を救うヒーローのようにみなすことも、自分を保つために残された数少ない選択肢だったのではないかとも思う。

 

そんな彼にとって、エリートたちが叩き落とされた苦しみを感じることは、傷つけられた自分自身への深い共感でもあったのではないかと思う。

 

逆に、ロビンやテリーたちエリートにとっては、持つべきものを初めから何も持っていないのに生きていて、自身を取り繕うことをしない(できない)裸のキン肉マンの姿は彼らのそれまでの拘りを捨て、再生するために必要なモデルだったのではないかと思う。

 

キン肉マンは、ある段階までは、そのような人間の生々しい苦しみや痛み、人間として認められることと、認められないことというテーマを基盤に持っていたと思う。しかし、それがだんだんとバトルやその仕掛けの珍奇さの羅列に軸を移していったのではないかと思う。人間が抱え続けてきた痛み、打ち捨てられた人間の再生といった深いテーマは、だんだんと背景に沈み、表層的な描かれ方になった。

 

大人気だったキン肉マンだったが、1987年に終了後、作者であるゆでたまごは冬の時代に入った。Wikipediaによると、1990年台半ばになるともはや過去の人として扱われ、吉祥寺を歩いているところを通行人に「最近面白くねえんだよ!」と罵倒され頭を叩かれたという。

 

またキン肉マンの後日談「マッスル・リターンズ」をジャンプの出版社である集英社とは別の出版社である角川書店で出すにあたり、集英社はそれをあっさりと許可し、その後ゆでたまご集英社の少年ジャンプでキン肉マンをまた書きたいと申し出た際には「その必要はない」と断ったという。

 

だが「マッスル・リターンズ」への反響は大きく、その後プレイボーイ誌において描かれた「キン肉マンII世」は二度目のヒットとなり、リバイバル漫画ブームの先駆けとなった。

 

僕自身は、完璧超人という存在が出たタッグマッチシリーズ以降は興味が続かず、読めなくなった。「II世」も同様でキン肉マンにはもう興味が持てないという感じだった。キン肉マンを見なくなって、それこそ30年が経って、全く関心は持ってなかったけれど、週プレのセックス依存症のマンガが面白かったのでそちらを見ているとキン肉マンも更新されていたので、なんとなくもう一度見てみた。

 

キン肉マンは前のままの世界のキン肉マンだった。世界の見方の斬新さみたいなことはなかった。「友情」の捉え方も古い型通りのものだった。

 

違っていたのは、今回はまるでエピローグに徹するかのようにかつて登場した超人たちをもう一度登場させ、ストーリー展開や演出のためだけに使われたような彼ら十分に思いを遂げさせるように描いていること。かつて出てきた時の設定を思い出させ、そしてその当時では考えられないような、活躍をさせる。

 

リバイバル漫画というものがなんであるのかを理解し、軸にそえた展開だといえるのだと思う。人間は「とむらい」を生きているという理解になった今の自分にとっては、このとむらいを主軸にするような展開はとても興味深かった。とむらいは自分のなかの止まった「時間」を動かしていくことともいえるかもしれない。

 

人の心のなかの「時間」は止まっている。「時間」が止まっている状態とは、ある記憶や刺激に対し、いつまでも同じ反応しかおきず、同じようにしか感じられないということだ。思考を通して確認される世界の「時間」は止まっている。

 

そこでは既に序列は決定され、何が何を意味するのかはもう決まっている。だから思考を続けたところで同じところをぐるぐる周り、既に持っていた結論にたどり着く。

 

その決まってしまった世界を更新するためには、あることの意味が決まってしまった時のリアリティをもう一度感じながら、別の体験をするということが必要だ。すると、世界の感じられ方は更新される。

 

人間は自分を投影して世界を把握しているので、キン肉マンのなかで雑魚扱いされていた超人もまた自分の一部分であるといえる。自分のなかで軽んじられ、ひずんだまま止められたものが、とむらわれ、更新される。手放される。

 

今登場しているブロッケンJr.もどちらかというとここ一番で主役として出るような役柄じゃない壁際の存在。その彼が主役キン肉マンにかわって大一番を引き受ける。今、物語は主役をキン肉マンからブロッケンJrをはじめとした脇役たちにゆずっている。そのような脇役たちをもう一度活躍させ、花をむけることが物語の展開の軸となっている。

 

人は自分のうちに止まった世界を取り込んでいるともいえる。その止まった世界とは物語であり、その物語を構成している部分部分はそれぞれの場所に対応するリアリティが喚起されるとき、動きだし、変わっていくことができる。

 

特定のリアリティを喚起すれば、自分の世界に対する感じ方、反応の仕方は変化する。精神のなかで止まった物語に対して、精神の外にある物語はリアリティを喚起し、同期させることができる。

 

作者自身がキン肉マンによって、絶頂を経験し、そしてそこからの転落を経験したのは初期のキン肉マンのテーマと相通じていると思う。表現されたものは、自分の知らないこれからのことを予言していることがある。そして今、作者は自分自身にとって最大の作品であり、分身であるキン肉マンという作品のなかの登場人物たちをとむらうことを通して、自身のうちにある止まった世界を動かし、更新しているのだと思う。

作品の世界観は昔からあまり変わっていない。しかし、今はそこに不思議な熱気があり、自律的な展開の動きがある。作者自身のプロセスが物語と同期しているのだと思う。

 

映画「ほたるの川のまもりびと」と「万引き家族」

住民の抵抗運動を押し切って、ダム建設がすすめられるドキュメンタリーをみて、やるせない気持ちになったのは、水俣病患者の(症状はあっても認定は自分から取り下げられた)緒方正人さんが「チッソは私であった」といったように、普通の人の生活そのものが、その立ち退きを求められる住民の生活ですらが、全く無意識であってもその暴力に加担しているということだったと思う。

 

ohashilo.jp

 

この「普段の生活」を成り立たせている仕組みが、そもそも暴力の根源なのだと思う。その翌日に観た映画「万引き家族」のメンバーは社会規範に反した生き方をしているように思われるけれど、国や大企業が作った仕組みがあり、その暴力や盗みの恩恵の元に「普通の生活」がある。本質的には何も変わらない。

 

kapmos.hatenablog.com

 

緒方正人さんは、お金とは泥棒の分配センターの通行証じゃないかという。お金という代価を払ったのだから当然もらうものはもらうけれど、それがどこからどのように盗まれてきたのかは自分には関係ない。万引き家族が自分がモノを盗んだことによって彼らのした後のことを引き受ける人に何がおこるのか想像するのを拒否するように。

 

狂って以降、俺、自分のことを泥棒と思ってるんです。イヲをとる泥棒。以前はれっきとした「漁業」と思っていたばってんが。社会という枠の内では漁業でいいんだけど、その外に出ると泥棒。いっぺんこの枠自体を疑ってみる必要がある。枠をとっぱらったところでは、みんな多かれ少なかれ泥棒じゃないですか。スーパーで買えばそれで合法、と言ってすむ問題じゃない。スーパーなんていうなれば、泥棒たちの分配センターで、銭はそこの通行証みたいなものでしょ。我々はそこから持ちきれないくらい、冷蔵庫に入りきらずに腐らすくらい、いっぱいものをさげてきて、涼しい顔で金は払いました、と言ってる。

緒方正人『常世の舟を漕ぎて』

 

 

 

ダムに反対している家族から建設会社に就職する若者が出る。親は葛藤がありつつも、本人がそう望むのだから自分は反対しないという。若者は建設は地図に残るようなことであり、自分はそのような仕事がしたい、とのこと。

 

雁字搦め。社会の仕組みは隅々にまで浸透して、生活の仕方も考え方も、何もかもを、人を大きな暴力に加担させるように、はめるように設定している。

 

蹂躙されて、大きな傷と尊厳の決定的否定を受けて、立ち向かう人たちがいる。自分自身がその状況にならなければ、人間は抑圧の仕組みのなかに埋没したままなんだと思う。だから僕は受難や大きな傷のようなものこそ、人を人にする契機なのだと思う。

 

ダムに反対して座り込みをしている人たちは負けてしまうかもしれない。負けるということは、この社会の仕組みのなかで綱渡りしていくことに対しては不利に働く。

 

この社会での「生き残り」という「勝ち」を目指さない人、目指せない人たちもいる。僕はそういう人たちの価値を言葉にしたいと思う。

 

本当に追い詰められたとき、死ぬ間際にあるとき、社会の仕組みをこれからどうするというようなことと、自分に救いをもたらすこととが一致しないことに気づくと思う。社会での「生き残り」のために仕方なくやっていたことの一方で、自分は実は一貫して救いを求めていたじゃないかということに気づく。救いを生きるということをはじめる。

 

万引き家族」のメンバーは、自分たちが美味しい目をみて生き残り続けることを結果的に捨てた。変わろうとしていなかったけれど、自分たちが出会った状況と人を引き受け、応答をしていくうちに、彼らが生き残るために作っていた仕組みは破綻した。しかしその代わりに、それぞれの救いを生きることがはじまった。

 

取り返しのつかない状況に追い詰められるほど、人は深い回復の契機をもつ。救いはいつか到達するものなのではなく、救い自体を生きることなのだということに気づく。

 

 

救いというのを社会を変革することというふうに考えないほうがいい。俺が多数ということに関心がないのはそのせいです。「人」が救われればそれでよかですたい、俺は。社会変革とか多数とかへ向かうと、コントロールしようという意志が働く。ひとりでも救われればいいという気持ちに徹することだ。そしてほんのひとりとでも出会えたらいいという思いが、俺をコントロールとは逆の方向へと運んでくれるだろう。

ひとりひとりに出会う。結局これしかないんです。これがあればこそ、たとえ世界の終末が来ても、あの人がいる、この人がいる、と心に思い浮かべることもできるというもんです 緒方正人『常世の舟を漕ぎて』

 

taboman5.hatenablog.com

 

 

<ジャンル難民学会(仮)組織形態のイメージ>

ジャンル難民学会(仮)の組織のイメージをしてみました。

 

とりあえず、本部的なもの、それと話しの場の研究会、そして各地の連絡会(発表の場)の3つと、連絡会のかたちのバリエーションなど。

 

<ジャンル難民学会(仮)組織形態のイメージ>

1、本部的なもの・・・各地の連絡会の活動の活性化、相互交流の活性化をはかる。連絡会を作りたいという人に対して、連絡会のモデルや運営イメージなどの提供をする。既に存在している様々な学びの場をめぐってその様子をレポートしたりする。

 

1-2、話しの場研究会・・・本部に属し、どのような場であれば、個々人の尊厳は守られ、自由で抑圧のない相互を活性化する発表の場になるのかを当事者研究をし、得られた知見を蓄積していく。話しの場はどうすればよりいい場になりうるか、あるいはどうやっておこりがちな問題に対するかの当事者研究バンクになる。当事者研究バンクに蓄積されたものは、新しく連絡会をつくる人の参考にしてもらう。

 

おこりがちな問題例:

・限られた人だけが話し、場を独占する

・応答的なやりとりがされず、誰かの常識が人に押し付けられる

・個人の多様性を侵害するようなハラスメントやハラスメントめいた発言がされる

・発表者自身によって気づかれ、発見されていく探究の過程や試行錯誤を尊重せず、否定したり、指導したり、自分の思うようにコントロールしようとする。

 

3、連絡会・・・各地の発表の場。それぞれの状況や自律的に運営される。公開の発表会は、各地の連絡会にも情報がシェアされ、参加できる。ある発表の場を公開するかしないか、発表の会場の規模などは、各連絡会が自己裁量で決められる。

 

 

◆連絡会のモデルやパターンのアイデア

1、探究の発表の場だけを行う。

 

2、発表と発表に向けたゼミ的な相談の場、プレ発表の場なども行う。

 

3、読書会。普段は読書会をしていて、テーマが集まってきたら発表の場もうける。

 

4、DIY読書会(本が先に決められて参加者が集まるのではなく、参加者が自分の関心がある本を読んできて、その本を読んで考えたことを合わせて発表する読書会。必ずしも本でなくても、自分の活動の発表と考察でも構わない)をしながら、発表するテーマが出てきたら発表の場をもうける。

 

5、当事者研究。普段は当事者研究をやりながら、発表の機運が高まってきたら発表の場をもうける。

 

6、リードイン。(気になった他人の言葉(文章)を一つ、自分の言葉(文章)を一つ、それぞれの参加者が持ち寄って、全員がそれを紹介するという場。発表というハードルが高いと感じられる人が多いとき、まずは気になった他人の言葉や文章を紹介し、それに自分が感じることを添えるというもの。)発表したいという人が出てきて、機運が高まったら発表の場をもうける。

ジャンル難民学会(仮)の活動を展開させるにあたって

思わぬ流れから、ジャンル難民学会(私の探究・研究相談室)を一般社団法人化しないかという提案をいただきました。

 

最終的に一般社団法人化するかどうかはひとまずおいて、この機会に去年から半年間、こじんまりやってきた活動をもう展開させてみようと思っています。これまで考えてきたことを盛り込める機会でもあると思い、挑戦してみます。

 

盛り込みたいと思っているのは、四国八十八か所めぐりをモデルとした、メタコミュニティを派生させる仕組みです。

 

まず四国八十八か所めぐりというのは何かから説明すると、四国八十八か所めぐり(四国遍路)とは、四国に点在する八十八か所の弘法大師ゆかりの寺(札所)をめぐる巡礼です。

 

そこで個々の寺は、八十八か所めぐりのために出来たのではなく、八十八か所めぐりがたとえなくても自立して存在しています。しかし、そこに八十八か所めぐりというコンセプトがあるために、そこにより多くの人が毎年訪れ、札所、そして札所と札所をつなぐ遍路道では札所以上に様々な出会いや交流が生まれます。

一つの寺を一つのコミュニティだと考えます。一つのコミュニティはある一定のまとまりをもち、閉じています。コミュニティは外部との循環や相互作用が弱くなると、だんだんと型が決まってきて、勢いも落ちていきます。

 

だいたいどんなコミュニティも、そんなに頻繁には他のコミュニティと付き合うということはないのかなと思います。しかし、八十八か所めぐりは、コミュニティとコミュニティとの間に絶え間ない人の移動があるので、常に状況が更新され、場が活性化しています。

 

たとえば、僕が住んでいる京都には、様々な学びの場(コミュニティ)があるけれども、個々のコミュニティはお互いをどれだけ知っているだろうか、実際はほとんど知らないのではないかと思って、去年やったのが「学びの場めぐり」という京都自由学校の企画です。

 

ユニークなことをされている学びの場を6か所ほどピックアップし、8人ほどで巡るということをしました。巡ること自体が遊びでもありますし、すぐ定員が埋まりました。そしてそれぞれの場所をめぐりながら、学びとは何かという問いを哲学カフェ的に考えました。

 

その企画はそれぞれの場所に一回訪れるだけでしたが、八十八か所めぐりのようにたくさんの人が絶え間なくその間を巡り続けるということがもしおこれば、それぞれの学びの場を全部含めた大きな場、メタコミュニティともよべるような場が生まれるのではないかと思いました。

 

そんなふうになれば、単にそれぞれの学びの場が活性化し、その情報がひろがるというだけでなく、様々な出会いや交流がおき、そしてその出会いや交流が派生して何かがおこるだろうなと思います。そういうことができないかと思っていたのです。

 

デンマークでもにたような事例があって、デンマークは高校と大学の間にもう一ついける学校があります。私塾なのですが、それが国の補助を受けていてデンマーク全国にあり、高校を出た若者たちは、自分が学びたいことを学べる私塾にいきます。

 

それぞれの私塾は全寮制であり、お金持ちの子も貧しい家の子も同じ場所で過ごすそうです。そうして、自分の学びたいことを求めて、様々な私塾をめぐって、21歳ぐらいで大学に入学するということも珍しくないそうです。そのように、全国にある私塾を若者たちがぐるぐるまわっているわけです。

 

デンマーク原発が建てられるという話しが出たとき、市民は強い行動をおこし、それを阻止できたそうなのですが、その阻止にはこの私塾で作られたネットワークが功を奏していたと聞きました。様々な人が出会い、一緒に住み、関係性を育てることと、個々のネットワークが継ぎ接ぎとなって、大きなネットワークになっていたのだと思います。

 

四国八十八か所における寺が、デンマークにおいては全国各地に存在する私塾にあたるわけです。たくさんのコミュニティがあり、そこを絶え間なくめぐる人がいて、その結果として大きなメタコミュニティが生まれ、政府の決定をくつがえせるほどの力を持ち得たのです。

 

この仕組みをつくることはできないかと思っていたのですが、基本自分のやる催しはこじんまりなので、実現しそうにありませんでした。

 

ですが、ジャンル難民学会というかたちならできるのではないかと思いました。ジャンル難民学会は、自分の核心的な関心の探究や研究を、既存の制度やジャンルに必ずしもこだわらず自由に発表するというものなのですが、この趣旨に賛同してくれる人たちが住んでいる各地で、それぞれに発表する場所を作ってもらい、発表会の際にはそれをコミュニティ外部の人も聞きにいけるというかたちにするなら、相互のコミュニティの間に人の行き来ができて、循環がおこるのではないかと思ったのです。

 

とりあえずそういうかたちにしてみようと思い、FBで声をかけてみると、割に応じてくれる方たちがいました。兵庫県とか、神奈川とかでやってみたいという方も現れました。発表の場をつくるといっても、別にお金がかかることでもないので、やってもらえる方は今後も現れそうに思えます。

 

既存の仕組みや手続きに必ずしもこだわらず、自分の核心的な関心の探究や研究をして発表する場をつくるということ。そして、その趣旨に賛同してもらえる各地の人に同じような発表の場をつくってもらう。そしてお互いの発表が可視化されるようにして、そこに人の行き来を生む。

 

とりあえずこういったかたちを作っていこうかなと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

「時間」のワークショップ@カフェコモンズのレジメ

大阪府高槻市富田町にあるカフェコモンズで「時間」のワークショップをさせていただきました。その際発表したレジメを転載します。

 

6/21 「時間」のワークショップ

◆はじめに  時間と「時間」
 自分の時間が止まってしまったという感覚を持ったことがあるでしょうか。あるいは、逆に自分の時間が動きだしたという感覚があるでしょうか。自分の時間というとき、それは単に何もしなくていい時間のことではなく、自分のなかで必要な何かがおこっている時間のことをいうのではないでしょうか。自分の時間が動くというときの時間は、自分の外にあって数えられる量的な時間ではなく、自分の内に関わる質的な時間ではないでしょうか。

 

 面白いことに自分の外側の量的な時間への意識が強くなればなるほど、自分の内側の質的な時間の動きは止まってしまいます。あるいは意思をもって、やらなければいけないと思うことがあればあるほど、質的な時間の動きは止まってしまいます。逆に、質的な時間が動き出すと、数えられる時間を忘れてそのことに没頭してしまうこともあります。

 自分を外側から管理支配する時間に対して、自分の内側の質的な時間、プロセスとしての時間に鍵過去をつけて「時間」と表現することにします。

 

◆なぜ「時間」を取り扱うのか
 僕は臨床心理学科という心理カウセリングを勉強する学科に入りましたが、治療者と患者という上下関係や誰かを「患者」にして治療を目的にすることは、逆に人の自然な変化や回復を停滞させているところがあるのではないかと思うようになりました。また社会適応して、働けるようになればそれでいいのかという疑問もありました。

 

 回復とは何か。どのように回復していけるのか。上下関係ではなく、水平な関係の人同士の関わりで、「治療」ではない人の回復や変化はどうおこるのか。そしてどうやって生きていけばいいのか。そういうことを知りたいと思い、探ってきました。そこでたどり着いたのが「時間」ということになります。

治療や回復の勉強をしなくても、自分の「時間」が止まったり、動いたりしたときのことを思いだしてみること、人の「時間」が止まったり動いたりした話しを聞くこと、自分の「時間」に焦点を合わせて感じたり話したりすることで、「時間」は刺激を受けて動きだします。自分はただ自分の「時間」の動かし方を知ればいいのだと思います。それをずっと続けていくことで生きていく世界や感じられる世界は更新されていくと思います。

 

 僕が心理学科にいた頃、そこで卒論を書く人はみんな自分の問題をテーマにしているように思えました。なぜ自分の問題をテーマにするのか。実はそれが自分の最も関心のあることだからだと思います。自分の根源的な関心、興味は自分の底にある、普段は感じられないような根源的な痛みや苦しみからきているようです。そしてその根源的な関心に応答することで、人は力を引き出され、卒論のような、大きい課題を終えることも可能になります。鶴見俊輔はこのような自分にとっての根源的な問いを生きることを「親問題」を生きることだとし、自分を抑え、環境に埋没して場当たりに適応することを「子問題」に生きることだとしました。

 

 「親問題」に生きることは自分の根源的な問いを生きることです。たとえ経済的に自立をしたとしても、ただ場当たりの適応をしただけでは自分は回復していきません。回復とは回復を続けることであり、それは自分にとっての根源的な問いである「親問題」に対して、生涯をかけて応答していくことであり、それが自分にとっての充実と古い自分の更新をもたらします。そして「親問題」への応答と、自分の「時間」を動かしていくことはとても密接な関係があります。

 

◆これまでのワークショップで気づいたこと
 誰かの「時間」が止まったことや動いていたことを聞くと、自分の「時間」が止まったり、動いていたときの感覚が触発され、感じられます。「時間」の感覚が活性化すると、「時間」を自分に引き寄せることがよりやりやすくなります。「時間」は意識してやるものというよりは、ある感覚にゆだねることです。

 

 「時間」には色々な深さがあります。何もかもが順調にいっているとき、自分自身の「時間」はあまり動かなくても気にならないときがあります。逆に今までの生活が成り立たなくなったとき、表層の「時間」が止まったように感じられる時を経て、自分の深い「時間」を動かざるを得なくなることもあります。表層の「時間」が止まったからこそ、深く自分を生きられるようになることもあり、一概にどんなときも「時間」が動けばいいということではないようです。

 

◆ワーク 時間についてのエピソードを書いて紹介する。
 自分の時間が止まっていたと感じたとき、あるいは自分の時間が動きだしたと感じたときのエピソードを教えてください。お配りするA4用紙に記入していただければと思います。

どこにもいかない

人間の変化と回復について考えてきた。どうやって回復していけるのか。

 

しかし、一つ前の記事を書いてみて、自分が今知りたいのは回復のあり方ではなさそうだなという感じがしてきた。

 

実際にどう回復するか、どう変化しうるかよりも、自分は納得するということを求めていると思った。

 

回復を求めれば、回復していない状態を否定してしまう。そしてそのことにより余計な停滞がはいる。だから回復を直接に求めないということはこれまで何度も書いてもきた。しかし、それでもやはりそれが結局は回復を目的としているのなら強迫性は自分に対し否定的に影響しているだろう。

 

自分は今、強迫的なものを打ち消す理解を求めている。だからどうやって回復するかより、どうやって世界のありようをより深く納得し、引き受けることができるようになるかが重要だと思う。

 

昨日、自分の仕事に納得ができず、つまらない仕事だと思い、不満をもちながらやっているという人の話しを聞いた。

 

間接的な話しなので、実際や実態は知らないが、これについて思うことは、人がそのように不満をもって、屈辱的な気持ちをもっているのに、なおそこにとどまらざるを得ないということ。

 

人はそんなに簡単に変われるものではないというのが僕の今の理解になっている。それまでに作られてきた強力な殻があり、それが壊れるという契機を得ないと変われない。人は自分自身では変われない。

 

そして変わったとして、回復したとして、それが何なのかと思うようにもなっている。どれだけ回復したか、という競争でもしているのか。

 

「メタコミュケーション力」がアップしたり、やさしくなったりしたとしても、それもまた自分がどれだけ有用になったかという視点から判断しているのならば、競争社会の原理を相変わらず取り入れているだけだと思う。

 

不遇に生き、不遇に死ぬ。それを避けれるか避けれないかは、究極的には、自分の努力ではない。たまたま通り魔に刺されて死ぬかもしれないのだから。

 

表面上何を獲得し何を達成したとしても、本質的にはどこにもいかない。何も変わらない。その地点にいるということを納得するかどうかというだけなのではないかと思う。