降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ブックレビュー アサダワタル『住み開き 家から始めるコミュニティ』

アサダワタルさんの「住み開き〜家からはじめるコミュニティ〜」のブックレビュー、参加者は住み開きを経験した方やこれから始めようとする方などで、それぞれの経験、活動や今後したいことなどの話しが盛り上がりました。

 

著書のなかでは、東京、大阪ほか各地の住み開きの事例が列挙されています。
この本で紹介されている住み開きをはじめる人たちは、クリエイター、ミュージシャン等アーティスト、建築を学んだ人、英会話教師、海外ボランティア、ワークキャンプ体験者、大学の元教員、高齢者介護施設の元職員などでした。

 

建築を学んだ人たちは、自分でつくれるということがまず強みだなあと思いました。クリエイターや、芸術系の人たちは、自分たちの表現を続けていくため、活性化させるために必要な場を求める過程で住み開きというかたちに移行するのは割と自然な流れになる場合も多そうと思います。

 

海外ボランティア・ワークキャンプ経験者は、海外で体験したことや出会いをそこで終わらせず、出会った人が再会したり、自分なりに日本では見えにくかったり、触れにくいものをシェアすること自分の活動としてやっていきたいという思いを持っている様子。

 

教員、英会話教師などは、もともと人にシェアしやすいものを持っているし、仕事柄人との関わりをオープンな場で行うことに既に親しんでいるところもあるかという印象です。あるいは実家が八百屋だったり、住み開きに近いような環境で育った人が自分も住み開きのようなことを始めているケースもよくあるようです。

 

アサダさんは、都市に住む私たちは無意識のうちに都市に役割を与え、ここは遊ぶ場所、ここは食べ物を買う場所などと決めている、そして自分もまたある空間にいることで、無意識にある役割(お客・サービス提供者など)を負っているといいます。お金を介した役割の交換は便利であるものの、一方でそれが満たせないものもある。だからその満たされないものを満たすために、場をつくりだしている人がいる。

 

住み開きを始めている人たちは、そこにやってくる人と自分との関係性の性質や役割を自分で設定することができます。その場をつくっている文脈や物理的条件によって、人の関わり方、コミュニケーションのあり方、物事の動き方は、意識しなくても変化する。空間を調整することによって、自分が得たいものを得る仕組みをつくろうとしています。個々の活動の核は自分。開き具合やプライベートの位置づけも自分が自分にあうように調整しているし、できる。

 

自分にとって必要なもの、自分がなりたいものになるために何かの必要なプロセスがあるけれど、それが既存の仕組みのなかにないので、得るための仕組みをつくりださなければならなかったり、自分のあり方を変化させる必要があったというのがここで紹介されているおおかたの人に通じるところだと思います。

 

<付録エントリー> 自助・住み開き・パッチワーク

城陽NPO法人「優人」。

わたしの現場

アサダワタルさんの『住み開き 〜家からはじめるコミュニティ』で紹介されている。
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京都府城陽市で活動するNPO法人「優人」「スタッフ=家族」という体勢で自宅を開放。介護の必要な高齢者や障害者、小さな子どもやひきこもりの若者を対象に、老若男女が集える場づくりを行っている。p132」
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周りの人にも割と知られていた。制度に縛られない人と人の関わりのあり様を成り立たせる模索をされている。

僕は住み開きというのは、自助を軸とした場づくりとしてとらえている。暮らしというところでは、一時的なものではなくある程度の持続性もいる。人やものが循環し、その場の独特の生態系ができる。その生態系によって、初めて維持されるような空間の質があったり、尊厳があると思う。何かいいものの価値が周りの人にとっても、発見され、共有され、守られる。

活動の最初は、その価値を必要としているものが、周りにそれを与え続ける。たぶん金銭を媒介させるか否かにも関わらず、それはギブアンドテイクみたいな、等量同士の交換ではなく、たとえ一見そのような交換のかたちをとっていたとしても、周りのほうが圧倒的に受け取るものが多いかたちになる。やりはじめた人はただずっと与え続ける。

そのことによって、周りは新しい価値に気づく。それは、知らなかったこと、あるいは潜在的、顕在的に望んでいたけれどできなかったことなどだ。そして周りは、それぞれが自然にその生態系を維持したり、盛り上げたりするような行動をしだしたりする。

それが生態系の自律性、自立性に関わってくる。一個人がその生態系を維持し続けるには限界がある。向けることができる意識も時間もエネルギーも限られている。個人は、自分に切実に必要な価値のために行動を始めるため、そこで生み出され投入できるエネルギーは多いが無限ではない。

周りの人の自発的な関わり、盛り上げが起きてくると自律性が徐々に育ってきている状態だといえると思う。そこで重要なのは、生態系に対する個々の周りの人の盛り上げは、それぞれの個々自身のエンパワーを軸としていることだと思う。そのことによって、生態系の健康性の維持と疲弊の回避が可能になる。

生態系が自律性を高めていくにつれ、個人の力をこえた力が生まれてくる。人ではなく、生態系自体が自律的に何かの現象をおこすようなことが生まれてくる。そもそも最初の活動を始めた個人もそれによって救われるようなことがおこる。

生態系は自律性をもっている。自分で自分をよい方向に、展開していく方向にもっていこうとしている。しかし、その力のみによって生態系を維持することはできないと思う。最もいい感じなのは、その自律性自体の力を発現させ、その力の豊かさをもらうこと。これが生きものとしての自然でもあると思う。しかし、その自律性の発現のためには、周到で意識的な外枠づくり、成り立たすための外側の調整も必要だ。

京都新聞の記事では、優人は利用者が伸び悩んでいるという。制度に守られてないために、自費負担が増える。

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「制度に乗れば利用者の負担は減り運営も安定するが、規則にしばられ、今のように困っている人は誰でも受け入れたり、家で過ごすようにしてはもらえない。ジレンマです。困っている人の支援は制度内が当たり前という現実が悔しい。」
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文化・芸術・福祉などの領域を自分たちに取り戻し、育て守ろうとする住み開きが成り立つための外枠、外側の仕組みを行政に任せるのには限界があるのかと思う。

かつて、元田中にあった自給の畑と田んぼでとれた作物でつくった料理を出してくれていた「畑カフェ おいしい」で、働かれていたスタッフは芸術系の人が多かった。なぜかときくと、自分が作品をつくり続けるために生活や時間が自分によって保証され、守られる必要があると言っていた。そのための自給自足だと。

そういう意味では、自給自足×福祉、自給自足×芸術、自給自足×文化、というふうに、コラボ、パッチワークでお互いを成り立たせる可能性がないかと思っている。むろん、小規模で、お互いが単体でまずある程度以上の自立性があることが必要だけれど。

行政が支援してくれなくなったらそこで「はい、終わり」になる仕組みだけでなくてもいいのではないだろうか。小規模で、それぞれが切実に必要としていること、その一点を確保する+自給というコラボによって必要最低限の自立性の基盤を確保できないだろうか。

一元的、一律的な大きなシステムに並行して、多元的で、小さなシステムのパッチワークで成り立たせる世界の層を成り立たせていく。

小さなところで、自分たちの主体を、責任を取り戻していくことが必要だと思う。国や社会の真っ当さを問う前に、一人一人が持つべきものが既に失われているかもしれない。その回復へ向かう方法としても、小さくしかし世界を自分に取り戻していくことが必要なのではないだろうか。



「大衆人とはブルジョワジーであり、自らの世界が滅亡する最中にあって、自分の私的な安全以外には何も思い悩むことがない。そしてほんの少し挑発されるだけで、あらゆるもの―信念、名誉、尊敬―を犠牲にしてしまうのであった。明らかとなったのは、自分たちの私的な生活の安全の確保以外には何も顧慮しない人々の私生活と私的な道徳ほど破壊の容易なものはない、ということである。」(アーレント全体主義の起源』)

 

 

全体主義の起原 1――反ユダヤ主義 【新版】