僕の理解では、パウロ・フレイレは被抑圧状況からの「移行状態」を人の人たる特性であるとしています。その移行状態にない時に、人は特に人たるものでもないのです。人の体を持っていたり、何かを達成したり、どこかの文化圏に所属するからといって自動的に人たるわけではないのです。
少し似たように、僕は人がどこにいるのだろうかと考えていて、人は勝利するほうにはいないと思うようになりました。先のフレイレの話しと同じく、この時、「人」は物理的な存在ではなく、加えて「移行状態」でもありません。人は負ける側にいます。それは与えるということでもあります。
しかし、自分が「与える」から負けているということにはなりません。この社会で、「与える」「提供する」人は、与えられる人より「えらい」人です。インプロ(即興演劇)などでいうところの、「ステータスが高い」人です。「支援」として与えると同時に、相手は自動的に「被支援者」なります。そのことによって自分が「支援した」というステータスを得ることは、負けることではなく、勝つこと、奪うことであり、それを避けることができません。
奪うこと抜きに助ける人になることなどできません。そのことに無自覚であれば、より一層奪うことになるでしょう。このことを端的に表現したのが松岡宮さんの「謝れ職業人」だと思います。
謝れ職業人 松岡宮
「ああ、今日も会社に泊まりこみで仕事だよ」
と
疲れた声で言う
職業人は
謝れ
全ての「だめなヤツ」に
細い声で
謝れ
「ああ、忙しい忙しい」
と
朝早く出てゆくひと
乗り換えの駅で朝食をかっこみ
後続列車に乗ってゆく
職業人は
謝れ
手をついて
謝れ
「俺はやっとやりがいを見つけた」
なら
謝れ
仕事にきちんと就くことは罪なのだから
それをきちんと謝罪せよ
そう、あなた
今日も働いて働いて
上司に怒鳴られてもがんばって
同僚とのおしゃべりで気晴らして
ときどき仕事でも嬉しい事があるんだよ・・・
それなら
足下を見ろ
そこに横たういくつもの白い腹を見ろ
白いブヨブヨした腹を踏みつけてサーフィンしているあなた
イエイ♪ゴーゴー♪しているあなた
内臓破裂の暖かさに包まれている
あなたは
すべての弱いものに謝罪せよ
あなたの強さを謝罪せよ
仕事
仕事
仕事
取引
連絡
申し送り
あなたがそうやって一生懸命生きる事で壊してきた
そしてそうやって一生懸命働くことで壊している
すべてのダメなもの弱いものアホなもの
恥ずかしいもの腐ったもの古くなったもの
に
謝罪せよ
あなたが彼らの年金を払ってやることに対して
謝れ
あなたが彼らの医療費をまかなうことに
謝れ
あなたが彼らを保護しいたわり慰めることに
謝れ
3月15日くもり
自分がたまたま頑丈であり
毎朝おはようと笑って出かける
そのことに
ごめんな
さい
松岡宮さんのHP
ある禅僧が乞食にゴザ(だったか)を与えると、乞食はなんの笑顔も見せず、黙って受け取りました。禅僧が「お前は嬉しくないのか」とたずねると、乞食は「お前は俺にゴザを与えられて嬉しくないのか」と返したというエピソードを聞いたことがあります。
禅僧もお金が有り余っているわけではなかったでしょう。そういう意味では、ゴザをあげるということは痛みでもあります。その痛みにおいては、彼は純粋に与えているといえるのかと思います。と同時に、与える人と与えられる人という構図をそこに生むことは、奪うことです。それに追い討ちをかけるように「嬉しくないのか」とたずねることはより更に奪うことでしょう。
与えられる乞食にとっては、モノの豊かさ以上にその構図にあてはめられることによって、自分の意味を奪われることのほうが苦痛です。
乞食は禅僧から一本取ります。禅僧はその負けの痛みにおいて、乞食に与えたといえるでしょうし、乞食はその勝ちという一点においては、奪うものになったのだと思います。
間違ったことや抑圧に最初に立ち向かった人は報われず犠牲になることが多いと思います。その人に賛同し、その後に続く人は、立ち向かって犠牲になった人たちの成果を得ることができます。しかし、成果を享受できなかった人たちはどうなるのでしょうか。成果は享受した人たちは、その犠牲者を悼み、たたえますが、犠牲は取り返しがつきません。
成果を享受するためにやるのではない人は負ける人です。そして僕は負けるというところにおいて人がいると思います。
負ける人が育てた果実を後の人たちは食べることができます。果実をもらい、なお勝とうとすること、そう願わずにいられないということがどういうことなのか、そこから推して知ることです。