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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

話しをすること 「何か」がおこること 居場所

図書館に本を返しにいく。夏は日が暮れる時間がいい。

 

id:boundary-lineさんのブログを読む。居場所について。

 

usaginooto.hatenablog.jp

 

 

誰かと話しをする場があればいいのにとよく思う。別に知り合いのカフェに行けばいいのだけれど、贅沢をいえば話したいテーマ、関心あるテーマをのびのび話し合えるようなところがいい。僕はテーマトーカー(?)で、いつも何かのテーマについて互いに探求しあうようなことがしたくて、世間話はあまり関心がない。

 

イタリアに住まれたことのある方からイタリアでは、そういう話しの場が幾らでもあるという。その方は、日本に帰ってきてそれがないので自分で月1で話しができる場所をつくったという。

 

話しは、自分が気づいたり、発見したばかりのところや、知りつつあることを話したいが、どこかに行けばそれが話せるというところはあまりない。先週、琵琶湖の花火大会があって、『住み開き』や『コミュニティ難民のススメ』の著者のアサダワタルさんが現地で家開きをされていた。アサダさんの分析はとても面白い。そういう場所では、刺激的な、満足いく話しができる。

 

住み開き―家から始めるコミュニティ

住み開き―家から始めるコミュニティ

 

 

コミュニティ難民のススメ ― 表現と仕事のハザマにあること ―

コミュニティ難民のススメ ― 表現と仕事のハザマにあること ―

 

 

過去のエントリーでもアサダさんのことについて書いたものがある。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

ともあれ、場を求めて自分でも話しの場をつくるが全然十分だと感じない。自分が一つ一つ企画しなくても、話したくなったときにふらっと寄れて十分に話しがしたい。

 

探求的な話しをするというときは、自分と相手の共有している前提が同じぐらいである必要があると思う。どちらかが面白くなくなって、場が冷えればそれで話しは終わってしまう。お互いにその場で発見し、それが十分に面白いというラリーのような状態が理想的だと思う。

 

大学のころ、不登校の中学生と関わる時間があって、何かの流れで卓球をすることになった。僕は卓球は得意でないし、特に好きでもなかった。そして、同じく流れで僕の相手をすることになった中学生も卓球が好きではなかった。が、その技術水準があまりに一致していたので、やっているといい感じでゲームが続き、面白くなってきた。しかもそのバランスの妙で、ゲーム中にお互いがその場で上達していくのがわかる。全く期待してないのと現実との落差もあって、感動的に盛り上がった。

 

しかし、それは奇跡的な部類で普通はおきない。おまけ的にいつかおこるかもしれないというぐらいで、あまり期待はしていない。

 

ある程度充実すればいい。大体いつもその人の関心のあることを訊く。人は自分の好きなことに関しては妥協しないところがあって、その話しは面白い。

 

あと相手が感性で何かをとらえているが、それを納得がいくようなかたちで位置づけることができなくて、常識的な判断と自分の感覚の乖離に困っている場合がある。そういう時は動機があるから話しができる。共に探求ができる。

 

僕にとって人と話した、関わったということは、そこに何かの変化がおきた手応えを感じたということと等しい。小規模であっても、そこでいつもと同じ繰り返しがおこって過去に回収されるのではなく、別の通路が生まれるのを感じたときに、ようやく自分のエネルギーは蓄積される。心が生きている状態を保つのに必要なエネルギーをそこからもらう。そしてそのエネルギーを運用してまた次に出会う。この繰り返しが、精神的なサバイバルだ。

 

居場所というのは、自分にとって安全な場であったり、そこにいれば元気が出る場、疲れを回復させる場所、というような要件を満たした物理的な場所を指していることが多いのかと思う。

 

自分をふりかえってみると、僕は最近は居場所という言葉をあまり使っていない。それは多分、居場所という言葉が、具体的で固定的な場所のことを指しているように感じられるからだと思う。その場所にいればいつでも回復するのだろうかと自問すると、いやそうではないだろうと思う。

 

その場所にいることで、「何か」がおこるからこそ、そこは居場所たりうる。だから肝は「何か」がおこるということのほうであって、場所はその出来事を誘発する可能性を高める外枠の一つにすぎないと思う。

 

ある状態をおこすこと、またその状態をなるべく維持すること。そのことによって、次の展開は自然に生まれてくると思う。蚊取り線香に一旦火がつけば、あとは水につけたり、金属にひっつけたりしなければ、自然と火は最後まで進んでいく。自力でやる必要があるのは、最初の火がつくため環境設定と火の維持のための環境設定だ。発火は自然発火だと思う。火は既にある。自力で火をつけるとか思っていると疲れていく。

 

よって、自分がどれだけ環境設定を自由にできるか、そして必要な人や物や場所につながれるか、といったことが重要になってくると思う。僕の場合は、シェアハウスやそのフリースペース、そして畑、周りの人との関わりなどが何かをするときの媒体になる。自分が自由に使える媒体はあったほうがいいと思う。

 

催しや活動をするのは、一つは潜在的な仲間と出会ったり、既にある関係性を育てるため。あと催しをするときは大きいエネルギーを使うけれど、催しをすることで、そこに今までなかった通路ができるようにする。通路がつくられると、自分が毎回動かなくても何かの話しがやってきたり、新しいものが自分から流れてきてくれる。

 

工夫するのもエネルギーがいるかもしれないけれど、それは割にあう。通路をつくり整え、つなげるとそこに循環がおきるようになる。循環がおこるとエネルギーは自動的にたまっていく。

 

何かが満たされれば必要なものは変わっていく。そのたびに必要になったものをどのように自分に提供してあげるかという試行がずっと続いていく。