降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

作り出されたリアリティのなかで

佐伯胖さんの話しをいつも思い出す。

 

チンパンジーとヒトの幼児にお菓子がでる仕掛けの操りかたを示すと両者とも同じ手順にそってお菓子を手に入れる。次に仕掛けを隠していたカバーをとると、手順など取らなくても直接手を突っ込めばお菓子が取れる状態だったことが一目瞭然になる。チンパンジーは手順にそうことなどやめ、さっさと取る。しかし、ヒトの幼児は同じ手順を踏んでお菓子をとるという実験結果がある。

 

「模倣から教育を再考する」佐伯胖

https://www.blog.crn.or.jp/kodomogaku/m/pdf/26.pdf


 

見ればわかる現実、考えればわかる現実をシャットアウトし、教わったことを忠実に模倣し何も考えず繰り返せる能力。飛行機が何で飛ぶのかを知らなくても乗れる。現実でないものを現実と信じ、非現実を生きられることが良くも悪くもヒトならではの能力なのだろう。

 

台風や地震がきて電気が止まったりして初めて知る「現実」があった。95年の震災で「現実」を知った知り合いは、2階以上の住居に住むことはやめたそうだ。

 

剥き出しの「現実」に遭遇せざるを得ないことは、一般には不幸なことだとされる。

 

だが同じ手順にそっていたら今は「お菓子」が出てくるのだからそれでいいのだろうか。仕掛けを作っている人は誰だろうか。どのようにその仕掛けは作られているのだろうか。

 

作り出されたリアリティのなかで、「快適」に生きている代償とはどんなものだろうか?

 

 

 

文化人類学研究科がなくなる

出身大学から文化人類学科と研究科がなくなる。僕も修士の時は文化人類学研究科にいた。

 

先週の土曜日はその18年を振り返る催しがあり、かつての教職員も含めて30人ほどの人がこじんまりと集まっていた。

 

文化人類学研究科では四国遍路における旅人のインタビュー調査をした。自分の探究したいことが探究できたと思っている。のびのびと好きなようにやらせてもらった。四国遍路とは変化を求める旅人にとってどういう媒体なのか、人はどういうふうに変化していくのか。ここで体験したことは現在の自分の基礎になっている。

 

そこを修了して15年ほどになる。自分は偏狭で、あの当時、ある人の指導の姿勢は間違っているのではと思って内心は腹を立てていた。院生の共同研究室でそのゼミ生の混乱ぶりをみて、生徒に動機や能力以上のことをさせて圧迫したところで、別にその人は研究の道に進むわけでもないのにと思っていた。ところがその人は10年働いた後で博士過程に入学したそうだ。

 

会場で、人類学の参与観察、調査は、「認識論だ」、「役に立たなければならないかと思っていたけれど、調査至上主義でいいのだと思うようになった」という言葉が一番印象に残った。

 

僕は、人の変化とは何か、それはどのようにおこるのかを探ってきて、やがて学びとは何かを問うようになった。当たり前になってしまった日常そして抑圧が、違う文化との出会いによって壊れ、新しい世界の見え方がやってくる。自分を壊すその出会い抜きに学びは語れないのではないだろうか。

 

未だにそういう出会い抜きに情報を蓄積してお作法通りで整理したようなことに自分の解釈を加えたことが「客観的」な事実で妥当なやり方、それ以外は全部認めない、みたいなことが幅をきかしている。

 

参与観察において調査者は、自分が外部の文化のものでありながら、内部の文化と関わりながら見えてくる世界を記述する。調査者が関わっているからそれは客観的でもないし、科学でもないというのは馬鹿馬鹿しい話しだ。むしろ厳密に考えるなら、調査の結果出てきたことというのは、繰り返し再現されることではなく、一回性のものなのだ。繰り返し再現されるというのが、厳密に考えたらありえないのに、それが「ある」とするほうが、頑なな信仰ではないだろうか。

 

どのように調査したかにより意識的であり、その調査のあり方によってこのような結果が出たというほうがむしろ信頼できる。人間に関して、完全に客観的な方法でやりましたから、出た結果もブレのない客観的真実です的なものの方が無視しているものが多すぎる。

 

調査とは「認識論だ」「調査至上主義でいいのだ」という言葉は、暴論ではなく、吟味に吟味を重ねられた上での言葉だと思う。調査者がもし自分が壊され変化するということを伴わずに調査して結果を整理していく時、そのまとめられたものは調査者の古い世界観をいつまでも底に敷いていると思う。

 

調査されたものは限定的なものであって、その限定性においてブレを持っている。そうでしかない。その時、調査することにより真摯に向き合うなら、出会いによって、古い自分を壊し、更新しながら関わりを深めていくしかない。出会い、そして応答していくということだ。

 

「役に立つこと」に閉じることは、既に知っているものの、当たり前にされて見えなくなっているものはそのままで、そこに従わされるということだ。

組み合わせる必然 防災とDIY

防災DIYをひろげていくことには、とりあえず二つ意義があります。

一つは、特定の人に限られず、他者との共同性が内在されていること。防災という文脈は、老いも若きも能力や意識の高い低いもない、病気や障害の有無、職業の違いや細かな思想の違いもなく、政治や社会運動に関わるとか関わらないとか関係なく、全ての人が関わる必然、土台を提供します。

 

現代社会において、そうと意識されないままに、個々人や個々の家庭の空間は区切られ、孤立しています。他者と関わりがなくても、ものがあってお金があって、システムがあって、人の助けをかりず、生活がやっていけるということは、同時になんとなしに人と関わり、新しい発想や助けをもらえる機会が失われているということでもあるのではないでしょうか。

 

そういう構造の環境では、他人は社会システムに任せ、自分や自分たち家族は相手より先にいいものを獲得すればいい。そういう発想になりがちです。

 

しかし、防災ということを念頭に置くとどうなるでしょうか。自分のことだけでなく、周りはどうだろうか、どうやって共に日々を生き抜いていけるだろうかという発想が自然に浮かんできます。

 

現代の社会の構造からは、色々な問題が生まれてきます。

 

ごく自然に個々の区切られた空間に孤立させられ、他人を潜在的な競争相手とされること。自分の好きにする力を増すために経済活動に邁進するしかないと思わされること。そのために嫌なこと、大変なことをやっていると思い、無自覚に被害者意識が高まっていき、自分と同じ苦痛を享受してない思われる人に攻撃し、罰を与えようとしてしまうことなど。

 

防災は、このような現代の社会環境の疎外を補い、被災者としての「共同的な存在としての私たち」を自然にイメージさせると共に、お互いが関わる必然を提供します。


もう一つの意義は、DIYということの意義ですが、全ての人が関われる必然性をもつということを含んだDIY活動は、多様性を受け止める社会環境が織り成されていくことに直接的に寄与します。

 

DIYというとモノづくりなどのことだけだと思われるかもしれませんが、「ライフハック」と呼ばれるものはDIY(の一側面)です。

 

menhera.jp

目的を達成するためにこうしなければならないと思われているために高いハードルになっているものを別のやり方で遂行することは、活力を呼び、創造性を活性化します。

 

決められたこと、やらなければならないことをいやいややらなければならないのは、つまるところ、他人が設定した枠組みに自分を無理やり合わせることになっているためではないでしょうか。その時は必要を満たしても疲弊が残ります。嫌なことをやらなければいけない自分の境遇を否定的に感じ、さらにできないときは自分は弱くみじめに無力な存在として感じられます。

 

一方、自分のやり方で必要を満たしたときは、単に必要を満たす以上のことがおこります。世界の見え方、感じ方が変わり、諦めていたことも、自分なりのやりようによってはできるかもしれないという感覚が生まれます。個々人にとってより必要なのは、単に目の前の必要を満たすだけでなく、そのような希望や創造的な働きかけにつながる効力感を得ていくことではないでしょうか。

 

共同性をもつ「防災」という文脈を踏まえるとき、個々の孤立した空間、プライベートな空間のなかで完結していたDIYの次元が変わります。

 

それはたとえば、災害状況になっても、スマホのゲームの自律電源は欲しいから地域の小水力発電に参加するというような、意識が高いのか低いのかわからないような様々な動機や思想をもつ個々人が、それぞれの自分なりの関わりやあり方を組み合わせ、特性あるそれぞれの存在が活性化される重層的な環境、もう一つの世界をつくる次元のDIYになりうるのではと思います。

11月4日防災DIY 畑プロジェクト進捗状況

防災DIY 畑プロジェクト第一日目は、排水改善のための外周の溝掘り、草刈り、イノシシ防止用の柵立てを行いました。

夏の畑の状態。

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11月の畑。プロジェクトの前準備として、外周の簡単な草刈りをした状態。

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追加の草刈りをし、溝掘りをして、支柱を立て、支柱にワイヤーメッシュを立てた状態。

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畑の北側から南を見る風景。溝を掘り、ワイヤーメッシュを結ぶ作業。

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上の写真の前日の状態。草を刈った幅が広がり、かなり風景が変わりました。

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畑の北東の角から西方面を見た風景。外周以外も刈られた場所が広がりました。

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作業は参加者は10人ほど。予想以上の速さで柵を張り巡らすことができました。
次回18日は支柱にさらに鹿よけネットをはり、畑の入り口に扉をつけます。また自給農法による畝立てとタマネギの定植を行います。

 

 

防災DIY紹介文について 

防災とDIYの組み合わせ、特に変わったようなことは何もないように思われるかもしれない。

 

居場所、対話、学び、回復など、それぞれ個別のワードに関心がある方面にもピンとくる人は少なそうだ。

 

僕は畑をやっているけれど、はっきりいって作物づくりが専門なのでもないし、作物づくり自体をずっと探究していきたいわけではない。またDIY的なものづくりが大好きなわけでもない。なぜ防災とDIYなのか。

 

臨床心理学科にいって、心理カウンセリングの構造に疑問を抱き、別のあり方で人の変化や回復がおこらないかと考えてきた。防災とDIY、僕のこれからの運営の如何もあるからポシャるかもしれないが、これがその考えてきたことへの答えだ。

 

心理カウンセリングにはいくつか問題がある。一つは、問題を社会ではなく、個人の心に帰すること。心理カウンセリングには社会自体を問う哲学がない。つまるところそれが目指すのは現体制への適応だ。

 

適応の何が悪いと思うかもしれないが、社会の歪み、構造の歪みを問う視点がないのだ。生きることに悩んだ当事者はこう思うだろう。結局、適応が大事なのかと。適応してお金を稼ぐことなのか。あからさまに言わないまでも、結局それが「心の専門家」の価値観なのかと。壊れた機械をなおして社会の歯車に戻すことが「心の専門家」の役割なのか。

東畑開人氏は、2000年代に心理学ブームが下火になって出てきた言葉が「生きづらさ」だという。これは個人の内面が問題なのではなく、問題は社会要因なのだということに社会も直観的に気づきはじめたのだと思う。

 

 

壊れた心を直し、元のように人を稼働させるための心理カウンセリング。そういうところで、僕自身は人間が深い意味で回復するように思えない。働けるか働けないか。その価値観を超えるものを僕自身が発見するところに回復があるのではないか。世界理解による回復だ。


ネバー・クライ・ウルフという作品がある。研究者がカリブー(トナカイの一種)の減少の原因を調べに現地に赴く。その頃世間ではオオカミが原因なのだと思われていた。6ヶ月の現地調査のなかで、オオカミはネズミを主食としており、カリブーを襲う場合も病気の個体を襲っており、むしろ病気の蔓延を防ぐ役割を果たしていたことがわかる。

 

子どもの頃に見た映画だが、主人公が裸で平原に走り出て、オオカミの食べたカリブーの骨をポキリと折るシーンを記憶している。ポキリとすぐ折れるほど骨がもろくなっているのだ。つまりそのカリブーは病気だった。オオカミはむしろカリブーを病気から守る役割を果たしていた。

 


Never Cry Wolf (1983)

 

この時の主人公の喜びはいかほどだったろうか。オオカミに近づくために、同じものを食べようとネズミまで料理して食べたりもしていた。あるオオカミとどこか友情のような関係も結んでいた。

僕自身が不登校やフラッシュバックなどの当事者として、世間に溢れる言説の適当さ、まことしやかに語られる見識の無責任さは驚愕の水準にあった。馬鹿げた言説が堂々と語られ、まかり通っている。まるでこのオオカミ害獣説のようなものだ。

 

僕はある意味、この主人公がオオカミがネズミを食べること、病んだカリブーを間引く役割をしていることを自ら発見したように、自分で世間で言われているような価値観がどんなに適当なものなのかをはっきりさせようとしてきた。世界がどうなっているのかを理解することによる回復を求めてきた。

僕はやがて治療者と患者という構造それ自体が、そして治療や回復自体を目的化すること自体が変化のプロセスを停滞させる要因でもあるという認識にいたった。それらは他に仕方がなく行われる場合もあるが「下の上」といったアプローチだ。もし選べるなら、別のあり方のほうが変化や回復のプロセスはもっと自然に、速やかにおこりうると今は考える。

それぞれの個人は無自覚であっても、根源的な苦しみに動機づけられている。その苦しみを乗り越えることにつながるようなことに自然と関心をもち、充実感を感じる。鶴見俊輔はそれを「親問題」という言葉であらわしていたことを後に知る。根源的な苦しみは、ハンディではなく、むしろ自分を勢いづける力の源だ。その力を使って、生きることを開いていくことができる。

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

自分として生きていくことをバックアップしてくれるのは根源的な苦しみに対する反発力だ。それは生きものがもともと備えている構造でもある。山の北側に生えた木は、そのそこならではの環境の困難に対し、強力に反発して自分を形成していく。よって、建物に使う場合も、山の北側に生えていた木は建物の北側に使い、南側に生えていた木は建物の南側に使うのが建物をもっとも長持ちさせるあり方であるという。

 

バランスを崩そうとするものに対する強力な反発力が生きものには備わっている。その求めに応答することによって、個人は必要な踏み出しを行い、世界からエネルギーを獲得することができる。

 

その力を前提に、次はどのような場が個人の回復に寄与するのかを考えていった。人が変化する場には、安心安全信頼尊厳といったようなものが必要とされる。それは恐怖や自分に内在する強迫が打ち消されている場といえるだろう。そのような場は学びの場としてもふさわしい。「治療」の場と学びの場は別々のものではないというように思うようになった。

 

四国遍路を行い、人は適切な環境と適切な媒体があれば自律的に回復に必要な行動をおこしていくという認識になった。次に、そのような適切な環境や適切な媒体をどのように引き寄せるかという問いが現れた。多くの人は、いずれツケを払うようなことになるにせよ、自分の内にある根源的な苦しみに根ざす求めに応答するよりも環境に場当たりに適応するほうがやりやすい。根源的な苦しみに根ざす求めは感じにくく、そして応答しようとすれば面倒で、今の環境の体制に反するようなことを求めるからだ。

 

環境への場当たりの適応に終始することで、歪みを受けている人たちの体は、変化を求めている。歪みによる圧迫が強ければ強いほど、変化の可能性にも開かれているのだが、移行できる選択肢がない状況では無理矢理でも同じ環境に埋没しようとする。

 

サードプレイスと呼ばれるような場所は、現在の環境に雁字搦めにされている人たちがその縛りを一瞬緩めることができる場だ。ほぐれることができる場では、自分のなかの自律的な求めが浮かんできやすい。だがそれだけではまだ不十分だ。なぜなら個人の思考や行動は多くの部分、社会に侵食されており、古い環境の価値観を内在化させているからだ。

 

内在化したものをどう取り除き、更新していくのか。それを可能にするのが自律的空間と自律的な行動だ。今の社会で個人は、他者によって規格化されたものを与えられ、その与えられたもののなかで生きる。しかし与えられたものは本当には自分にはフィットしておらず、違和感や不満、世界への信頼の疎外、必要な変化のプロセスの停滞がおこる。

 

それに対して、より自分にフィットした空間や人間関係、時間の過ごし方などを自分に引き寄せていく。他者によって規定された生活の枠組みに働きかけ、より自分の根源的な苦しみに根ざす求めに応答できる環境を構成していく。自分の必要にあわせてカスタマイズされ、フィットする空間は自律的な求めに基づいた行動を誘発させる。この繰り返しをするなかで、個人は内在化された抑圧を脱して、自分にとって必要な環境と媒体を自ら作り出していくというサイクルに入る。

今、自分に必要なものを模索し、探究し、感じとり、応答する。このサイクルのなかにいるとき、個人は回復のプロセスにある。このサイクルにあることは、手段であるとともに目的でもある。甲本ヒロトがバンドが目指すところがなく、そこが到達点だというように、このサイクルにあることが実のところ既に達成なのだ。何かが完遂されることによって「幸せ」なりがやってくると思うのは間違いで、この変化のサイクルが動いていること自体が生きることの充実だ。達成したあとではなく、プロセス、移行状態にあることが生の充実なのだ。

 

ロックンロールバンドがね 目指す場所はないんだよ 

小学生でも中学生でも高校生でもいい 

たとえばホウキでもいいんだ 

ギター持ってなくてさ ロックンロールに憧れて 教室の隅っこでワァーってなる 

すっげぇ楽しいんだ そこがゴールです 

そこにずっといるんだよ そっからどこにも行かないよ 

それが東京ドームになろうが教室の隅っこであろうがそんなの関係ないんだ

 ロックンロールバンドは もう最初から組んだ時点でもうゴールしてんだ

目的達成だよ 

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

「治療」という言葉には既に強迫が含まれている。悪いことになっているからこそ「治療」が必要なのだ。だがそこに否定をいれることによって、変化のプロセスは停滞する。自意識の強迫が外れている時、打ち消されている時にこそ変化のプロセスは動きだすのだから。「治療」よりは「学び」のほうが言葉として強迫が少なく、妥当だろう。「治療」のための場、「回復」のための場、「みんなの居場所」などと銘打つほうが、「そうしなければいけない」とか「あるべき姿」を感じさせ、より強迫的な場になる。

 

だから変化のプロセスがスムーズにおこる場にしたいとき、強迫性が強い「治療」とか「回復」とか「成長」とか、そういう言葉はいれないほうがいいし、「変化が目的です」などと趣旨にあげないほうがいい。強迫的なことが打ち消され、意識にのぼらないような場が一番回復的な場であり、変化のプロセスがおこりやすい場だ。

 

防災は、全ての人が被災者であることを想定させる。全ての人が今持っている財産やステータスが機能しなくなった状態では、ステータスが揺るぎない日常の場より個々人は平等になる。老いも若きも関係なく、皆が被災者だ。防災という文脈においては、非常に多様な人たちが関わりあう基盤が生まれる。

 

オルタナティブな運動や催しには、限られた人しか集まらない。環境、DIY、持続的な社会・・、そういったものは理念は良くても、決まった人しか来ず、一定以上に広がりにくい。だが、防災という文脈なら、そういう分野や区分を超えた人々が出会い、関わる広い基盤が生まれる。戦略的に、それぞれの分野を一番上に掲げず、防災という文脈のもとに置くことで、逆に人が集まる入口が生まれ、活性化するのではないかと思っている。

自律的活動、DIYの広がりが個々人を個々人として活性化させ、変化や回復のプロセスがすすみやすい環境を生む。治療せねばとか回復せねばとか意識せず、より個々それぞれに自分たちの求めにフィットした自律的な空間を構成し、自律的な行動を誘発させることが、変化や回復のプロセスをスムーズにする。

 

DIY、自律的空間づくりとそこに誘発される自律的行動の循環、そのサイクルに入ることが手段であり、到達点でもあるのだが、ただそれをしましょうと呼びかけたところで寄ってくる人は少ないし、目的化すると硬直してプロセスが停滞する。

 

病院の待合ベンチが話しが弾む居場所になるように、そこに関わる必然、そこにいる必然を提供し、派生的に交流が生まれる、自律的な関わりが生まれるというかたちが理想的だ。本当の意図をそのまま目的化すると強迫が生まれ、人は硬直したり抵抗が出たりして、自律的に生まれてくるもののプロセスも停滞する。

病院の待合ベンチ、喫煙場所、あるいはたむろできるコンビニ前のように、多くの人に関わる必然を提供するのが防災という文脈だ。DIYだけの呼びかけでは多くの人が関わる必然は発生しない。

 

心理カウンセリングへの方面には進まず、人の変化を探究した結果が、今、防災とDIYの組み合わせになっている。

防災にもなるDIYを学ぶ場所づくり 紹介文

防災にもなるDIYとは何なのか、紹介する文章をつくってみました。

 

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防災にもなるDIYを学ぶ場所づくり


◆防災にもなるDIYとは?
 地震や台風など災害がおこった時、普段の流通が急に途絶えてコンビニから食べものがなくなったり、停電になったり、水道やトイレが使えなくなったりすることがあります。普段からのモノの備蓄はもちろんですが、そこで自分で生活に必要なものを作ったりする知識や技術があると心強いです。たとえばちいさな畑でも借りて自家菜園をやっているならば、それはたくさんの食べ物が備蓄されてしかも腐らない防災冷蔵庫を持っているようなものです。DIYは防災時に力を発揮します。

 

◆防災という視点によって現代的な人と人の関わりの基盤が生まれる
 防災ということを念頭において暮らしを考えると、人と人の関わりが自然に生まれやすくなります。防災という視点にたつとき、たとえば孤立したご近所の単身高齢者や障がいがある方は災害時にどうなるだろうという思いが浮かぶでしょう。防災ということを前提にすると、いつもは個々に生活している人と普段からのやりとりが必要だということが見えてきます。防災は人と人との関係性が希薄になった現代社会において、新しくそこに人と人の豊かな関係性を編み直す始点にもなり、基盤にもなります。


子ども食堂という自律的な活動の意義
 こども食堂の数は、日本に2286箇所もあるそうです(「こども食堂安心・安全向上委員会」調べ:デジタル毎日2018.4.3)。こども食堂は市民が自律的に立ち上げる活動です。個々それぞれ自分たちで考え、自分たちの運営で活動を成り立たせています。そして、そこでは子どもにご飯を提供するというだけでなく、そこに関わる人に新しい交流もまた生まれていることでしょう。自分たちのできる範囲で、自分たちにあわせ、自分たちの頭で考え、自分たちの活動をすることは、そこにコミュニティを生み、自然な助けあいや個々の人の考える力や活力を生んでいきます。その力は自分たち自身で自分たちの居場所をつくっていく力にもなります。自分たちの暮らしをつくっていく力は実際に自律的な活動をすることによってリハビリされ、身につけられていくのではないでしょうか。

 

◆防災にもなるDIYを学ぶ場について
 自律的な活動は、人と人が繋がる必然を提供し、コミュニティを生み、また自分たちの暮らしをつくっていく力を活性化させるリハビリになります。それは自律的な活動をする場とは、すなわち学びの場であるからだと思います。防災にもなるDIYは、子ども食堂のようにごく一般の人がそれぞれの場所で、防災にもつながる自律的な学びの場を作りませんかという提案でもあります。想像してもらうと、どんなDIY的なこともわりと何でも防災の備えになるということに気づかれると思います。

 

◆防災DIY畑プロジェクトとコラボレーション
 食や体操のような健康(養生)に関わるDIYの学びだと、日々の生活が実際に変わっていく実感もより生まれやすいと思います。そこで私たちは、防災に備えて地域の空いた場所や使われていない場所で畑のはじめかたを学び、とれたものを自給分にまわすとともに、こども食堂ならぬ防災食堂としてシェアすることなどを考えています。防災にもなるDIYプロジェクトでは、個々の活動は基本的に自分たちの裁量で自由に程よいかたちでやるのがいいと考えていますが、お互いにお互いの活動を尊重したうえで関わりやコラボレーションをすることの意義もとても大きいと思っています。活動をお互いに知り合い、交流することはお互いの活動を盛りあげていくことと思います。防災にもなるDIYプロジェクトに関心のある方はご連絡いただければ幸いです。


京都のらびと学舎 米田量(よねだりょう) yoneda422@gmail.com
 
※京都のらびと学舎は、自家菜園(家庭菜園)における野菜の自給を媒介にして、DIYや自律的活動がもたらす学びの可能性を探究している集まりです。

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藤子・F・不二雄「未来ドロボウ」と業田良家「未来計算機」 

藤子・F・不二雄のSF短編集を借りた。

SFは哲学だと思う。当たり前とされていることをひっくり返し、以前のままの認識では成り立たせなくする。

 

1巻は特に粒ぞろいの作品が集まっているように思う。

 

「未来ドロボウ」という作品が特に印象に残った。

 

貧乏で将来に絶望感を持った中学生と若さが欲しい大富豪の老人が体を入れ替える。若者として生きた老人は本当に充たされ、この取り替えは不公平だったと思い至り、体を返す。

 

藤子・F・不二雄大全集 少年SF短編 1

藤子・F・不二雄大全集 少年SF短編 1

 

 

連想する物語があった。業田良家の『機械仕掛けの愛4』のなかの「未来計算機」だ。そこではAIによって過去のある時点で違った選択をした自分の姿を見られる。

 

 

機械仕掛けの愛 4 (ビッグコミックス)

機械仕掛けの愛 4 (ビッグコミックス)

 

 

 

離婚寸前の家庭、妻は今の夫と結婚していなかった未来を見せてくれと頼む。

 

すると、どこをとっても完璧な男性と出会い、幸せに包まれた世界が見えてくる。二人には子どもが生まれ、どこにもかげりはない。

 

女性の頰にひとすじの涙が流れる。

 

見終わった女性は、「フフ、よかったわ。」「最高だった。」という。AIはその男性は未だ未婚で結婚相手を募集していると告げる。女性はとても驚くものの「参考になったわ」といって家に帰り、離婚をとりやめる。

 

あの別の未来を見ていた女性のなかにおこったことはどういったことだろうと思う。彼女は世間でいうところの「幸せ」を捨てた。未来計算機によって与えられたヴィジョンは彼女に何をひきおこしたのか。

 

走馬灯のように映し出される「あり得たかもしれない自分」の生。僕は彼女はそこで生きること自体にある種の距離を持ったのではないかと思う。

 

あり得たかもしれない生だけでなく、今の生もまた夢なのだ。

 

より素晴らしいものを獲得し、達成することは世間では「幸せ」であるとされる。だが全ては通り過ぎていく。終わったことを振り返れば、それは今や記憶というデータ、あやふやな物語に過ぎない。何も獲得しておらず、何も達成されてはいない。そうだったと信じているだけなのだ。

 

夢と「現実」の差に葛藤し、夢からみた「現実」をダメなもの、足りないものだと思う。しかしそれらは過ぎさってしまえば、何のことはない、ただの記憶になっている。結局、そうして夢に踊らされ、今生きている何でもないこの時を無駄に苦しんでいるだけなのだ。

 

そう思うと「未来ドロボウ」の老人も充たされたともいえるが、突き放されたのだといったほうがしっくりくるように思う。「未来ドロボウ」の老人も「未来計算機」の女性にも感じられたのは、溢れる高揚感ではなく、静けさであり揺るがなくなった落ち着きだった。後悔ではない諦めのようなもの、やってくるものを受け入れる態度だった。

 

これらの物語のもう一つの側面として、ありえたかもしれない可能性を体験することは、読み手に失われたものとの関係のリアリティを読み手にひきおこす。これらの物語は失われた世界が、本当は失われておらず、そのままにあることを示唆する。

 

失われた世界は言葉によって失われた世界だ。自意識は言葉によって認識される世界しか把握ができない。それが見える(=認識される)世界だ。しかし対象化し認識することで世界との本来的な一体性が失われる。しかし自意識が立ち上がる前の世界は求めていた世界なのだ。その世界は既にある。

 

 

闇の夜に鳴かぬ烏の声聞かば 生れぬ先の父ぞ恋しき

 

 

闇の中で黒い烏は見えない。闇とは見える(=認識される)世界の前の世界だ。

 

鳴かないはずの烏の声を聞けば、生まれる前の父が恋しい。鳴かない烏の声は言葉が見せる幻想だ。そこでは世界との一体性は失われていると感じられ、根源的な疎外感が生まれる。

 

だがこれを幻想だと知ったとき、鳴かない烏が鳴くはずもなく、世界と自分は既に一体である。