降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

作り出されたリアリティのなかで

佐伯胖さんの話しをいつも思い出す。

 

チンパンジーとヒトの幼児にお菓子がでる仕掛けの操りかたを示すと両者とも同じ手順にそってお菓子を手に入れる。次に仕掛けを隠していたカバーをとると、手順など取らなくても直接手を突っ込めばお菓子が取れる状態だったことが一目瞭然になる。チンパンジーは手順にそうことなどやめ、さっさと取る。しかし、ヒトの幼児は同じ手順を踏んでお菓子をとるという実験結果がある。

 

「模倣から教育を再考する」佐伯胖

https://www.blog.crn.or.jp/kodomogaku/m/pdf/26.pdf


 

見ればわかる現実、考えればわかる現実をシャットアウトし、教わったことを忠実に模倣し何も考えず繰り返せる能力。飛行機が何で飛ぶのかを知らなくても乗れる。現実でないものを現実と信じ、非現実を生きられることが良くも悪くもヒトならではの能力なのだろう。

 

台風や地震がきて電気が止まったりして初めて知る「現実」があった。95年の震災で「現実」を知った知り合いは、2階以上の住居に住むことはやめたそうだ。

 

剥き出しの「現実」に遭遇せざるを得ないことは、一般には不幸なことだとされる。

 

だが同じ手順にそっていたら今は「お菓子」が出てくるのだからそれでいいのだろうか。仕掛けを作っている人は誰だろうか。どのようにその仕掛けは作られているのだろうか。

 

作り出されたリアリティのなかで、「快適」に生きている代償とはどんなものだろうか?