降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

組み合わせる必然 防災とDIY

防災DIYをひろげていくことには、とりあえず二つ意義があります。

一つは、特定の人に限られず、他者との共同性が内在されていること。防災という文脈は、老いも若きも能力や意識の高い低いもない、病気や障害の有無、職業の違いや細かな思想の違いもなく、政治や社会運動に関わるとか関わらないとか関係なく、全ての人が関わる必然、土台を提供します。

 

現代社会において、そうと意識されないままに、個々人や個々の家庭の空間は区切られ、孤立しています。他者と関わりがなくても、ものがあってお金があって、システムがあって、人の助けをかりず、生活がやっていけるということは、同時になんとなしに人と関わり、新しい発想や助けをもらえる機会が失われているということでもあるのではないでしょうか。

 

そういう構造の環境では、他人は社会システムに任せ、自分や自分たち家族は相手より先にいいものを獲得すればいい。そういう発想になりがちです。

 

しかし、防災ということを念頭に置くとどうなるでしょうか。自分のことだけでなく、周りはどうだろうか、どうやって共に日々を生き抜いていけるだろうかという発想が自然に浮かんできます。

 

現代の社会の構造からは、色々な問題が生まれてきます。

 

ごく自然に個々の区切られた空間に孤立させられ、他人を潜在的な競争相手とされること。自分の好きにする力を増すために経済活動に邁進するしかないと思わされること。そのために嫌なこと、大変なことをやっていると思い、無自覚に被害者意識が高まっていき、自分と同じ苦痛を享受してない思われる人に攻撃し、罰を与えようとしてしまうことなど。

 

防災は、このような現代の社会環境の疎外を補い、被災者としての「共同的な存在としての私たち」を自然にイメージさせると共に、お互いが関わる必然を提供します。


もう一つの意義は、DIYということの意義ですが、全ての人が関われる必然性をもつということを含んだDIY活動は、多様性を受け止める社会環境が織り成されていくことに直接的に寄与します。

 

DIYというとモノづくりなどのことだけだと思われるかもしれませんが、「ライフハック」と呼ばれるものはDIY(の一側面)です。

 

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目的を達成するためにこうしなければならないと思われているために高いハードルになっているものを別のやり方で遂行することは、活力を呼び、創造性を活性化します。

 

決められたこと、やらなければならないことをいやいややらなければならないのは、つまるところ、他人が設定した枠組みに自分を無理やり合わせることになっているためではないでしょうか。その時は必要を満たしても疲弊が残ります。嫌なことをやらなければいけない自分の境遇を否定的に感じ、さらにできないときは自分は弱くみじめに無力な存在として感じられます。

 

一方、自分のやり方で必要を満たしたときは、単に必要を満たす以上のことがおこります。世界の見え方、感じ方が変わり、諦めていたことも、自分なりのやりようによってはできるかもしれないという感覚が生まれます。個々人にとってより必要なのは、単に目の前の必要を満たすだけでなく、そのような希望や創造的な働きかけにつながる効力感を得ていくことではないでしょうか。

 

共同性をもつ「防災」という文脈を踏まえるとき、個々の孤立した空間、プライベートな空間のなかで完結していたDIYの次元が変わります。

 

それはたとえば、災害状況になっても、スマホのゲームの自律電源は欲しいから地域の小水力発電に参加するというような、意識が高いのか低いのかわからないような様々な動機や思想をもつ個々人が、それぞれの自分なりの関わりやあり方を組み合わせ、特性あるそれぞれの存在が活性化される重層的な環境、もう一つの世界をつくる次元のDIYになりうるのではと思います。