降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

藤子・F・不二雄「未来ドロボウ」と業田良家「未来計算機」 

藤子・F・不二雄のSF短編集を借りた。

SFは哲学だと思う。当たり前とされていることをひっくり返し、以前のままの認識では成り立たせなくする。

 

1巻は特に粒ぞろいの作品が集まっているように思う。

 

「未来ドロボウ」という作品が特に印象に残った。

 

貧乏で将来に絶望感を持った中学生と若さが欲しい大富豪の老人が体を入れ替える。若者として生きた老人は本当に充たされ、この取り替えは不公平だったと思い至り、体を返す。

 

藤子・F・不二雄大全集 少年SF短編 1

藤子・F・不二雄大全集 少年SF短編 1

 

 

連想する物語があった。業田良家の『機械仕掛けの愛4』のなかの「未来計算機」だ。そこではAIによって過去のある時点で違った選択をした自分の姿を見られる。

 

 

機械仕掛けの愛 4 (ビッグコミックス)

機械仕掛けの愛 4 (ビッグコミックス)

 

 

 

離婚寸前の家庭、妻は今の夫と結婚していなかった未来を見せてくれと頼む。

 

すると、どこをとっても完璧な男性と出会い、幸せに包まれた世界が見えてくる。二人には子どもが生まれ、どこにもかげりはない。

 

女性の頰にひとすじの涙が流れる。

 

見終わった女性は、「フフ、よかったわ。」「最高だった。」という。AIはその男性は未だ未婚で結婚相手を募集していると告げる。女性はとても驚くものの「参考になったわ」といって家に帰り、離婚をとりやめる。

 

あの別の未来を見ていた女性のなかにおこったことはどういったことだろうと思う。彼女は世間でいうところの「幸せ」を捨てた。未来計算機によって与えられたヴィジョンは彼女に何をひきおこしたのか。

 

走馬灯のように映し出される「あり得たかもしれない自分」の生。僕は彼女はそこで生きること自体にある種の距離を持ったのではないかと思う。

 

あり得たかもしれない生だけでなく、今の生もまた夢なのだ。

 

より素晴らしいものを獲得し、達成することは世間では「幸せ」であるとされる。だが全ては通り過ぎていく。終わったことを振り返れば、それは今や記憶というデータ、あやふやな物語に過ぎない。何も獲得しておらず、何も達成されてはいない。そうだったと信じているだけなのだ。

 

夢と「現実」の差に葛藤し、夢からみた「現実」をダメなもの、足りないものだと思う。しかしそれらは過ぎさってしまえば、何のことはない、ただの記憶になっている。結局、そうして夢に踊らされ、今生きている何でもないこの時を無駄に苦しんでいるだけなのだ。

 

そう思うと「未来ドロボウ」の老人も充たされたともいえるが、突き放されたのだといったほうがしっくりくるように思う。「未来ドロボウ」の老人も「未来計算機」の女性にも感じられたのは、溢れる高揚感ではなく、静けさであり揺るがなくなった落ち着きだった。後悔ではない諦めのようなもの、やってくるものを受け入れる態度だった。

 

これらの物語のもう一つの側面として、ありえたかもしれない可能性を体験することは、読み手に失われたものとの関係のリアリティを読み手にひきおこす。これらの物語は失われた世界が、本当は失われておらず、そのままにあることを示唆する。

 

失われた世界は言葉によって失われた世界だ。自意識は言葉によって認識される世界しか把握ができない。それが見える(=認識される)世界だ。しかし対象化し認識することで世界との本来的な一体性が失われる。しかし自意識が立ち上がる前の世界は求めていた世界なのだ。その世界は既にある。

 

 

闇の夜に鳴かぬ烏の声聞かば 生れぬ先の父ぞ恋しき

 

 

闇の中で黒い烏は見えない。闇とは見える(=認識される)世界の前の世界だ。

 

鳴かないはずの烏の声を聞けば、生まれる前の父が恋しい。鳴かない烏の声は言葉が見せる幻想だ。そこでは世界との一体性は失われていると感じられ、根源的な疎外感が生まれる。

 

だがこれを幻想だと知ったとき、鳴かない烏が鳴くはずもなく、世界と自分は既に一体である。