降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ブライアン・イーノのインタビュー 降伏する機会

前に書き起こしたものがあったので、転載。

ついでに少し連想したことを。

 

一つのアイディアしかなくてそれを様々な違う方法でやっているに過ぎない

 

これは、鶴見俊輔のいう「親問題」と通じることであると思う。自分がどうしても惹きつけられそれを進めようとすること。イーノは特に痛みや苦しみということには触れていない。別に自分を動かすものが痛みや苦しみであると考える必要はない。被害意識はむしろ回復の邪魔だ。ただ充実を感じること、世界が開かれていく感じを持つことをやっていけばいいということでもある。

 

隠岐さや香さんが、ある二つの集団がいるとき、片方が他方をあまり気にかけずに生きていけることがある。そうした力の不均衡が生じる過程とそれを生じさせる構造を理解したい、とツイートされたように、それが何であるか知らないのに、やっていることはそれの追究なのだ。

 

アートが僕らに与えてくれるのは降伏する機会だ
もうコントロールしなくていいという機会だ

 

自意識が降伏するとは、既にあるもの、自律的なものにゆだねるということだ。自意識のコントロールが一時的な肯定感を維持させるが、それは疲弊をよぶ。そればっかり繰りかえしていくことが嫌になる。「すること」が自分の価値だと考えるとき、何かをしなければいけないという強迫が常にある。

 

何もしなくてもそれによって自分が削られる。自意識がやるのではなく、既にあるもの、自律的なものがやる。意識の役割は自律的なものが発揮されるような環境を整えることだ。その時、常駐していた強迫による疲弊が消えていく。

 

すべての素晴らしい事は情熱から生まれる
「どんな風に進化するかどうしても知りたい」思いは結果の出ないたくさんの夜をかけて僕らを突き動かす

その一方で自分はこれをやるべきだという義務はあっという間に消えていく

 

 

情熱とは火のようなものかと思う。自分が情熱を持っていないのではなく、応答しないからそれはしぼみ、小さくなっていくのではないかと思う。火に応答することは、面倒くさいことであり、非常識なことであったり、世間に対する反逆であったりするだろう。しかし、応答こそが自分が自分として生き残る手段なのだ。常に応答していく。火が火として燃えるように。

義務とは自分の時間の流れを止めることだ。強制し、動いているプロセスを止めることだ。それは応答の感性を鈍らせる。それは自分としての体験にもならない。退屈であり、長続きしない。さらには応答しなかったことによって、コントロールしなければならないという強迫が増す。

 

よくアーティストをミュージカルのオクラホマの農民とカウボーイに分けて考えたりする 農民は領土を見つけ縄張りをはり掘り起こし土地を耕して肥やす カウボーイは外へ出かけて行き新しい領土を探し出すほうだ

 

農民とカウボーイのたとえは、個人のパーソナリティとして、ある人は農民であり、ある人はカウボーイであるということではないと思う。農民とはつまりコントロールを蓄積していくこと、既に知っていることのなかにとどまること、所有することのたとえであると思う。カウボーイは、生を自意識が所有するというコントロールを放棄したあり方であるだろう。

 

大きな間違いはインスピレーションを待つことだ
それは向こうからはやってこない

 

応答とは、試行錯誤のかたちをとる実践であり、その試行錯誤抜きにインスピレーションはやってこない。応答的な試行錯誤によって、やがて求めはかたちをもって現れてくる。

 

明らかにそれぞれの人に与えられる機会は平等ではない
ある人は他の人より多くの機会を得る

でも準備できているかどうかということも平等ではないんだ
ある人は他の人より訪れた機会を活用する準備がより整っていたりする

 

機会は究極的には向こうからやってくるものだ。それがきた時に準備ができた状態にあるか。整いができているか。淡々と整いをすすめていく。向こうからやってくることと、自分ができることとを区別する。

基本的に歪みは個性なんだ
事実僕らが個性と呼んでいるものは完璧からはずれている事をいう
だから完璧とは僕にとっては無個性ということだ

 

親問題の考え方は、自分もっとも脆弱な部分、死をもたらすような危機的な痛みや苦しみ、欠落に対して反発する力があり、その力を使うとき、自分に世界を切り開く力が生まれるというものでもある。

 

シルヴァスタインの『ぼくを探しに』で、主人公が失われたかけらを探すように、人は自らの根源的な歪み、欠落、喪失に反発するエネルギーを受けとる。個性とはそのような欠落をもとにするものであり、その反発の力によって人は現実を自分として生き抜き、回復していく力をもつ。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 



何かの折にこう思うことがあります

 

自分の人生にはたった1つのアイディアしかなくてそれを様々な違う方法でやっているに過ぎないのだと

 

そう思うと少し気が滅入ってしまいますがそこで思い返したいのは、サミュエル・ベケットマイルス・デイヴィスや他の人たちにも同じということです

 

アートが僕らに与えてくれるのは降伏する機会だ
もうコントロールしなくていいという機会だ

 

考えてみれば僕らの文化において1番求められているのがコントロールするということだ

 

僕らがしたいことは、つまりセックスやドラッグやアートや宗教を求める理由で、僕らがしたいのは降伏することだ

 

それはいろんなやり方の「自分」を見失う方法だ
あなた自身を失う方法だ

 

音楽で僕がしたいことの1つは人々に降伏する機会を与えることだ

 

すべての素晴らしい事は情熱から生まれる
「どんな風に進化するかどうしても知りたい」思いは結果の出ないたくさんの夜をかけて僕らを突き動かす

 

その一方で自分はこれをやるべきだという義務はあっという間に消えていく

 

大きな間違いはインスピレーションを待つことだ
それは向こうからはやってこない

 

僕が思うに何かを創造することはそんなになくて何かが起きそうなことに気がつくことなんだと

 

気がついたことをもとに進めてそれが新しいことになる。今までなかったことだ それにどんな意味があるか? それでどこへ行けるのか?

 

よくアーティストをミュージカルのオクラホマの農民とカウボーイに分けて考えたりする

 

農民は領土を見つけ縄張りをはり掘り起こし土地を耕して肥やす

 

カウボーイは外へ出かけて行き新しい領土を探し出すほうだ

 

自分のことは農民よりむしろカウボーイのほうだと思う

 

ぼくはまだ他の誰も行ったことがない場所にいくスリルが好きだ

 

それが取るに足らないことでも ほらだってアートなんだからそれは重要じゃない

 

とはいえ僕は今までまだ他の誰もが見たことがないものを見るという見地に立つのが好きだ

 

明らかにそれぞれの人に与えられる機会は平等ではない
ある人は他の人より多くの機会を得る

 

でも準備できているかどうかということも平等ではないんだ
ある人は他の人より訪れた機会を活用する準備がより整っていたりする

 

僕は絵を習っていたんだけど60年代のことで当時ポップミュージックが非常に面白くなって来ていた

 

この新しい技術が誕生しようとしていた
レコーディングスタジオだ
僕はすごく夢中になったよ

 

一部はたぶんレコーディングが音を描いていく方法だったから

 

同じように新しい楽器も登場した

 

シンセサイザーはまだなんの歴史もなかった
シンセサイザーの弾き方に正しい方法など存在しなかった
だから僕は初期に手に入れて自分の好きなように演奏したよ
シンセサイザーの弾き方を習いにいかなくてよかったから
だけどそれも選択なんだ

 

ドラムを習いにいくことだってできた
でも神様は何が起きるか知っていた
また一人酷いドラマーが誕生することを

 

ドイツのエレクトロニックバンドの人を覚えているけど、名前は伏せておくけどね、彼は「完璧な正弦波を追い求めている」と言ったんだ

 

面白いのは、たぶんこの世で最もつまらない音が完璧な正弦波だということだ

 

それは何も起きない音のことだ
完璧な音でつまらない
デビッド・バーンがうたっているように「天国とはなにも起こらない場所」

 

基本的に歪みは個性なんだ
事実僕らが個性と呼んでいるものは完璧からはずれている事をいう
だから完璧とは僕にとっては無個性ということだ

 

 

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世界を彩るフィルターを変えるために 「お節介」としての援助

「過去と切断する力が意思」、「ポジティブや未来志向礼賛の残酷さ、どうなりたいかわかれば苦労しない」「欲望は過去とつながったところに湧き出てくる」。

 

ツイッター上の白石正明さん、斎藤環さん、信田さよ子さんたちのやりとりが面白かった。

 

 

 

未来は過去(記憶)を通して想像されるものであるから、未来の見え方、彩りは過去が規定している。過去の痛みを感じないようにしようとして意思を使用していると自分にも他人にも無感覚になると思う。

 

自分という個人が充実を感じることは、実のところ過去と繋がっていることができたということなのだと思う。過去や記憶は、置かれているところ静かに黙っていて影響も与えないが必要な時に掘り出せるデータみたいなものではなく、現在の見え方や感じ方を直接彩るフィルターとして直接的に影響を与えている。インスタグラムのフィルターみたいに、同じものをとっていても、そこから受け取る印象や経験はまるで違うということになる。

 

だがそのような彩りをもたらす過去を変化させるのは難しい。まず、すぐに意識にのぼらないかもしれないし、頑強なものはただのぼっただけではプロセスが不十分だ。そこで止まっていた時間を流すこと、プロセスを経過させることが必要だと思う。

 

時間を流すとは、過去の時間が止まった(認識のあり方が確定した)時点のリアリティを喚起させながら、それを別の体験として更新していくということだ。

 

たとえばセルフヘルプグループで少し回復した人が、ピアスタッフとして参加者に関わるような、他人からみると、まわりくどく、面倒くさい作業が必要になる。しかし自分にとってプロセスがおこることをやらないとずっと世界の見え方、世界の彩られ方はのそのままだ。(この作業は、本人は最初から最後まで何をしているか自覚なくやっている場合もあるが、誰もが必要としていて無自覚であっても求めている作業だと思う。)

 

斎藤さんは環境調整が必要な場合も多いとし、それは「お節介」だとする。そこには、専門家の直接的な操作の害が現在どれだけあるかということも示唆していると思う。押しつけがましさもきちんと影響して回復の阻害になるから、専門家なら自分の援助が「お節介」なのだという、自分の突き放しができることが今後だんだんと常識になっていけばいいと思った。

 

生まれる、生まれたということも、直ちにそれを善、幸福としてそうでない感慨を抑えつけることが世間でどれだけあることだろう。ポジティブを押し付けることの暴力。その暴力の背景には自分の痛みを再燃させないことがある。自分が痛みを感じるのがいやだから他者を抑えつけているのだ。

 

また「産む」「産まない」ということが自己決定によるもの、責任はその個人にあるとされるようなことも、野蛮で残酷な考え方だったなと、後々の時代には受け取られるようになるだろうか。

白石正明@shiraishimas
社内の鬱病経験者がシンポを聞いて、過去と切断する力が「意志」なら、「欲望」は過去とつながったところに「湧き出てくる」ものなんだ、と言っていました。寄る辺ない現在に浮遊する鬱病者に、未来に向けた意志決定を迫るなど拷問だと。

 

斎藤環@pentaxxx
「欲望形成支援」、まさにご指摘の通りですが「やりたいことを見つけよう」となると、とたんに陳腐化してしまう。「断酒したい」「就労したい」という欲望を「自分自身で発見する」ことを支援することになるわけですが、これがとびきり難しい。環境調整という「お節介」が必要となる場合も多々です。

 

信田さよこ@sayokonobuta
参戦させてください。「お節介」こそ今後のキーワードでは?切断でもなく、支配でもなく最後に残るもの(?)としてのお節介は國分さんのおっしゃる「義」にも通じるような気がしています。またその欲望はたとえばベてるのミーティングでの「今日の体調は?」にみられる身体性の装いであらわれる?とか

 

信田さよこ
ポジティブや未来志向礼賛の残酷さ、
どうなりたいかわかれば苦労しないでしょ💢


白石正明
過去との接続は多くの場合、芹沢俊介さんがかつて言っていた「イノセンスの承認」(生まれてきたことに責任はない=I was boneの承認)によってもたらされるものならば、お節介はそっち方向でしょうか。


白石正明
しかしあらためてI was boneを受動態ではなく中動態と解釈すると(「生まれさせられた」ではなく、ただ「生まれてきた」)、より広がりが出てくるような気がしますね。(『中動態の世界』P315第3章注25参照)


信田さよ子
暴力現象と中動態、まとまりませんがこの辺りコアですよねー。


斎藤環
この文脈なら「欲望は他者の欲望」という言葉がすっきり腑に落ちる気もします。内的原因として意志や欲望を求めすぎると苦しくなる。その発見が主体化をもたらすと考えるなら、支援は必然的に「お節介」になりますね。それをお節介と気取られない姿勢として専門性が要請される。

 

メタ・コミュニティ コミュニティのあいだと生命のスープ

メタ・コミュニティについて。

 

あるコミュニティは個性をもつとともに、同時に制限を持ちます。たとえば、ある場所をみんなの居場所と銘打った瞬間に、そこに暗黙の前提、あるべき姿が生まれ、そこに行きにくくなる人、かえって自由を感じられない人がでます。

 

あることへの関心を持っているけれど、そのワークショップや講座などをやっている特定の集まり(コミュニティ化している)に合わない人が、別の場所で、その集まりに行ったけれど合わなかったという人に出会う、ということがあります。すると問題意識などがその時点で、かなりあい通じるものになった状態でやりとりがはじまります。

 

そういうこともおこりうると考えると、あるコミュニティの存在意義は、そのコミュニティのなかのことや内容だけにあるのではなく、派生的にそのコミュニティに合わないという人たちを出会いやすくする機能にもあると思えます。あるコミュニティが生まれるということは、そのコミュニティの外の場が生まれ作られるということでもあります。

 

コミュニティの内と外の豊かさは相互依存的なもので、そもそもあるコミュニティが存在しなければ、その外も存在しませんが、あるコミュニティがあることによって、特性をもつ外が生まれます。それはコミュニティとコミュニティのあいだに場ができることともいえるかと思います。僕は、人が自分にあった人に出会い、そして自分に必要な体験を引き寄せうるために必要な豊かさは、この間にあると考えます。

 

先日、国分功一郎さんが斎藤環さんたちとされたシンポジウムにおいて、必要なのは「意志決定の支援」ではなくて「欲望形成の支援」ではないかという提言をされています。

 

 

考えてみると、意思や自己決定といっても選ばされるもの(コミュニティ)が既に決まっているのならいくら自分が決めるといっても自分にとっては不十分なものになりがちです。一方、それぞれの小さなコミュニティがたくさんある環境では、そのコミュニティのあいだもまた豊かなグラデーションをもっています。

 

そこでは、自分はこういうことをしたいのだということが具体的に「出てくる」ことが誘発され、共通の価値観をもつ出会うべく人に出会いやすい、コミュニティが生まれる前段階のような状態や雰囲気が充ちています。生命のもととなるものが豊富に用意された状態が「生命のスープ」とたとえられるように、自律的なものが動きだせるためには、場が「生命のスープ」のようになっていることが重要だと思います。

 

この「生命のスープ」は、ちいさなコミュニティが多種多様に生まれ、同時にそこが閉じきってしまわず、自然な行き来、間接的な行き来があるときに生まれると思います。それは、既に実体化し、かたちや個性が決まった個々のコミュニティのなかにあるのではなく、その個々のコミュニティの存在が生むあいだの空間の多様性です。ですがこの外の多様性は、個々のコミュニティの多様性に依存しています。

 

たくさんのちいさなコミュニティがあることの大きな存在意義は、その外側に「生命のスープ」状態をつくることであると思います。たくさんのちいさなコミュニティがその外側、その間につくる「生命のスープ」状態を含めて、その全体がメタ・コミュニティとなっていると考えられるではと思います。

意味と希望 世界の向こう

今まで考えてきたことは、どうやったら生きることと回復とつながるのかということだった。

 

女性ダルクの上岡陽江さんなど何人もの回復者が、回復はずっと続く、回復は終わらないというのはどういうことだろうかを考えたが、それは言葉の世界、意味の世界、記憶の世界に投げ入れられたことによる世界との一体性の剥奪、その根源的傷つきあるいは喪失のためであるのかなと思うようになった。

 

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意味の世界は常に自分が対象化、意味づけされ、存在していいのかどうかが問われている世界だ。自分が存在意義を獲得するために何かを保持したり獲得しなければならない。自分の意味を奪われているほど、何かをやること(doing)への強迫が強くなる。そこから獲得や保持するものがなくても、自分が安定する状態へ移行することは回復であると言えるだろう。

 

しかし言葉の世界にいる限り、世界の一体性とは乖離している。言葉をもって世界を認識することはもはや自動的なことであり、悟りでもえてないとそこから逃れることはできないだろう。再帰的なものとしての自分、振り返って確認できる自分がいるとき、そこに世界との一体性はない。

逆に眠っている時など、自意識が落ちている時、停止に近い状態の時には、世界との一体性はもとに戻っていると思われる。だがそれは自分としては体験できない。自分として世界との一体性は確認できない。それは矛盾する状態なのだ。よってこの自分としては、完全には回復は遂行されない。

 

言葉の世界にあるとき、そこには根源的傷つきがあり、それによって自分は動かされている。先の投稿で、おきさやかさんが自分の求めていたことに気づかれたように、自意識も知らないところで自分の求めは自分を動かしている。そしてその方向は明確だ。鶴見俊輔はこの根源的な痛みにつながる、自分がなぜ生きるのかという各人に付託された問題を親問題とし、場当たりの適応やどうその場しのぎをするかという問題を子問題とした。

 

 

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人は親問題に向き合って生きる時、世界を切り開きうる強い動機をもつ。この根源的傷つきがあるために強い反発力が生まれ、その求めに応答することによってこの言葉の世界を精神が生き抜いていく力を得られる。真に充実と感じることは親問題と関わっていると思われる。なぜ充実を感じるのかというと、その背後に根源的苦しみがあるためであり、その苦しみを乗り越えていくように感じられるとき、充実がある。

 

親問題に向き合うとは、この世界で自分という精神が生きて回復していくためのサバイバルの方法であるといえるだろう。言葉の世界にいる限り、根源的な傷つきである親問題をもつ限り、この強い力が使え、充実が得られる。

 

さて、ここでこの仕組みがマッチポンプであることに気づくだろう。人間が言葉を獲得して自分で傷つく。そしてその力を使って充実を得て、世界を切り開く力をもつ。やること(doing)にしがみついている状態からなるべく何もしなくても安定する状態になっていく。自意識が停止しているときは世界との一体性は回復している。

 

つまり回復は「するべき」もの、目的になるものではなく、手段としてある。別に回復しなくてもいい。回復しなければと、強迫を一つ増やすことによって、結局回復の停滞がおこるのであるし。

 

死ぬときには、言葉の世界はなくなるだろう。よってもとに戻っている。回復は生きている間だけ、用があるものだ。何かをしなくてはいけないのではない。どこにも行く義務はない。ただ根源的な傷つき、親問題に向き合うとき、自分が自分として取り戻され、充実が感じられるから、自分の精神にとって有効なサバイバルの手段として回復があるだけだ。

 

そして親問題に向きあえるか否かは、運による。受難のような、他者によって今の自分を傷つけられ、壊されるという契機を持ち得なければ、人は場当たりの適応で済ましてしまう。世間的な順調とは親問題という視点からみれば疎外であるだろう。人がみんな子問題に向かうと、社会は生きづらくなるのだが。

 

社会を根源的に変革することは難しいだろう。なぜなら人は自然と自分を疎外し、子問題に集中するからだ。親問題に向き合うのには、大きな受難を契機として必要とする。そして受難を受けたらから必ず回復するとは保証されていない。受難自体で死ぬかもしれないし、生き残っても道半ばで倒れるかもしれない。回復はまるで割に合うものではない。

 

いずれ太陽に飲み込まれる地球。そうでなくとも人間はさっさと滅びそうだが、何かを保全することもできないし、何かのために自分を押し殺し完全に奉仕させることもない。選択肢などはじめからない場合もある。


意味とは、何かをやっていれば将来に報われるという約束だ。だがその約束は勝手に自分が設定しているだけで、果たされるとは限らない。意味を追究することで虚しさを埋めることは不可能だ。意味とは、痛みや虚しさを塗り隠すものであって、ドラッグのように強烈だが、代替的なものだ。

 

フレイレは希望という言葉を使う。絶望していないのに希望をもつ人はいない。言葉の世界は記憶の世界であり、それは価値が決定されてしまった世界だ。それが絶望であるだろう。倦んでいるのに乗り続けるメリーゴーランド。だから人は外の世界に働きかけることによって、自分の内にある決定されてしまった世界を変えようとする。

 

希望の教育学

希望の教育学

 

 

自分の既知の領域に存在しなかった他者との出会いによって、そのメリーゴーランドの風景はまた新しいものになる。その時人は希望を得る。この風景が変わりうるということを確認するからだ。風景が変わるとは、同時に、見えている風景が変わりうる幻想であることも示唆している。人は言葉の世界に生きながら同時にうんざりもしている。見える世界の向こうを感じることも必要なのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

親問題

ずっとそこに引きつけられること。

自分でも本当には何をしようとしているのかも知らないこと。

 

10年も20年も経ってみえてくるようなこと。そうであるとも気づかず、わかってもないのに動かされていること。

 

 

こないだ歩いていて、自分の研究の原点が何か、やっと明確に言語化できた気がした。

 

ある二つの集団がいるとき、片方が他方をあまり気にかけずに生きていけることがある。そうした力の不均衡が生じる過程とそれを生じさせる構造を理解したい。

 

そうした構造はどこでも反復していて、バリエーションの例として「文系と理系」「女性と男性」「非西洋と西洋」があったりする。これらは皆同じではないがどこか似ている。その場合、どちらの集団にも「知」はあるのに、一方の知が他方を圧倒する。

 

博士論文で自然科学者の専門職業化を調べたのも、それまで顧みられなかった知が表舞台で脚光を浴びていく過程への関心があったと思う。

 

その力の不均衡は、一見したところ単純に経済的なもの、あるいは軍事的な暴力で説明が付きそうに見えるが、そう簡単ではない。その簡単でない部分を細かく見ていきたい、と思ってる

 

 

 

物語 時間の外部化の機能をもつものとして

DIY読書会で物語についての発表があった。

 

いしいしんじ、山極寿一、藤原辰史、竹宮惠子『「物語」はどうつくられるのか』という企画から。

 

物語とは何かとあらためて考えてみた。それは時間の外部化であるのかなと思った。

 

DV加害者の更生プログラムで一番最初にその人が暴力をふるった記憶を呼び戻し、その記憶をもう一度仔細に観察するというワークがあるそうだが、それは言い換えればその時から止まった(繰り返しをしているわけだから。)時間を動かしているということだと思う。

 

自意識は過去の記憶の集積でできていると思う。だから、世界の見え方、感じ方はそれが更新されるまで同じように体験されるし、ある刺激に対するリアクションも同じものとなる。自意識は時間の止まった世界のなかにいる。

 

それはもう決定されてしまった世界であるともいえる。そこに時間を流すためには、時間が止まったその時点に戻り、そこで体験をし直すことが必要であるようだ。

 

ところが、だいたい日々のなかで焦点をあてられ、記憶の更新がされるのは目の前のことだけになる。幼い頃などの記憶などが想起され、再体験される機会はあまりない。しかし、自意識は過去の記憶の集積でできているので、止まった記憶の影響はずっと残り続けている。

 

20年生きたとしたら、デフラグ(断片化したデータを、可能な限り連続して配置・整理し直すこと)されていない20年分の記憶があって、それが世界を彩り、意味づけている。心にとってはたとえば昔いじめられた経験なども現在にある。多分、心に時系列などないのだ。死者もまた残った記憶として現在に存在する。影響は大きい。かつての場面が目の前に現れることがないなら、そこで止まった時間は流れることができない。だが影響を与えてくる記憶を変化させるためには、その時間が止まった瞬間に戻らなければならない。

昔や幼い頃の場面などは日常では再現されにくいのだが、物語はそれを可能とする。物語を媒介させることによって、現在をこえて、それぞれの時点で止まっていた時間に立ち戻り、それぞれの経験に時間を流すことができる。物語は時間が外部化されたものだと思う。ここでいう時間は「変化をおこすもの」ということになるだろう。


問題解決とは何か 前提を維持する改善と前提を破綻させることの違い

問題解決とは何か。
当事者研究は問題解決の取り組みのようにみえるかもしれないが、熊谷晋一郎さんなどは、問題解決ではないとしている。

https://www.dnp-cd.co.jp/lab/column_ud/pdf/pdf01_02.pdf

 

熊⾕先⽣
当事者運動と当事者研究について話しましたが、「当事者運動」は、⼀致した利害関係に基づいて運動⽬標を⽴てることが多いため、その時点で均質性を⾼めるような⼒が働きます。
⼀⽅、「当事者研究」は、当事者が問題解決のために集まるのではなく、お互いの事を知るために集まってくるので、均質性は⾼まらない。解決ではなく知ることを共通⽬標にして集まった⼈たちの空間の⽅が、多様な声が排除されず、そのまま出てくるので、均質性が過剰に⾼まらないのです。

 

問題が問題であるためには、それが問題であるという前提が維持されている必要がある。だが対話などの過程を経て、それまで問題とされていたことがもう問題としては認識されなくなることはある。

 

かつて同性愛は治療の対象とされていた。同性愛であること自体が問題であるとされていた。だが同性愛自体が問題であるという前提が維持される限り、どんな「解決」方法が模索されようが同性愛者は救われないだろう。

 

ここで問題とは「あってはならないこと、あるべきでないことがあること」と言い換えることができるだろうか。問題解決とはそのあってはならないこと、あるべきでないことを根本原因から変えることであるだろうか。

 

しかし、なぜ「問題」とされるそのことは、あってはならないのか。あるべきではないのか。あることをあってはならないとする前提自体が問われると、その問題を問題とするより、その問題を問題として成立させている「問題」があることに気づく。

 

そのとき、かつて問題だったものは「あってはならないこと」として自分を追い詰めるものではなく、問題を問題として成り立たせている基盤を作っている「問題」が問題となる。無自覚に持っていた前提が変わり、世界の見え方、感じ方が変わっている。


問題解決の何が問題なのかと思うとき、自分の実感としては、問題解決を第一義にあげている場では、その場自体が貧困になり強迫的になるからむしろその「問題解決」さえ実は遠ざかっているというものがある。直接的な問題解決というのは、臨み方としては、「下の上」かよくて「中の下」というのが実感で、色々制約があって仕方ないからそうしているかもしれないけれど、わざわざ積極的に選ぶような臨み方ではないと思っている。

 

当事者研究が問題解決ではないといわれるのは、困りごとや苦労を研究していても、そこは「常識」という無自覚な思い込みや強迫が破綻していく場所であり、それまで問題だと思っていた前提自体を崩していく場所であるからだと思う。