降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

「とむらい」をめぐる対話経過報告 「かのように」生きること 

とむらい」をめぐる対話、遠方の人はメッセージで、近郊の人とは会って話しをしています。9人の方が希望をくれていて、会える人とは日程を決めて一人一人会っていっています。

 

 

僕がやってきたこと,やっていることは、考えることというよりなぞることです。目には見えないけれどそこにあるもののかたち、法則性をなぞる。長い間をかけて、ちぎり絵のように一つ一つ言葉を置いていく。より適切な言葉があればそれをまた上から置く。より適切な配置、より適切な言葉はクロスワード・パズルのように自然に次を導く。

 

 

もらった時間のなかで話してもらった生の一コマ、その時の心の流れ。それがちぎり絵を更新していってくれます。もらったものには自律性があって、僕の今の理解の仕方では位置づけできないものがあります。それらは適切な位置、フィットする位置が見つかるまで傍らに置いておきます。日々のなかで、ふと得心がいくときがくる。無理やり結論にまとめるのではなく,その時まで待つ。傍らに置いているもののそれ自身の自律性が僕のものの見方を導く。それは僕の理解の枠組みを変え更新する。本当にすっきりとした位置を待つほうが結局いい理解になります。

 

 

とむらい」というあまり日常的でない言葉は,その法則性の動き、ありようをとらえたものです。実のところ、とむらいとは何であるかなどは知りません。僕が観察してきたことは、「とむらうように」つくりだす、「とむらうように」向き合う、といったように、まるで「とむらうように」行うこと、「とむらうかのように」生きること、人がそのように生きていることについてです。

 

 

今日はまた新しい対話のなかで、僕が今まで「とむらうように」と表現していたことに少しバリエーションが増えて「とむらうかのように」という「か」が入ったものを得ました。この「か」が新しい切り口をくれる。どこまでも精度をあげて微妙な違いをあわせていくことで、無理に頭で考えなくても自ずとかたちは現れてくる。必死で考えるより、置く言葉の精度を確かめ直していくほうが進みます。

 

 

「とむらうかのように」と「とむらうように」の違い。「か」が入っているほうが意味がよりはっきりします。「か」があるほうは、(本当に、あるいは定義されているような)とむらいをしているわけでは「ない」のだけれど、でもまるでとむらうように、ということになります。このほうが確かめてきたことに対してより正確。

 

 

この発見は、話しのなかで「ぼくを探しに」のラストシーンをもう一度振り返ったときにありました。主人公は、自分を満たすかけらを手放します。そしてかけらを探しに行くんだと歌いながら旅を続けます。

 

 

かけらは手に入れたはずなのに。そう、主人公はもうかけらを手に入れるつもりはありません。それにもかかわらず、かけらを探しに行くんだという主人公。ここに何らかの二重性の存在を感じます。単一の合理性で考えるなら、かけらはいらないというはず。もしいるのなら手放さないはず。どちらしかないはずです。

 

 

主人公は気づいたのです。旅が生きることだったのだと。旅が生の豊かさ、充実をもたらしていた。旅が自分が自分として世界と関わっていくすべだったのだと。

 

 

そして旅するためには必然がいる。その必然が欠けていることがもたらす苦しみなのだと。本当の安定とは本当の終わり。すなわち死です。物語では満たされたときに感じる違和感、おかしさが表現されています。それは物語のなかの便宜的虚構というべきでしょうか。死は体験できません。現実を追求するなら、絵本はそこで真っ白けになり途中で終わる。あるいは、その安定とはやはり嘘なのです。かたちだけあうよう見えても本当のかけらはない。

 

 

結局、見かけ上の現実は物語の最初と最後でなにも変わりませんでした。ですが、そこには二つの旅があって、そのうちの一つは終わりました。主人公は、虚構を設定します。それが「かのように」生きるということでした。そうでなければ旅の必然はない。しかし、たどり着くべきところはもうないのです。たどり着かなければいけない苦しみ、生きる意味を得なければいけないという強迫は消えました。主人公にとって生はどこかにあるものではなく、ただ瞬間瞬間、刹那に生まれるものだと理解されたのです。

 

 

刹那ではなく、長い時間が前提された「生きていく」とは、突き詰めたところでフィクションなのです。それはこちらのイメージの投げかけによって生まれるリアリティです。主人公は、その現実を知り、自分が作り出し、そしてとらわれていたイメージから突き放されます。求めていた救いと思いもよらなかった失望が同時に訪れます。

 

 

もはや意味はない。行くところもない。それが真のリアリティ。無理やり言葉にするならそれは「一次現実」とでもいえるでしょうか。「ぼく」が「生きていく」世界は、それに対して「二次現実」の世界です。虚構の世界。「そういうこと」にしている世界です。「ぼく」はこの意味の世界に生まれて、二次現実が本当の世界だと思っていました。しかし、今はその両方の現実に生きています。「二次」が虚構だということ知りながら。

 


 「ぼくはかけらを探してる 足りないかけらを探してる
  ラッタッタ さあ行くぞ 足りないかけらを探しにね」

 

 

二次現実の旅の仕方は、やはり「かのように」生きることでしかありません。二次のなかで意味をつくりだすように生きていきます。どこにもいかず、どこにもいく必要もありません。それを知りながら、しかし二次の世界とも生きていきます。生きる意味を取り戻す旅は、生きる意味を取り戻す「か」のような「旅」になりました。