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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

苦しみを利用する シルヴァスタイン『ぼくを探しに』

読書 生きづらさ 絵本・児童文学

12月に京都でzineを売る催しがあってその原稿を書いている。
心理学科に入ったり、歩いて四国八十八カ所巡りをしたりしながら気づいてきたことは、人は適切な環境と媒体があれば自律的、無意識的に回復への運動をおこしだすということだ。直面する苦しみがあり、それを包み込むような苦しみがある。直面する苦しみは、負荷を与えるが、それに取り組むことで、包み込んでいた苦しみを終わらせることがある。

包み込まれているその苦しみは、意識できないことも多い。しかし、明らかにそれは存在していて呪いのように影響を与えている。それはタマネギの層のようにその周囲に、そしてそのまた周囲にあるような気がする。

伝えたいことは、しかし、その苦しみが生きる力、関心をもって世界をひらいていく力の源だということだ。包み込む苦しみがあり、またそれを包み込む苦しみがある。終わりがないが、逆にそれゆえに生きていく力の発動には終わりがない。

直面する苦しみがあまりないように感じる状態があるが、実は苦しみはもっている。しかし、苦しみを感じないならそれ以上は動けない。それが生きものというものだ。一方、直面する切実な苦しみがある場合とその負荷によって動ける。それによって、茫洋としていた包み込む苦しみに自然にアクセスされる。

 

包み込む苦しみを取り払っていくことによって、元気が戻ってくるだろう。柔軟性、ストレス耐性、創造性が取り戻されてくる。「成長」はしなくていい。本来的な健康の状態を取り戻していけば、学習力、適応力は増えていく。状態のほうが重要だ。その副次的な効果として、周りの人からはいわゆる「成長」というものがおきているようにみえる。でも、自分が生きづらさをかかえて、どうにかしようと考えている人が成長しようと強迫的に考える必要はない。生きていくなかで内的な詰まり、外的な詰まりをとっていく。ただそれだけに過ぎないのだから。

「成長」については既に書いたのでこれ以上は省く。

 

 

そうしていくうちに気づくはずだ。「やりたいこと」とか「夢の実現」、「自己実現」といったようなきらびやかに見えるものが、実は包み込む苦しみへの応答として成り立っていることを。これらのことは、本人は意識していないかもしれないが、苦しみへの切実な向き合い、創造的対処としてある。逆に言えば、自分が最もやりがいを感じることは、それぞれの包み込む苦しみに対して、それを乗り越え生きていく感覚を得ているときなのだ。

 

直面する苦しみがなければ、それに向き合う力は出てこない。苦しみが人を起動させる力だ。より強い快を求める力は実際には弱い。快をえるために苦しみを負えるほどでないから。包み込む苦しみは、結局、人にとってより辛い。だから体は、ちいさな苦しみ、エネルギーの投資を負ってでも既にある苦しみを乗り越えようと動機づけられている。


頭がコントロールする力、思考の力は限られている。だから体の力を使う必要がある。それは他者の力だ。体にあるもの、求めを確かめ、感じ取り、それが展開するための通路をつくる。それが自分のやることだ。

 

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シェル・シルヴァスタインの『ぼくを探しに』を読んだことがあるだろうか。主人公は、失われてしまったかけらのために苦しみをもつ。それを探しにいくのだが、発見した暁には彼はそっとそれを置いていく。かれの欠落こそが旅の原動力であり、そして他者との関わりに開かれる理由だった。彼はそして救われた。かけらを手に入れて完全になるのではない。失われたまま、救いはおこる。その苦しみこそが創造を生む力なのだ。

 

精神科医の中井久夫によると、詩人のリルケは、詩作のために、統合失調症の状態を治療しようというフロイトの申し出を断ったとみられている。治ったところで、世界は生きづらい。ならばその力を使い生きようとしたのだ。

 

傷がなくなった状態は来ない。しかし、世界を、その重層性を今までと別のように感じるようにはなれる。ゴールはない。いつまでも旅なのだ。だからバランスの崩れとしての原動力は必要だ。

 

シルヴァスタインは、物語の前に読者に言葉をおくっている。どちらの人も変わらない。


For those who didn't fit And those who did.
 - 駄目な人とそうでない人のために

 

世界は荒野だから生き残りは誰も保証されていない。自分が救われていく理屈と社会で生き残っていく理屈は同じではない。けれど、考えてみてほしい。それがもともとだったのだ。生きものは、誰かに招かれたわけでもなく、最初からゲリラとして生まれ、間隙を縫い、必要なものを得てきた。

生きづらさという力を利用として生きていく。なぞり、確かめ、その求めに応えていく。だんだんと近づいていけば「ゆだね」ということの感覚がわかるだろう。発動する力は「自力」ではない。疲弊せずその力を使っていける。

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