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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

『その後の不自由』を読む 自意識の救いかた

図書館で予約していた順番がまわってきた。

 

その後の不自由―「嵐」のあとを生きる人たち (シリーズ ケアをひらく)

その後の不自由―「嵐」のあとを生きる人たち (シリーズ ケアをひらく)

 

 

ダルク女性ハウス代表の上岡陽江さんの著書『その後の不自由』。

 

ダルク(DARC)とは、全国ダルクのサイトによれば、Dはドラッグ、Aはアディクション嗜癖・病的依存)、Rはリハビリテーション、Cはセンターであるとのこと。

 

筆者の上岡さんはご自身も当事者でありながら、長年にわたって薬物依存に苦しむ人たちとともに回復への歩みを続けられ、見つめられてきた。

 

オーバードーズ、自殺未遂など、アクティングアウトとして最後に表面にでてくるものが、どのような内的なプロセスを経ているのか。どのような構造が、そのどうしようもない爆発にいたる通路をつくっているのか。

 

その通路、構造は目に見えない。暗闇のなかに放り出されて、危険な障害物を確認するにはどうしたらいいのか。まずは自分の体がぶつかったところを覚え、手がかりにしていくしかない。

 

仏教に盲人と象のたとえがあるように、何かに触ったり、ぶつかったことは事実であっても、自分がぶつかった場所をもってすぐに全体像を把握することはできない。手軽な結論、高の括りからの行動はかえって問題を複雑化させる。辛抱強く手探りを続けていく必要がある。


この時、同じ問題をもつ人とともに探索し、明らかにしていくことができる。事実であっても、自分の限られた経験ではわからない「現実(=暗闇の象)」とのぶつかりを別の当事者は起こしているからだ。自分が経験していないことでも「そこはそうなっているのか」ということがわかるのだ。

 

回復者にとって、ある段階で(どちらかというと)ケアする側にまわり、同じ苦しみをもった人と一緒にその問題の構造を明らかにしていくことが、自分の潜在的な可能性を展開させ、自分自身が回復していく通路をつくることとなる。

 

深い回復が必要な人、適当なごまかしでは成り立たなくなった人にとっては、断片的な「真実」ではなく、暗闇の象の全体像を理解することが必要になってくるのだろう。その作業には、ともに回復していくために他者の存在が助けになる。ケアされる相手がその役割を担ってくれることが、回復者にとって先にすすむために欠かせないこととなる。

 

(「援助職」につく動機とは、本人が意識してなくても、自分が回復していくための自分の体の突き動かしではないかと思う。)


天才やスーパーマンとしての個人がいつももてはやされるけれど、長い時間をかけ、当事者たちが暗闇のなかでその身をもって確かめ、なぞることによって、明らかにされていくこともある。

 

上岡さんの本は、彼女が仲間とともにその暗闇の象にぶつかり、長い時間をかけ、その見えなかった構造を内側の視点から明らかにしていったもの
だと思う。そして単に問題を明らかにしただけではなく、ぶつかった問題からの立ち上がり方も丁寧に描かれている。

 

僕は心は二つあると思っていて、一つは記憶(過去)とそれをもとにした思考である自意識。こちらはかたちがあるもので、機械的なもの。もう一つは、自律的な気の流れ。こちらは、生命的なもの、無意識的なものであって、自意識とは無関係に自意識のほうにも、外界のほうにも、流れていくその通路を求めている。

 

意識される機械的なものと、意識されない自律的な気の流れがある。後者の滞りは、圧(不快・苦しみ)となり機械的なものに働きかける。機械的なものは、それに対応して、滞留していた気を流していく新しい通路をつくるための試行錯誤をはじめる。そのことによって、機械的なものは更新される。終わりないこの循環が生きることであり、回復ともいえるだろうと思う。

 

自意識は、主人公ではない。過去であり、亡霊のようなものなのだ。それぞれにもっとも欠けているものを、本来あるべきだったはずの状態に戻したいというのが、亡霊である人の文化的動機だと思う。

 

しかし実際には起こったことを変えることはできないので、私は(人は)、本来はこう扱われるべきものなのだ、こうあるものなのだ、という状態をこの世界に現実化させる。自分にその現実化を確信させることによって、その苦しみが終わる。


だから僕は人が回復していくプロセスには、弔いという言葉がふさわしいと思っている。終わっているものを弔う。それによってそのことを本当に終わらせると、新しくなる。それまでのものではなくなる。

 

上岡さんがメンバーから聞いた言葉に「思い出づくり」という言葉がある。心に沁み、馴染む言葉は、彼岸から、あちら側から自分をみた言葉であることが多くないだろうか。
 

私たちのハウスにいるのは、誕生日やひなまつりのお祝いとか、一緒に食事をつくって食べるということをやってもらったことのない人たちです。あるいはそういうたびに暴力にあっていたとか、ひどい思い出しかなかった人たちです。それをみんなで、安心であたたかい体験に差し替えていくわけですが、あるメンバーがそのことを「思い出づくり」と言いました。私はまさにその通りだと思います。そしてこの「思い出」の中身って何かなと考えると、「出会い」と「生き抜く知恵」ではないかと、私は自分のことを振り返ったときに思います。 上岡陽江『その後の不自由』

 

人はどこにもいかない。「人類」なんかとして何も達成する必要はない。なぜなら、自意識は既に終わっている世界に住んでいるのだから。宇宙に行っても、どのような発展をしても、それは今現在の人が過去に支配され、苦しめられていることの裏返しにすぎないのだから。

 

欠けたものを求める飢えが人を駆り立てる。その飢えの力を転用し、自身を弔うことは、演劇であるともいえる。自分たちでつくった自意識に支配され、そしてまたそこから自意識を救おうとする。そのマッチポンプを演っているのだと思う。