降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ブライアン・イーノのインタビュー 降伏する機会

前に書き起こしたものがあったので、転載。

ついでに少し連想したことを。

 

一つのアイディアしかなくてそれを様々な違う方法でやっているに過ぎない

 

これは、鶴見俊輔のいう「親問題」と通じることであると思う。自分がどうしても惹きつけられそれを進めようとすること。イーノは特に痛みや苦しみということには触れていない。別に自分を動かすものが痛みや苦しみであると考える必要はない。被害意識はむしろ回復の邪魔だ。ただ充実を感じること、世界が開かれていく感じを持つことをやっていけばいいということでもある。

 

隠岐さや香さんが、ある二つの集団がいるとき、片方が他方をあまり気にかけずに生きていけることがある。そうした力の不均衡が生じる過程とそれを生じさせる構造を理解したい、とツイートされたように、それが何であるか知らないのに、やっていることはそれの追究なのだ。

 

アートが僕らに与えてくれるのは降伏する機会だ
もうコントロールしなくていいという機会だ

 

自意識が降伏するとは、既にあるもの、自律的なものにゆだねるということだ。自意識のコントロールが一時的な肯定感を維持させるが、それは疲弊をよぶ。そればっかり繰りかえしていくことが嫌になる。「すること」が自分の価値だと考えるとき、何かをしなければいけないという強迫が常にある。

 

何もしなくてもそれによって自分が削られる。自意識がやるのではなく、既にあるもの、自律的なものがやる。意識の役割は自律的なものが発揮されるような環境を整えることだ。その時、常駐していた強迫による疲弊が消えていく。

 

すべての素晴らしい事は情熱から生まれる
「どんな風に進化するかどうしても知りたい」思いは結果の出ないたくさんの夜をかけて僕らを突き動かす

その一方で自分はこれをやるべきだという義務はあっという間に消えていく

 

 

情熱とは火のようなものかと思う。自分が情熱を持っていないのではなく、応答しないからそれはしぼみ、小さくなっていくのではないかと思う。火に応答することは、面倒くさいことであり、非常識なことであったり、世間に対する反逆であったりするだろう。しかし、応答こそが自分が自分として生き残る手段なのだ。常に応答していく。火が火として燃えるように。

義務とは自分の時間の流れを止めることだ。強制し、動いているプロセスを止めることだ。それは応答の感性を鈍らせる。それは自分としての体験にもならない。退屈であり、長続きしない。さらには応答しなかったことによって、コントロールしなければならないという強迫が増す。

 

よくアーティストをミュージカルのオクラホマの農民とカウボーイに分けて考えたりする 農民は領土を見つけ縄張りをはり掘り起こし土地を耕して肥やす カウボーイは外へ出かけて行き新しい領土を探し出すほうだ

 

農民とカウボーイのたとえは、個人のパーソナリティとして、ある人は農民であり、ある人はカウボーイであるということではないと思う。農民とはつまりコントロールを蓄積していくこと、既に知っていることのなかにとどまること、所有することのたとえであると思う。カウボーイは、生を自意識が所有するというコントロールを放棄したあり方であるだろう。

 

大きな間違いはインスピレーションを待つことだ
それは向こうからはやってこない

 

応答とは、試行錯誤のかたちをとる実践であり、その試行錯誤抜きにインスピレーションはやってこない。応答的な試行錯誤によって、やがて求めはかたちをもって現れてくる。

 

明らかにそれぞれの人に与えられる機会は平等ではない
ある人は他の人より多くの機会を得る

でも準備できているかどうかということも平等ではないんだ
ある人は他の人より訪れた機会を活用する準備がより整っていたりする

 

機会は究極的には向こうからやってくるものだ。それがきた時に準備ができた状態にあるか。整いができているか。淡々と整いをすすめていく。向こうからやってくることと、自分ができることとを区別する。

基本的に歪みは個性なんだ
事実僕らが個性と呼んでいるものは完璧からはずれている事をいう
だから完璧とは僕にとっては無個性ということだ

 

親問題の考え方は、自分もっとも脆弱な部分、死をもたらすような危機的な痛みや苦しみ、欠落に対して反発する力があり、その力を使うとき、自分に世界を切り開く力が生まれるというものでもある。

 

シルヴァスタインの『ぼくを探しに』で、主人公が失われたかけらを探すように、人は自らの根源的な歪み、欠落、喪失に反発するエネルギーを受けとる。個性とはそのような欠落をもとにするものであり、その反発の力によって人は現実を自分として生き抜き、回復していく力をもつ。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 



何かの折にこう思うことがあります

 

自分の人生にはたった1つのアイディアしかなくてそれを様々な違う方法でやっているに過ぎないのだと

 

そう思うと少し気が滅入ってしまいますがそこで思い返したいのは、サミュエル・ベケットマイルス・デイヴィスや他の人たちにも同じということです

 

アートが僕らに与えてくれるのは降伏する機会だ
もうコントロールしなくていいという機会だ

 

考えてみれば僕らの文化において1番求められているのがコントロールするということだ

 

僕らがしたいことは、つまりセックスやドラッグやアートや宗教を求める理由で、僕らがしたいのは降伏することだ

 

それはいろんなやり方の「自分」を見失う方法だ
あなた自身を失う方法だ

 

音楽で僕がしたいことの1つは人々に降伏する機会を与えることだ

 

すべての素晴らしい事は情熱から生まれる
「どんな風に進化するかどうしても知りたい」思いは結果の出ないたくさんの夜をかけて僕らを突き動かす

 

その一方で自分はこれをやるべきだという義務はあっという間に消えていく

 

大きな間違いはインスピレーションを待つことだ
それは向こうからはやってこない

 

僕が思うに何かを創造することはそんなになくて何かが起きそうなことに気がつくことなんだと

 

気がついたことをもとに進めてそれが新しいことになる。今までなかったことだ それにどんな意味があるか? それでどこへ行けるのか?

 

よくアーティストをミュージカルのオクラホマの農民とカウボーイに分けて考えたりする

 

農民は領土を見つけ縄張りをはり掘り起こし土地を耕して肥やす

 

カウボーイは外へ出かけて行き新しい領土を探し出すほうだ

 

自分のことは農民よりむしろカウボーイのほうだと思う

 

ぼくはまだ他の誰も行ったことがない場所にいくスリルが好きだ

 

それが取るに足らないことでも ほらだってアートなんだからそれは重要じゃない

 

とはいえ僕は今までまだ他の誰もが見たことがないものを見るという見地に立つのが好きだ

 

明らかにそれぞれの人に与えられる機会は平等ではない
ある人は他の人より多くの機会を得る

 

でも準備できているかどうかということも平等ではないんだ
ある人は他の人より訪れた機会を活用する準備がより整っていたりする

 

僕は絵を習っていたんだけど60年代のことで当時ポップミュージックが非常に面白くなって来ていた

 

この新しい技術が誕生しようとしていた
レコーディングスタジオだ
僕はすごく夢中になったよ

 

一部はたぶんレコーディングが音を描いていく方法だったから

 

同じように新しい楽器も登場した

 

シンセサイザーはまだなんの歴史もなかった
シンセサイザーの弾き方に正しい方法など存在しなかった
だから僕は初期に手に入れて自分の好きなように演奏したよ
シンセサイザーの弾き方を習いにいかなくてよかったから
だけどそれも選択なんだ

 

ドラムを習いにいくことだってできた
でも神様は何が起きるか知っていた
また一人酷いドラマーが誕生することを

 

ドイツのエレクトロニックバンドの人を覚えているけど、名前は伏せておくけどね、彼は「完璧な正弦波を追い求めている」と言ったんだ

 

面白いのは、たぶんこの世で最もつまらない音が完璧な正弦波だということだ

 

それは何も起きない音のことだ
完璧な音でつまらない
デビッド・バーンがうたっているように「天国とはなにも起こらない場所」

 

基本的に歪みは個性なんだ
事実僕らが個性と呼んでいるものは完璧からはずれている事をいう
だから完璧とは僕にとっては無個性ということだ

 

 

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