降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

勝ちをゆずること

沖縄の話しを聞きにココルームへ。

 

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実際に辺野古や高江に行き、そこで感じたことや心の揺れを語ってもらった話しが一番心に残りました。

 

以前永橋爲介さんのゼミに参加させてもらっていたとき、永橋さんは、運動movementとは心の動きmoveが伝わっていくことだと言われていて、今日もまたその言葉を思い出しました。

 

僕は以前沖縄の鈴木雅子さんのお世話になって、辺野古や高江に連れていってもらいました。鈴木さんは、座り込みという手段からジュゴンの調査という方法によって、自らの「運動」を続けられていました。

鈴木さんから聞いた忘れられない話しは、自らの活動のなかで、運動の「目的」の達成以上に、人間が人間として回復していくことを優先していることでした。「目的」の達成への切迫が人を追いつめ、分断したり、抑圧したり、有能な人と「駄目」な人が選別されたり切り捨てられたりします。

 

人間の回復は「目的」への直線的な進行に対し、随分と迂回的だと思います。いえ、実のところは迂回的である以上に生き残ることとは逆行することを含んでいると思います。そこには負けること、報われないまま終わることも含まれています。

 

普通は、勝利の暁には平和と人間らしい生が獲得されると思うでしょう。けれど、そうはならない。勝利のために犠牲にされ、踏みにじられた人は、讃えられるかもしれませんが、やがてその存在は、勝利、そして勝利の持続を正当化するものとして位置づけられます。そして勝利の正当化は、抑圧を肯定するものになります。

 

結果は、人間的であるならば保証されないでしょう。自分たちの森を守ろうとする先住民のリーダーが殺されてしまうみたいに、勝つことは、自分たちの最善手によっても届かない場合も多くあると思います。

 

勝たないのならやらないのか、というところで、嘘であっても勝ちを保証しないと多くの人は動員されないかもしれません。でも、勝利のための人の利用を始めるともうそこに人間の回復などなくなってしまいます。そのときは犠牲にするけれど、勝った暁には余裕ができるからやるというのは僕は信じていません。

 

人間の回復と勝つこととは、水と油のようなことであるようです。確かめれば確かめるほど、どうしても両立しないようです。

 

「勝つこと」とは何なのか。折に触れて考えてきました。勝つことは、どうしようもない矛盾と罪を含んだもののようです。運動に勝つこと、阻止されるべきものが阻止されること、正義や平和が達成されること、現状が満足なものに変わること、生き残ること、元気になること。

 

僕はこれらが「勝つ」ことだと思っています。元気になることなど、得ることが当然の権利のように思われ、「勝つ」などという言葉とはそぐわないと思われるかと思います。でも、やはりそれは何かを犠牲にして得ているので、「勝って」いるのだと思います。

 

一方、勝つことをゆずると、与えられることが生まれてくるようです。勝つことを譲れば、場合によっては生命を含めて多くのものを失いますが、勝つことを譲るというあり方において、そこに自由がひろがり、人間の回復を持続させていくこともまた可能となるようです。