降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

人間化の過程 意味から解放された場所としての人間

昨日の読書会。

 

フレイレは、人間の使命とは「より全き人間であろうとすること」だろうという。しかし「より全き人間」という言葉がまるでピンとこない。全きとは言葉通りにとるなら、完全で欠けたところがないということだろう。

 

完全。結局そういうものが本当にあると信じていることが不注意そのものなのであって、かつ強迫的に働くものだろうという認識だったので、首をかしげる。読書会のメンバーから「全き人間」という言葉はキリスト教的な文章でよくみられるという指摘がある。なるほどと思う。

 

里見実は、フレイレの解説書のなかでフレイレの『被抑圧者の教育学』とラテンアメリカの「解放の神学」の形成過程とは、時期的に重なりあっていると指摘する。解放の神学がその名前で宣言されるのが、1968年であり、被抑圧者の教育学も同時期に書かれている。

 

里見は両者は理論的にも実践的にも相互に深く影響しあっていると考えてよいだろうとしている。

 

英語で全き人間を何と書いているかみていないのだけど、DeepL翻訳などで「より全き人間であろうとすること」といれるとTrying to be a more whole person. とでる。

 

wholeのまるごとという感じならわかる気がするけれど、完全といわれると、「玉に瑕(きず)」みたいなあらかじめ完成された状態があって、今の自分からどれだけ完璧にしていくかみたいな不毛に強迫的なイメージが浮かんでしまう。

 

まるごとというときは、部分的な存在になってしまったり、されてしまっている人間が人間としてのまるごと性を取り戻していくということで、腑に落ちやすい。

 

まるごとという時は、その範囲が自分の身体だけにとどまらずそこに関わる全ての関係性がふくまれている感じがする。そこには世界と応答しあう存在としての人間が感じられる。

 

依存症などの自助グループ界隈では、「回復とは回復しつづけること」という言葉がある。回復的な体験がある人にとっては、非常に納得感のある言葉だ。

 

回復(した)というと、完了して安定した状態、達成して終わった状態になったように感じられる。しかし、動的な、変化の過程にあることそのものが回復とよべるのではないかと思う。

 

フレイレ自助グループ界隈は分野は違うかもしれないけれど、「より全き人間であろうとすること」と「回復をつづけること」とは同じようなことを言っているのではないかと僕は考える。

 

そして回復を続けるということは、結局はどうなっていくことなのか。フレイレ的には内在化された抑圧から自分が解放されることであるだろう。

 

抑圧されている人は価値観も抑圧者の価値観に侵食されているので、単に状況が改善しただけでは、自分が抑圧側にまわるだけになってしまう。しかも、そうして「成り上がる」ともともと抑圧者のポジションにいた人たちよりも苛烈な抑圧者になってしまう場合が多いという。

 

そのようになってしまうのは、自分が(他者から尊厳を提供される)人間であるためには、それをより証明しなければならない、よって自分とは違う、ダメな存在と自分との区別をはっきりさせなければならないという強迫から解放されないためだという。

 

抑圧者は「(他者から尊厳を提供される)人間であるためには〜の条件が必要だ」と信じている。そしてその条件を達成するために自分以下の存在をつくりだす(誰かを非人間化する。価値ある人間以前のものにする。)。これが抑圧の生まれる仕組みであると思う。

 

人間的な回復を簡単にいうならば、多くの条件を達成した自分であることでようやく自分を人間として認められていたとても強迫的な状態から、人間であるために必要だと思っていた強迫的な条件が減少して、条件の達成の強迫から解放されていくことであると思う。

 

人間とは、「意味」という未来からみた有用性の侵食をさせないところに生まれるものだと思う。人間とは意味の侵食を拒否した場所のことだ。

 

「あなたはあなただ」「わたしはわたしだ」というとき、それは誰かのようであるによって自分は意味をもつのではない、ということを言っているのであって、自分が偉いとか、あなたは素晴らしいから価値があるといっているのではない。

 

用意された鏡に映されたときに意味が生まれる。しかし人間には意味という条件は必要がない。必要がないどころか、意味という誰かにとっての有用性から自分が解放されたときにこそ、そこに人間が生まれるのだ。人間というのは意味から解放された場所のことだ。

 

意味をもたなくてもよくなっていくこと。それが人間にとっての解放であり、そして文化というものが目指してきたものだと思う。「より全き人間」とは人間であるために達成しないといけないと思っていた条件から解放されていくことであり、それが内在化された抑圧から解放されていくことなのであると思う。

 

「自分は回復した」ということを誇りに思うとき、図を浮かび上がらせる地を必要とする言葉の構造上、必然的に回復以前の自分より自分は人間化したと言っているのであり、同時に無自覚であっても回復以前と自分が考える人たちを非人間化することで高揚が生まれている。

 

回復者であることを自らのアイデンティティとし、回復は善だ、回復はすべきことだ、回復を達成した人は価値があると信じはじめたとき、その人はもう抑圧者になっている。何かを達成したと思えば今度はその達成の意味を無化していく。それが終わりのない人間化の過程なのであると思う。

 

追記:その後「より全き人間」はグーグルブックスの英語版ではmore fully humanであることを教えてもらう。そして邦訳で自分を含めた読書会メンバーが困惑したのは、邦訳には英語訳のどこにもない一文「人間の使命とは、より全き人間であろうとすること」ということだろう。」が挿入されているためであることに気づく。「より全き人間」は、非人間化ではないものという程度の意味合いで、とくだんに「全き人間」という言葉に意味が込められているようには思えない。邦訳のためにひっかかったが、「全き人間」にそんなにこだわる必要はなさそうだ。