降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

なきがらの水たまり

社会と運動について友人と話していました。

 

社会はつまるところ「勝った」人たちが自分たちのためにつくった社会なのだろうと思います。

 

そしてそうであってもなお損と犠牲を引き受けてきた人たち、現状の社会の価値における「勝ち」を自分から他人に譲ってきた人たちによって、その後退はスピードを遅くされていたのだと思います。

 

社会が良い状態にあったということは、善意ある人同士の無傷の協働によって生まれたのではなく、得られるものを不意にした人の犠牲によっているようです。

 

そしてその犠牲を知らなかったといっても、いい状態だけ享受して当然だとすることは、他人によって作られたものに乗っかって果実だけ消費しているだけにとどまらず、必然的に社会の劣化をともなうのだと思います。

 

干上がりつつある川に残った、魚たちが息をつなぐ水たまりがあります。その水たまりはどうやってできたのでしょうか。

 

社会における人間性は、自ら傷つき、失いながら非人間的なものを押し返した分だけ作られるようです。水たまりは、自分の「勝ち」を譲った先人のなきがらによってできているのです。みなが享受されている「幸せ」を当たり前とし、「勝ち」を譲ることを拒否すると水たまりは更に干上がっていくのだと思います。

 

 

ウィンウィンなどないのだと思います。社会はもちろんそれがあると喧伝しますし、それを信じさせようとします。それは「勝った」自らを維持するためになのだと思います。そして強いものが強いままでいるために「時間」が止められ、腐敗がすすんでいきます。

 

腐敗に怒りを感じますが、自分の場合、その怒りは既に自分が享受しているものが奪われる怒りなのかと思います。しかしそれを誰が享受させてくれたのかと考えると、犠牲になった人たちがということになるだろうと思います。

 

腐敗への怒りは、犠牲が公平ではないという怒りであり、美味しい目をキープしながら弱いものの血をすするものへの怒りです。でも、自分が何かを享受し、美味しい目をみている時も、誰かのなきがらから栄養をえているのだと思います。

 

すると、人間として生きようとするなら、犠牲になり、負けるしかないということになるかなと思いました。誰かのために、犠牲になり負けてもいいかもしれない。しかし、権力者に美味しい目をみさせるよりは、自分が共鳴するような存在のために負けるというほうがやりがいがあるだろうなという感じがします。

 

自分というのは、映し絵なんだなと思います。ガラスに描かれた絵自体は自分を認識することができず、白い布に映ってはじめて意識に認識されます。他者として認識される時、自分として実感されるのです。

 

他者としてしか自分を見ることができない。だから逆に自分自身が「自己実現」しなくても、自分のような誰かに対して自分が本当にして欲しかったことを提供すると、自分が回復するのだろうと思います。後者は力を持たないもの、負けを引き受けるものの回復の方法です。