降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「時間」として生きること 

今日は、久しぶりにオフラインでの当事者研究の日になりました。

 

去年まで当事者研究は、3つの場で、あわせて月4、5回ぐらいやっていました。それぐらい自分にはその場が必要だったということでした。1年半ぐらいやって、去年の8月で一旦全て終わらせてもらいました。

 

定期的な当事者研究はやめて、それからは日常のなかでおこる出来事や状況に応じてつくる話しの場、あるいは自分がここでやらせてもらいたいと思うところで話しの場をさせてもらう感じになりました。

 

ちいさな催しをするとき、自分にとって、お金をとらない(あるいは最小限の)やりとりでも、成り立つこととはなんだろうかと考えます。自分にとって必要な体験や時間を買うために大変な思いをして余計に稼ぐというやり方をしなくても、お金のかからないやり方で、自由に枠組みを作り、その体験をすればいいのではないかと。

 

それは、お金を余計に稼いでいい野菜を買うより、畑で野菜を作るという自給的な発想です。

 

お金という効率だけからみれば畑にかける時間分をバイトにあてるほうが効率的ですが、畑をやれば、何を面白いと思うかという自分の感性も開発されひろがっていくので、むしろその開発の機会がないことのほうが、勿体無いのです。

 

多くの豊かさは、体験の重層性、世界の見え方の重層性を得ていくところにあるのではないかと思えます。

 

さて、必要な体験とは、自分の「時間」を動かす体験だと思います。当事者研究の1年半で動いた「時間」は1年半前に必要だったものをみたしました。すると自分の「時間」が動いている感覚は薄まっていきます。

 

満たされることは、次にいく必要が出るということでもあると思います。自分にとってまさに必要な体験は、今まで通りのことを繰り返すだけでは十分に得られなくなりました。それを得るためのあり方がジャンル難民の集まりだったり、「時間」のワークショップということになります。

 

当事者研究というかたちでこそやれることがあります。ただ当事者研究のハードルの高さは、自分を「普通」という透明な存在にするベールを脱いで、当事者という認めたくない「色」のついた存在になるのを認めること、自分の弱さや欠落を認め、「降りる」ことであると思うのです。

 

それができるのは、多数の人の水準からみれば、ある程度以上の苦労に直面した「猛者」だと思うのです。それぐらい「降りる」こと、自分の認めたくない弱さを認めるというのは難しいことだと思います。当事者研究の門を叩ける人は既に多くのハードルをこえていると思うのです。

 

一方、僕は今まで出会った人たちの話しなどを聞いてきて、どうやらある人のさしおけない問題意識や関心は、それを探究し、より近づいていくことで、その人自身は往往にして「苦しいこと」などに直面しようとは思っていないのにも関わらず、結果的には自分の根源的な「痛み」に向き合うような行動や活動に満足や充実を感じるようになるようだと思うようになりました。

 

自分にとっての核心的な関心事の探究をすすめ、近づいていくということをしていると、自分が「当事者」であるとか先に認めなくても、段々に自分に向き合う態勢(耐性?)がついてくるように思うのです。直接的な「回復」や「治癒」や「成長」を求めるよりも、探究という間接的(に見えるかもしれない)行為が、自然な回復のサイクルを派生させるように僕には思えるのです。

 

また一旦「回復」したと自分も世間も認める人であっても、そこから自分の「時間」を動かしていくためには、やはり探究が必要なように感じます。探究は自分の状態を活性化させるために、ずっと必要だと思えます。

 

ならば、自分が「当事者」であるかどうか、弱さを認められるかどうかも探究によって近づいていけるのだし、「回復」や「治療」を求める枠組みに自分が入るという引け目を感じることもなくただ探究をすすめていけばいいだけなのだから、「さしおけない問題関心を探究する」でいいのではないかと思うのです。もちろん万人に効くということはないのですが、当事者研究がカバーしにくい範囲をカバーできるところはあるかなと考えています。

 

今日、僕をいれて5人で久々にやった「当事者研究」は、去年とここ二ヶ月の「ふりかえり」をA4用紙にマジックで書いて発表するのと、自分が「時間」を動いたと思うような時はどういう時だっただろうか、そしてこれから今の自分の「時間」が動いていくとするなら、どのような環境や条件が整ったらいいだろうかを書いてみるという作業だったので、実質的に当事者研究というよりは、最近やっている「時間」のワークショップでした。

 

何回かやってきた「時間」のワークショップですが、非常に感銘を受けるのは、それぞれの人がそれぞれに「時間」の動かし方を直観的に把握しているということです。たとえば、時間が動いているという感覚があるのは「新しいことに取り組むこと」であったり「旅に出ているとき」だったり「人の「時間」が動いているとき」であったりします。

 

参加者から非常に多彩で具体的な「時間」の動かし方、動いていたと感じる時の事例がシェアされます。しかもその知見は非常に具体的で驚くような深い示唆に富んでいます。そのシェアは参加者同士にとっても非常に有益な示唆であるだけではなく、このワークショップを何回もやっている僕にもそれまで見えていなかった広がりや奥行きをくれます。

 

宮崎駿の『魔女の宅急便』で飛べなくなった魔女のキキは、森の絵描きウルスラから自分の絵が誰かの真似だったと気づいたという話しを聞きます。ウルスラの止まった「時間」が動いていくプロセスは、キキだけでなく、映画をみた多くの人の「時間」の動きに通じるたとえになったのではないかと思います。

 

それぞれの人が感じている「時間」の動きのプロセスは、それがどれだけ価値があるものなのか、どれだけ他の人に影響を与えるものなのか、話している本人も知らないほど大きいものなのではないかなと思います。

 

大人のウルスラと子どものキキは、同じ声優の人が担当しているそうです。先に存在する「時間」が後にくる「時間」を自分と同じところへと導くようだと思いました。ウルスラとキキとして分かれているようですが、そこで「時間」は一つのものなのです。

 

誰かの「時間」が自分のなかにはいってくるとき、自分はその誰かを生きていると言うこともできるのではないかと僕は思います。そしてその誰かがいなくなっても、自分のなかでその誰かの「時間」が動いていると感じるならば、その誰かは生きているのではないかと思うのです。