降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

自意識の植民地としての身体 打ち消しと間接性

ある催しで、参加者が私はもう上手いダンサーの踊りを見て面白いと思えなくなったということを言っていたのを時々思い出す。

 

自分のことを動的な関係性そのものとみるのではなく、完結した、閉じた主体だとみなすとき、自分は環境に対して(一方的に)働きかける存在であり、自分の既知の知識や技術で他者に働きかける能力を内在させていなければいけない存在だと認識される。

 

一般的なイメージとは違って、依存症とはコントロールしすぎる病なのだと認識されはじめているけれど、自意識によるコントロールは既知に閉じており、必然的に閉塞を伴っている。

 

身体のことを、自意識は自分の所有物だとみなしていて、いかにそれをつかって多くのものを得るか、欲しいものを得るかに邁進している。近代的な認識では、身体は自意識の植民地として存在している。

 

言ってみれば身体からすれば、自意識とは、自分をのっとった人工知能みたいなものだ。AIを恐れるのは、実のところは自分の身体が既に自意識によって完全に乗っ取られているという実感からやってきているところもあるのではないかと思う。

 

しかし自意識が自分のやっていることを自覚しているかというとそうではなくて、自意識は自分が作り出した世界像に閉じ込められ、終わらないメリーゴーランドから降りられずにいつまでも同じ景色を見続けさせられている。その景色を更新するのが、出会いであり、学びという出来事であると思っている。

 

自意識は自分を自分でどう縛っているかわかっていない。しかし、自意識は言葉でできているので、言葉の意味の境界においては、自動的なコントロールを発揮できない。だから、人と話しているときに帰り際とか玄関口で話しがいっぱい出てきてしまったり、喋るために用意された場所より、喋っても喋られなくてもいい状況のときのほうが話しが生まれたりする。

 

家でも職場でもない中間の場所、サードプレイス、なんであれ自分にとってそういう意味の境界にあるものが自分に内在化された無自覚なコントロールを外し、縛られていない自律的なものが動き出しやすくする。

 

通っている整体の稽古における型も、自意識の制圧下にある身体のコントロールが効かない状態をつくりだすものであって、いわば「止めているものを止める」ことによって、ようやく縛られていない自律的なもの、状況を更新する新しいものが動きだす。

 

まわりくどいが、自分という自意識によって直接にコントロールすることは、まるで全体主義国家が中央からの逐一の指令によってリアルタイムで踊っているダンサーに動きを指示しているようなものになる。そうならないためには、自意識としての自分がやることは、止めているものを止めるという間接的な行為ということになる。

 

否定的なものの打ち消し、止めているものの打ち消しというように、相殺の工夫、相殺の設定が状況の滞りをマシにする。意味というのは、AでもなくBでもないCというように、否定の重ね合わせによって作り出されているのだから、愛とか信頼とかやさしさとか、そういうものもそれそのものがあるのではなく、否定的なものが否定されたとき、結果として感じられる。

 

なので、直接的に自分が優しくなろうとか、愛を身につけようとするのも間違いであって欺瞞にしかならず、自分に内在する否定的なものを見つけ、そこから自分を解放していくことで結果的に望んでいるような状態が現れてくる。