降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

他者を受けいれるとはどういうことか

「階段の上の子供」という谷川俊太郎の詩がある。

 

階段の上の子供

谷川俊太郎

 

階段の上の子供に君は 
 話しかけることが出来ない

泣くことが出来るだけだ
 階段の上の子供が理由で


階段の上の子供に君は
 何も与えることが出来ない

死ぬことが出来るだけだ
 階段の上の子供のために


階段の上の子供はたったひとり
 それなのに名前がない

だから君は呼ぶことが出来ない
 君はただ呼ばれるだけだ

 

 

階段の上の子供に対して、私は呼びかけることはできず、ただ呼ばれるだけだ。私は子供に話しかけることができないが、私が泣くのは階段の上の子どもが理由だ。そして私は階段の上の子供に何も与えることができない、階段の上の子供のために死ぬことができるだけだ、という詩。

 

(死ぬことの意味は色々考えられ、実際に生命活動の完全な停止という意味で考えても深く考えられると思うけれど、僕はさしあたり今の自分が更新されること、ということで捉えた。)

 

僕はこの詩は他者、あるいは他者性のことなのだと思った。自分の意思でコントロールすることができないが、一方的に向こうの影響を受ける。そういうような関係性をもつ存在。昔の自然と人間のような。

 

近代では「自然」はコントロールされ克服される存在として認識されている。だがどんなにコントロールしようとしても、新しいウイルスが生まれるように、自然をコントロールすることはできない。コントロールできることが増えたとしても、常にコントロールの外の領域が存在する。そのように認識している外の領域、コントロールできる外の領域が僕のイメージする他者であり、他者性だ。

 

先日、ジョハリの4つの窓について書いたけれど、私だけが知る私、他者だけが知る私、他者と私が知る私、私も他者も知らない私、という4つの区分ある。他者も私も知らない私という4つ目の区分もまた他者であるといえるだろうと思う。4つ目の区分は常に無視され、考慮することもできない。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

認識の外にあり(あるいは認識から漏れたところにあり)、よってコントロールという選択肢さえ存在しない他者がいる。

 

といっても、この他者は具体的には存在しない。見えたり聞こえたりして感じているものは既に認識されているものであるので。たとえば、信頼していた部下に殺される皇帝にとっては、部下は存在するが、殺意は認識の外にあるので他者であり、存在しない。

 

(しかしこの場合、部下は自分の殺意を知っているので、実際はこれは他人は知らないが自分は知っているという区分。もし突発的に自分さえ知らない「殺意」によって動かされたらもうちょっと自分も他人も知らない第4の区分に近いのかもしれない。)

 

(「異邦人」では主人公は殺人を太陽が眩しかったからと理由づけしたが、その認識も後づけかもしれない。自我機能は自動的であり、自分を守るために自分さえも偽るものなので。)

 

他者性は具体的な現象として現れれば、確かに存在していたことがわかるが、現れるまではそれは存在していない。そして存在したとわかった時にも依然として認識に漏れる外の領域(=他者)があり、その領域は認識できないために一方的に現れる。そして私はそのような他者に一方的に影響される。だから他者はいつまでも他者のままだ。

 

この他者には二面性があり、自分を壊すもの、危機に陥れるものとしての一面と、その破壊性によって、予想もしていなかった肯定的な状況をひらくという矛盾する一面がある。四国遍路などにおいては、弘法大師はその二面性をもった自然の象徴であり、自分を追い払った有力者の子どもを全員病死させる一方で、水のない地に水を湧き出させるなど、圧倒的な恵みと再生、豊穣の象徴でもある。

 

肯定的な側面だけをもった他者は存在せず、他者は常に今あるものを壊して新しいものを展開させる。コロナは、様々なものを壊しているので、同時に必ず今までなかった肯定的な新しいものも派生させるだろう。

 

新しいものは、既存のものから圧迫を受ける。新しいものがどんどん生まれるところは、既存のものが幅を利かせていないところだ。(既存のもの(自分の利権構造など。)をがっちり守りながら、新しいものだけ生めというのは実際は矛盾なのだ。)

 

たとえば、インフラの話しで、明治の日本のインフラ整備が、欧米の発明のタイミングとぴったり一致していたため、その発明より前の段階のインフラが整備されていた欧米以上に、新しい発明を前提とした全体的な整備ができたという話しがある。現代でもインフラが整った「先進国」よりかつては発展途上国と呼ばれる国のほうが、既存のものがない状態で新しく全体を整備できるので、ネット環境などは後から整備された方が最新のものにセッティングできるときく。

 

(ここで「コロナ」といって、認識できるものを他者のように書いたけれど、他者は認識外のところからやってきて既存のものを破壊し、破綻させるものでありながら、認識できたものは既に他者ではないので、認識される「コロナ」自体は他者ではなく、認識できるコロナの、既存の認識から漏れでる影響性が他者であるといえると思う。しかし、認識に浮かび上がった「胡散臭いもの」、「コントロールできないもの」、「予想できない危険がありそうなもの」は対象として存在しているので他者ではないが、そのように認識されているものと、認識の外にある他者(という影響性)は密接に関係しているとはいえるかと思う。)

 

他者そのものは認識の外にあり、認識から漏れでるものなので、肯定も否定もできない。しかし、他者という、私も他の誰かも知らない第4の領域があるというふうには仮定できるし、その「つもり」で生きることはできる。

 

他者を受け入れるとは、実際には現状認識されている価値の低いもの、受け入れがたいものの背後(つまり見えないところ)に、今の時代や社会の閉塞性を更新する破壊性があり、その他者の存在に人は圧倒的に依存しており、「自分が整備したインフラ」(=自分)が邪魔になっていても自分ではそれをもう壊せないのが人間の宿痾なのだと理解することだろう。

 

そして具体的には、現状受け入れられていない存在に対して、単に排除することをやめ、ただ新しい関係性を結び直すことを続けていくということになると思う。相手を完全に支配制圧するという、他者を殺すあり方をやめ、お互いがあることは前提とし、リスクを受け入れて覚悟し、その上で世界と自分との関係、相手と自分との関係をそのたびに新しくつなぎなおしていくことをするということだと思う。