降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ことばを獲得していくこと

日本ではパウロフレイレはあまり浸透しなかったとされる。

 

そこで思い出されるのが、知り合いの年配の教員の方々が話されていたこと。彼らによると林竹二は、部落差別への向き合いではなく、(学校)教育の充実を選んだという。

 

林は、社会「運動」のようなものではなく、非政治的な(学校)教育のほうが重要であるとみなしたらしい。林の対談などの口ぶりをみると、教育とはすなわち学校教育であり、林のなかでは学校教育は前提だったと思う。

 

林は正しい学校教育の結果として、あるべき人間が生まれ、社会が生まれると考えていたのだと思う。林は学びの本質について深く追究していたけれど、学校制度とは何かということについてはそこに根本的な問いを投げかけず、素朴に信じていたと思う。その結果が部落差別問題ではなく、(学校)教育がより重要だという「切り捨て」だったのだと思う。

 

(僕は林竹二から学べることはとても多く、学びとは何かについてはいまだに林に立ち戻って考える必要があると思っている。林の学びとはカタルシスであるという言葉や、吟味されることにより真の否定が行われるというような言葉が、はたしてどれほど理解されているのだろうかと思う。)

 

隣で行われている差別と関係なく、純粋な教育というものがあるだろうか。運動ではなく、政治でもない純粋な教育。政治ではない純粋なアートとしてのアート。そういうものがあるだろうか。

 

「純粋化」されたものとは、すなわち誰かが恣意的に設定した領域内に自己完結するよう断片化されたものであり、それゆえにその時点でまがいもの化しているものなのではないだろうか。

 

脱政治化、脱宗教化されているはずの教育は、実は政治の現秩序に都合のいい人間を量産するものとして常に整備されなおされているし、「道徳」という名前で現秩序に都合のいい宗教が人に埋め込まれようとしている。

 

日本でのフレイレの受容の話しに戻ろう。日本でもフレイレの思想の影響で識字教育の実践がされていたようだけれど、日本では純粋な読み書きと文字による表現といったことにとどまり、現状の社会の不均衡を自覚し、それを変えていく主体にそれぞれの人がなっていくという文脈の実践ではなさそうだった。

 

それは個々人は今の制度や秩序に従うものでありながら、個人内でカタルシスをおこしていくことによって生の充実を得るといった文脈におさまるもののようだった。

 

しかし、もともとフレイレが行った識字教育は、単に読み書きができない人が読み書きができるようになって生の充実がおこったらいいとする趣旨ではなかった。

 

人は言葉(もちろん日常で使われる言葉はあるわけであるけれど。)を獲得するときに劇的に世界の見え方が変わり、社会環境を変革する主体となる。フレイレにとっては、個々人が一体化し埋没している社会環境から、それぞれが新たに獲得した言葉を用いて、距離をとり、世界を眺めなおすことが重要だった。

 

ここで、学校に行って識字教育がすんでいる人は、もはやこの決まりきったように見える世界の見え方を劇的に変える方法はないのかと思われるかもしれないが、実は言葉は「獲得」されていない。

 

マイノリティには言葉は十分に獲得されていない。そしてそれは(学校)教育の不足ではない。世間の言葉(考え方を含む。)はマジョリティに都合のいいように流通するものであり、これまでマジョリティに必要でなかった言葉(考え方)はゼロから生み出されなければいけない。

 

たとえば、脳性麻痺の障害をもった小児科医の熊谷晋一郎(くまがやしんいちろう)さんは、「自立とは依存先を増やすこと」、「希望とは絶望を分かち合うこと」という言葉をつくりだしている。

 

この言葉は障害を持たないマジョリティにさえも納得されるものとなっている。かつては、自立とは自分が強くなって獲得されるものであり、「依存」を減らすことは当然だった。しかし、マジョリティのなかにもグラデーションがあり、そのような自立観でやってきたものの、行き場を失い、生きづらさを感じている人たちは、この熊谷さんの言葉に出会ってようやく、吟味されないまま鵜呑みにしていた言葉と考え方を更新する。そして、熊谷さんのほうが現実や実態を精緻に捉えていることに気づく。

 

すると、社会の実態がこのようなものではないかとイメージされてくると思う。すなわち、社会で流通している言葉(考え方)とは、社会において強いものが(無自覚であれ)自分に都合のいい設定をより補強するために、自分より弱いものに言うことをきかすために流しているものが非常に多く、それらの言葉は実態ではなく、自分たちのポジションを強めるために言っているので、今「現実」や「規範」とされているものは実は歪められていそうだというように。

 

マイノリティにとっては、社会の価値観は内面化されてしまっているので、自身の内面の価値観を更新するところからはじめないと自分が救われない。熊谷さんにしてもきっと、自分は「自立」していないという地点から思考をはじめ、その価値観や否定性を実践のなかで言葉を紡いで更新していったのではないかと思う。

 

個人にとって、言葉や考え方の選択はまるで自由のように思われるかもしれないが、実際はまるでそんなことはなく、個人は小さい頃から現環境で幅をきかせている強いものの言説や価値観にさらされ、そしてそれになりきれない自分、対応しきれない自分に惨めさや弱さ、否定性を感じ続けるので、それを感じなくしようとする。

 

全ての人がマイノリティ性(現状の社会や世間の模範から「望ましくない」と見なされる特性、世間の「普通」とは違う「色」。)をもち、本人はそれを苦痛に感じ、マイノリティ性というその「弱さ」を感じなくするために、何かを「達成」したり、社会に流通している強い価値観に一体化し、自分も「マジョリティ」になろうとする。

 

だが、そのようにマジョリティになりきるのではなく、世界が本当にマジョリティの言うような構造になっているのか、今言われていることはおかしいのではないか、と気づき、向かう方向を変える人たちもいる。

 

流通している既製の言葉、既製の考え方の大雑把さや偏りを修正し、世界をよりフェアなものにするために、新しい言葉、世界の新しい捉え方が作り出されていく。そしてそれは自らのマイノリティ性に向かいあった人たちによってなされる。

 

これは「運動」のこと。これは「教育」のこと。これは「表現」のこと。これは「政治」のこと。いま、世界はそのように分断され、隔離されたものとして捉えられていると思う。分断され、孤立した個々人がデフォルトとして捉えられている現在、人はより人間らしくなるより、むしろ人間性、世界との応答性を劣化させているのではないだろうか。

 

世界は分野に区切られ、個々が孤立したキューブの組み合わせではない。自らのマイノリティ性から、世界と対話をはじめるとき、キューブの仕切りは消えていき、世界は生きたものとして、まるごとのものとして個人に取り戻されていくのではないかと思う。