降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

南区DIY研究室読書会ZINE 転載 DIY  個々の「自分なり」が世界を満たすとき

DIYと聞くと面倒くさそうだなという感覚が出てくる。DIY=工作ぐらいに思っている。工作は得意じゃないし、自分で作ったものは不細工だし、複雑なものは作れない。安く作れるのならいいかもしれないけれど、それでもやっぱり面倒。DIYで綺麗な家具を作ったり、家作ったりする人は羨ましいなと思うけれど、その羨ましさは経済的に安くあげれる能力と生きる能力の強さに対するもの。

 

 

DIYをやることが素晴らしいのだろうか。DIYはやるべきこと? 何から何まで全部人に頼らず自分でやれるようになるのがいいことなのだろうか。安くあげられることは、お金があれば気にしなくていいことであるし、全部自分でできることは、結果として他者と関わる機会を奪い、人の精神的健全さを劣化させていく。

 

DIY=工作とか、DIY=モノづくりとか、そういう形式的なことではなく、DIYとは既知のものの外に出ること、世界と自分なりのあり方で出会うことであると思う。人は既知の世界に閉じ込められている。どんなものでもテレビやネットで見ることもできるだろう。そこからいくばくか新しい驚きを得て、世界の見え方が変わることもあるだろう。だがそれらはやがて飽和する。既知の世界に閉じ込められるというのは、同じ認識の仕方のなかに閉じ込められているということだ。認識の仕方が変わらなければ、どのような体験をしても体験の意味はもう決まったところに帰着する。

 

どのような新しいものが目の前にやってきてもそれはもう知っているものとして受け取られるのだ。たとえるなら永遠に同じメリーゴーランドに乗っているようなものだ。最初は楽しいだろう。だがやがて退屈になり生は倦んでいく。感じ方は同じになり、思考もそれに準じたものになる。世界の意味は決まっており、人は決定されてしまった世界という牢獄のなかにいる。

 

その牢獄から抜け出ていくためには、既知のものの外に触れる必要がある。頭の中で知っていると思っていたものに直接触れ、それが思っていたものと違う、別なものであることに直面する必要がある。その直面によって頭のなかで世界の認識の仕方が変わる。その時世界は新しく感じられる。決まりきった退屈から、自分をここでないどこかへ連れていってくれる可能性が感じられ、まだ見ぬものへの気持ちがよみがえってくる。

 

世界が新鮮に感じられることは精神にとって何よりもの恵みだ。ただ残念なことに、知らなかったものが既知のものになることによって、人はまた同じ風景のなかに置かれている。既知のものの外と出会うことによって風景は変わるが、メリーゴーランドに乗っていること自体からは人は逃れることができないのだ。

 

このことを踏まえると次に望まれるのは、既知のものの外に出ることが繰り返しおこりうる状況を自分がコントロールできるようになることだ。うさぎが自分から木の根っこにぶつかるのを待つかのように偶発的な出会いにより刷新がおこることに期待する受動的な姿勢でいるのではなく、戦略的、能動的にその出会いを導きよせる。

 

それはつまるところ、自分にとって最も関心が持続することに関わり、そこでまだ知らぬものを探究し確かめ、その確かめた結果や現実化したことを土台にまた新しい可能性を探っていくということになるのではないだろうか。

 

何をやるにもDIYでやることはできるだろう。だが何かを「やるべき」ことだからやるというのは、精神に対して拷問をするようなものだ。当然ながら関心をひきおこされることをやる。自分の関心がどうしてひきおこされているのか、自意識は知らない。それは牢獄からの脱出を求める身体、自分の内側からノックされている状態だ。そのノックへ応答し、ノックと対話していく。

 

対話を続けているなかで、身体が何を求めていたのかが確かめられていくだろう。既知の認識のなかに閉じ込められている自分がその牢獄を抜け出ていくことは、より自分自身になっていくように感じられるだろう。自他への信頼、世界への信頼が回復されていく。DIYの意義は、自分を充実させながら精神を刷新するものに出会うことであり、そしてその出会いを自らに導きよせる方法、世界との持続的対話のあり方を見つけだす感覚を育てることであると思う。DIYは次の刷新をおこしていくための手段であり、同時にその行為自体として充実をもたらす目的でもある。

 

イヴァン・イリイチは、複雑な道具の普及によって、人が世界と直接触れ、対話しながら自身の内側の認識を更新していく機会が奪われていることを指摘する。世界との対話を奪われた人間は成熟の機会を奪われ、疎外される。

 

イエルク・シュタイナーの絵本「うさぎの島」で、うさぎたちは食肉用の工場でそれぞれケージを与えられて生きている。そこでうさぎたちは自身の運命を知らない。それぞれは十分に太った時、突然いなくなる。ある日工場に送られてきた小さな茶色うさぎは、工場に長く住んでいた灰色のうさぎを誘って工場を脱走する。灰色のうさぎは外の世界の自由さや魅力を感じながらも荒々しい環境に耐えきれず、工場に戻る選択をする。

 

うさぎの島 (ほるぷ海外秀作絵本)

うさぎの島 (ほるぷ海外秀作絵本)

 

 

 

資本主義社会における個人とは、この灰色うさぎのようなものではないかと思う。いびつなかたちでケージや食物を与えられることによって、自分自身を更新する能力を発達させられず、それによって自分自身もケージのなかでの生活を求めてしまう。

 

それぞれの人が発達させうる、生物として生きていくための力、そして自身の内的な認識を更新して世界や他者と新しい関係性を紡ぎ直していく力を奪われた人々は自信を失い、容易にコントロールされる。ミシェル・フーコーは、近代において国家が人々の生に積極的に介入し、健康や生命維持などを建前にして権力への依存状態を高め、個々人を巧妙に支配管理する技術が発達したことを指摘した。現代はあたかも見えない鎖によって体中ががんじがらめにされ、そしてそのことに本人さえ気づかないような状況ではないだろうか。

 

ここで取り戻されるべきは、世界との対話の接点であるだろう。既に作られたものをあてがわれることから、少しずつ自分の力を発達させうる世界との対話の接点を見つける。身体からの言葉にならないノックに応答し、身体の求めることを糸口に頭の中の世界から脱し、世界に直接触れる。そして世界との対話による認識の更新、感じ方の更新をひきおこしながら世界との新しい関係性を作り出していく。新しい関係性はただ新しいだけでなく、個々人に自信をもたらし、自他と世界への信頼を回復させるだろう。


DIYは個々人の認識の仕方を更新する移行状態を導く媒体となる。これは個人の内的な変化であるが、加えてDIYという行為は周りの他者に対して影響をもたらす。誰かによって行われるDIYとは、人が既にある規格や規範にそってどこか不本意を感じながら生きさせられている状態から個々人がその人なりに逸脱していく姿を目撃することであるだろう。一見経済的な「自立」を達成しても、その時人は既に自身に外から埋め込まれた規範や評価を内面化させられている。だが、誰かが行うDIYの行為、自分なりに生きるというあり方を目撃することは、内面の規範に従属している自分自身を揺り動かすだろう。

 

他者のDIYは、自分にとっての「自分なり」とは何なのかを問う。そして誰かにそれまで禁止されていることを疑いもしなかった「自分なり」が許されていることを発見する。決められた仕組み、内在化した規範に生を削られているあり方を抜け出ていくとき、ひたひたと自分に力が戻ってくる。DIYは自己に完結した行為ではなく、世界に多様性と許しを付与する行為だ。誰かの「自分なり」という贈与は別の誰かの「自分なり」が成り立つ基盤となる。あらゆることが既に決定され、従属を余儀なくされる世界からの逸脱は、DIYをそこに満たすことによってなされるだろう。
 
 

 

米田量(よねだりょう)
1975生。中学の頃に始まったフラッシュバックの経験を契機に人の変化と回復について探究をはじめる。四国八十八か所巡り、糸川勉さんの自給の哲学との出会いを経て、個人が認識の内的更新を活性化させながら世界との関係性を再編していく環境づくりを目指す。活動として鞍馬口当事者研究、終活ゼミ、学びの場めぐり(京都自由学校講座)、京都のらびと学舎主宰。「降りていくブログ」筆者。共著に『幸せをはこぶ会社』(2016)。

お題「イリイチ」