クレオールの動画、見ました。
日本軍が台湾に攻め入り、少数民族の人たちに日本語を教えました。少数民族にとっては、日本語は少数民族間の共通語のようにもなりました。日本軍は去りましたが、日本語は残り、現地の言葉と混ざって、クレオール語になりました。
クレオール言語(クレオールげんご、英: creole language)とは、意思疎通ができない異なる言語の商人らなどの間で自然に作り上げられた言語(ピジン言語)が、その話者達の子供たちの世代で母語として話されるようになった言語を指す。公用語や共通語として使用されている地域・国もある。
ピジン言語では文法の発達が不十分で発音・語彙も個人差が大きく複雑な意思疎通が不可能なのに対し、クレオール言語の段階ではそれらの要素が発達・統一され、複雑な意思疎通が可能になる。クレオールはピジンと違い完成された言語であり、他の言語に引けをとらない。
また、日本語も北方系言語(アルタイ語族)と南方系言語(オーストロネシア語族)が混合したクレオール言語から変化したという説もある(日本語の起源を参照)。それとはまた別に、漢文訓読の場合は元々中国語であるはずの書記言語である漢文を、語順を変えたり助詞を加えるなど日本語の文法に合わせて解釈するのである。単なる翻訳のレベルを通り越し、別々の言語である中国語と日本語が混ざって、かつ文法的に完成されたという点では、訓読も一種のクレオール言語と見なすことができる。
タイヤル族は日本軍がきたために、今では老人以外はなかなかタイヤル語が使いこなせなくなっています。老人より若い世代は日本語が混ざったクレオール語が自然な言葉として定着し、さらにその子どもの世代になると、クレオール語は民族の文化と認められないため、子どもたちは中国語を教わって、クレオール語からは離れていっています。
まじりっ気のない「純粋な」文化でなければ正当性を認められず、クレオール語を話す人たちが社会体制に置いていかれる様子をみると、多文化主義という考え方も欺瞞に満ちたものに思えました。
多文化主義は、つまるところは個々それぞれにあった自律性を奪い、自らの経済体制に組み込み、生産されるものを吸い寄せ呑み込んでいくためのグローバル化を正当化するための方便ではないのかなと。
資本主義経済に呑み込まれた社会は、外見上がどうであれ、それまでの自律性は半分以上奪われているのではと思いました。中身は同じだけれど、衣装はそれぞれ違うという程度のものにされているのではないかと思います。
動画に卑屈を感じるという言葉が出てきました。東京に対して地方の方便を使う人たちが恥ずかしいというようなことも底で通じることなのだろうなと思いました。
フレイレは、「人間」であるために人々は同じ社会のなかでも劣位のものの存在を必要とし、そういう存在を背景として自らを「人間」であるとしていたと指摘していたように思います。
人というのは、「一人前」という言葉が示すように、ただ生きものとしてのヒトでは足りないものですね。「人」というのは、後ろめたさを抱えていない価値ある存在であり、その代償として「人」以前の「半人前」とか、「税金を納めていない人」とか、「空気を読めない人」とか、「男になれない男」などがその背景に必要とされるわけですね。日本では女性も事実上「人」ではない位置を押しつけられていますね。
クレオールの人たちを見ていると、僕は民族文化というもの自体が大切なんじゃなくて、人間が卑屈や後ろめたさや自分の劣位性を感じず、あるいはそういうものが打ち消された状態で、自律性と卑しめられない尊厳を持って生きられるかということが重要なのではないかなと思います。森との関わりで生きていける西プナンの人たちが学校に行かなくても卑屈を感じないように。
民族の文化もつまるところは自律性と尊厳を守るため、あるいはそれを回復するためにあるのではないかと思うのです。個人個人はたまたま出会った環境を内部に取り込み、そこを通り過ぎていくだけなのですから。