負けるということがどういうことなのか、何度かこのブログでも考えてきました。
熾(おき)をかこむ会に参加してくれた方が、ブログでの負けることについての投稿に言及してくれました。
自分で書いたこと、考えたことも人から聞くことによって、今まで気づかなかったことに気づかせてもらうのだなと思いました。
自分のなかに強く根付いている、生きていかねばならないのに、生きていける力が足りないという恐怖。またこの社会の仕組みをいかに逸脱していくかという考え。
これらもまた勝つことなのだと気づかされました。生きていくこと、うまくこの世間をすり抜けることもまた勝つことでした。気づけば当たり前なのですが。
苦しみから楽になるのも、思い通りに事が進むことも勝つことです。
何かを望むことも、勝ちを得ようとすることではないかと思います。
自分は勝ちを求める亡者だなと思いました。勝つことへの強迫ばかりが頭を占めています。
負けることを受け入れたいと思うことも、また望みであり、そこにおいて勝とうとしているのです。
一日のうちで、どれだけのことが思い通りになっていて、勝っていることでしょうか。水道のレバーをあげたりさげたりして水が出るというのも勝ちです。
普通にしているだけでどれだけ多くの勝ちを重ねていて、それでもなお加えて勝ちを求め、その勝ちが得られないことに嘆き、苦しむのでしょうか。
あの勝ちが欲しい。あの勝ちが得られたら自分はどれだけ幸せなことか、あの勝ちを得られない自分はどれだけ不幸なことか、と。
求めること、望んでしまうことを止めることはできないかもしれませんが、自分が勝ちの亡者になっていることへの意識は、勝ちの正当性を疑わず、巻き込まれていたところから少し距離をくれるように思えます。