降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

藤沢周平『一茶』 自律的なものと繋がること 刻まれたものの変化

藤沢周平『一茶』。

 

 

新装版 一茶 (文春文庫)

新装版 一茶 (文春文庫)

 

 


朝帰りする一茶に村の老人が「ふん、いい年して」と吐き捨てる。老人は自分の息子夫婦を含め、誰かに悪態をつくのを生き甲斐にしている。

 

惨めさ。自身に受けたことへの不条理感。自分がこのようにひどい目にあい、惨めで救われないのに、そんなことを気にすることもなく、のうのうと生きている人たちへの怒り。嫌われているのに、日々の生きるエネルギーはきちんと獲得されている。

 

それは甘えるということなのだろうか。甘えるときにエネルギーが獲得される。自分の痛みを人に味あわせるときの甘え。無論周りからは疎まれるから、長期的にみれば自滅的ではあるけれどエネルギーを獲得する「主体的な」行為でもある。

 

主体的であるといわれる状態は、何かを自意識だけでやっているのではなく、自意識に属さない自律的なものとつながっている状態だ。ただ自律的なものは未分化なエネルギーであるので、つながりながらもそれが破壊的にならない通路を作ってあげる必要がある。

 

自律的なものとのつながりを無視するほうが生きやすい環境に入れられて、自律的なものを感じないようにしていると、世界の見え方、感じ方が変わらなくなってしまい、その分余計に意味や刺激を求めるようになる。

 

ある環境が息苦しいとは、精神の呼吸が止まった状態、つまり更新のプロセスが必要なのに得られないという苦しさなのだと思う。それは意味に強迫され、恐怖や不安のほうに動かされいる状態だと思う。あるいは環境が自分に提供する体験が貧困で、必要な体験が得られないような状態ではないか。


意味への強迫が薄れているとき、人は、子どもから今までに体に刻み込まれ、止まっている記憶の時間を動かす行動を自律的にはじめるように思う。自分がしているその行動の意味などわからなくても。


老人は主体的といったが、しかし一茶に悪態をついた老人は、日々のエネルギーをその場その場で獲得しながらも、全体的な体力が落ちるように疲弊していくだろう。より必要なことをみたすことにはつながっていないからだ。


エネルギーは得るものの、強烈な刺激で感覚をマヒさせていて、また人からも攻撃されるだろうから、より繊細な求めを感じることが難しくなっている。罵倒でエネルギーを得るという、一旦出来上がった体制が不十分でもそれにしがみつく。

 

生きものは、いびつになろうが何だろうが、何が何でも生き残ろうとする死にきれなさに駆られ、同時にその場しのぎでやり過ごそうとする。長く生きることより、その場をしのぐのが重要になる。それが長期的には不利になったとしても。


最悪の状況は一度だけしか体験しなくても、それが延々と続くという設定が精神の体制のデフォルトになる。何が何でも生き延びるためだ。しかし、何が何でも生き延びようとするがために実際上はそれが不利に働くという本末転倒もおこる。

 

そういう元々の生の偏りを解除していったり打ち消していくのが、文化ということになるだろうと思っている。偏りといってもそちらが元々なのだから、文化とは放っておかれた状態から逸脱であり、過去のくびきからの逸脱なのだろうと思う。

 

老人の体制がいつもの通り働かないような状況での出会いが、自分自身の体制に閉じ込められた老人を解放しうるのかなと思う。もしそういう状況へのつながりに恵まれるのならば。