知り合いがFBでシェアしていたリンクをみて。
生存環境の変化に対して文化のかたちを変える。あらためて文化とは何だろうかと考えた。自然環境、社会環境に対して自律性をもつということかと思う。それによって、誰かが決めたルールが生きることを疎外するなら自律空間をつくる。
他者が律する空間でも楽ならいいじゃないか、という見方もあるけれど、生きることの重要な部分を他者が決めていると、自分自身をエンパワーしていくときに必要な自由や環境に働きかけ変えていく力が持てない。お金があったり、マジョリティ側で居続けられるなら苦痛はないかもしれないけれど、年をとったり(これはごく自然なことだ)、ちょっと事故にあったり、病気になれば、楽な場所からは否応なく外されてしまう。いざとなれば、自分たちで自分たちをエンパワーできる環境を奪われているということが問題、と僕はみる。他律でもいいけれど、その依存している誰かは、求めればその誰かにとってのコストパフォーマンスにあわなくなった自分にも機嫌よく必要なものをくれるのかな、という。
アイヌの人の、日本に奪われた自分たちの言葉を取り戻していく活動をみて、単に言語を話せるようになるということではなく、共に学んでいくということが重要な要素なんだなと思った。共に学ぶということが、すでに個々の自律性を高め、周りの人と関係性を新たに育てている。言語を学んだあとにようやく何かがおこると考えるのではなく、その過程に入ること、過程を共にすることが既に目的であり、喜びであり、意味をもっている。
いつも思い出すのは、松本哉さんの言葉だ。駅前の路上で鍋をするとき、それは単に狭められ、孤立化に押しやられていくことへの異議申し立てであるだけではなく、初対面であろうが、来るものを拒まない鍋の空間が既に「革命」後の人間関係の実現であって、人と人ということをお互いに取り戻せる場だと松本さんは言っていたように記憶している。その空間をつくったことが、既に目的達成であり、既に「勝ち」なのだ。
文化とは何かというところに戻る。世界の多くの家の構造を詳細に取材した本があったけれど、そこでは家とはシェルターであると指摘していたと思う。雨、風、寒暖、外敵の侵入など、何かから自分を遮断するためのものが家なのだと。そしてエピローグの部分に、もと建築の専門家?で、今は家を持たず放浪している人と出会ってやりとりした話しを紹介している。エピソードとしては、ピーナッツバターをくれとその人に言われ、あげたみたいな話しだったけれど、家の専門家が家を持たない話しを最後にもってくるその構成にびっくりする。シェルターが家の本質なのであれば、その遮断が必要なければ家は必要ないのだ。
色んな文化があるだろうけれど、文化もまたシェルターとして生まれているのではないだろうかと思った。人より自然の厳しさが圧倒的だった時代から、自然という、他者の支配する空間に対して圧倒的に依存する状態から、その依存を脱し、主体となるためのシェルター。
以前参加した陸奥賢さんの七墓巡りのとき、提供された資料のなかにジプシーの死者に対する態度が紹介されていた。ジプシーの文化では、死んだ人は最初から存在しなかったようにふるまうらしい。記憶がなくなるわけではないが、最初から存在しなかったようにみんなでそうする。
これはジプシーの生きる環境の厳しさを如実に表していると思った。一見冷たそうだけれど、何度も考えていくと、むしろやさしいとも思った。生きることの厳しさは、人がコントロールできることをこえているという認識がある。それを忘れず、踏まえられているということは、むしろやさしいんじゃないかと思う。コントロールできることの高揚に我を忘れ、傲慢になっているときの生きづらさは人の心をだんだんに蝕んでいく。
文化とは、個人が人として自律し、環境に好きなように振り回される存在から主体的に働きかける存在になるための自律空間をつくろうとする試みなのではないかと思った。気候風土の違う場所ごとにそれぞれの自律空間をつくる。
それは、しかし、もとからして対抗的なものでもあるだろう。この少数民族は昔は「王国」をつくる必要はなかったのだから。周りの負の干渉性を遮断し、自律性をもつための、シェルターとして文化があるのなら、家のように、また文化も人より上に立つような絶対的なものではないだろう。遮断が必要ないなら、つくる必要もない。そして、既成の「文化」がもし人を疎外していくなら、その「文化」の絶対性を認める必要もない。
ある地域、ある文化に育てば、よくも悪くも否応なくその影響を受けてしまう。そして影響を受けた結果できたものが「自分」であるとアイデンティファイしてしまう。だが、文化をシェルターとしてとらえたとき、自分が人型をしたものであるより、ピンボール台のなかのボールのような運動体であるようにイメージされてきた。ピンボール台を自分だと思っているのだが、そうではなく、そのなかの構造を跳ねているのが自分のように。
文化を違いを人の違いのようにとらえていたけれど、ピンボール台(文化)は違っても、ピンボールとしてはお互い変わらぬ運動体なのだなと思った。
ジプシーの文化の話しでもう一つ思ったことがある。それは、生きることを「通り過ぎていく」ことであると捉えているかどうか。
ある文化を身体化してしまい、時に(あるいは度々)そこに不本意に影響されながら生きること自体に苦しむということがあると思う。もっと(いい文化環境のもとで発現したであろう)「本当」の自分を生きたかったみたいな思いとか。
だが、通り過ぎていくという見方を得たとき、文化もまた一時的な雨風をよけるためのシェルターであり、通り過ぎていくときの助けとしてあるものにすぎないと感じられてきた。
ピンボール台ではなく、そのなかの運動体として生きているというのが実際だろう。ピンボール台は確かに歪つだったりするかもしれないが、ピンボールという運動体としては、誰も、何も変わるものではない。成長も完成も到達もない。