『赤毛のアン』、かなり興味深かったのでもう少し書きます。
多分この物語の多くの読者は、まだ若い女性で、アンに自分を重ねて楽しむのだと思います。僕はアンを引き取ったマリラであるとか、アンのことを好きになる気難しい老婦人バリーとか、そちらの心理のほうに心を動かされます。
モンゴメリもまた孤児だったと先の記事に書きましたが、アンとモンゴメリの共通点はかなり多く、『赤毛のアン』は筆者が自分自身を回復させるために書いたものでもあるのだなあと思いました。
僕が読んだ山本史郎訳の『注釈版 赤毛のアン』は本の最後の3分の1ぐらいは全部資料や注釈、解説です。そこでモンゴメリと父の関係が分析されています。
- 作者: L.M.モンゴメリ,ウェンディ・E.バリー,メアリー・E・ドゥーディジョーンズ,マーガレット・アンドゥーディ,L.M. Montgomery,Margaret Anne Doody,Mary E.Doody Jones,Wendy E. Barry,山本史郎
- 出版社/メーカー: 原書房
- 発売日: 2014/07/30
- メディア: 単行本
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モンゴメリの父は、ほぼモンゴメリを放っていました。一緒に住んでいた時もあるのですが、継母のもとでモンゴメリは耐えきれず、祖父母のもとに行きます。継母のもとでは、家事と子守りを命じられ、勉強したいという気持ちは認められなかったようです。アンもまたマリラのもとに来るまでは子守りとして非常にこき使われていました。
しかし、アンはマリラにあんたは大事にされていたのかと質問されると、苦しそうにしながら、あのひとたちは私を親切にする気持ちはあった、それで十分というふうにこたえます。先の記事にも書きましたが、僕はそれはアンが愛されていなかったことを受け入れることができなかったのだと考えます。
モンゴメリも父に対しては、本当は自分は父に大切に思われていたということにして、それを日記などに記していたようで、まさにアンのように、認めがたい現実やつまらない現実を素敵な幻想に置き換えて信じ込むということを地でやっていたようです。
解説では、マシューはモンゴメリの理想の父だったであろうと分析されています。モンゴメリは実の父との関係で現実にはできなかったことを『赤毛のアン』においてマシューを作り出すことによってやり直していたようです。
このような「やり直し」はマシューについてだけではないようです。『赤毛のアン』において、モンゴメリは孤児として自分が体験し得なかったこと、与えられなかったこと、不十分なままであったことを自分にもう一度与えなおしていたのだと思います。
『赤毛のアン』が多くの人の心に届いたのは、モンゴメリのなかにあった自律的な回復のプロセスが最大限に動いた結果だったのではないかと思います。自分のなかの中心的なプロセスが動きだすことは、鶴見俊輔の言葉で言うならば、「親問題」ということになるだろうと思います。この自分が生きるうえで最も重要な問いを追究することによって人は自意識をこえた大きな力を発揮しえます。
『赤毛のアン』はモンゴメリにとって、過去の自分への弔いであったのだと思います。過去の自分というとまるでもう終わったことのようですが、それは弔いをするまではずっと自分とともにあり、昔のまま呻いているようなものであると思います。そしてそのような弔いは個人にとどまらず、多くの人に回復を与えるようなものになります。
愛する人を失った人が故人を偲んで作る作品が多くの人の心を動かすということがあるようです。僕は、表現されるものはその人の自意識がつくっているのではなくて、その人のなかでおこっているプロセスによっていると思っています。
絵本作家で画家でもある大道あやさんの作品にしかけ花火という作品があります。夜の空を埋めつくす花火とそして花火が照らす水面の下には魚などたくさんの生命が満ち溢れています。
リンクの写真はちょっと小さくて魚とかわかりにくいかもしれないのですが、この作品には描かれた背景があります。大道さんの夫は花火職人であったのですが、夫は爆発事故で花火工場で亡くなったのです。花火とは大道さんにとって、夫を殺した爆発のエネルギーでもあるのです。
夜空満面に打ち上げられた花火は、死者に対する弔いです。またパッと燃焼し、消えていく花火は一つ一つの生命のありようを象徴しています。大道さんは泣きながらこの作品を描いていたそうです。鬼気迫る作品です。もし大道さんのなかに夫を花火によって奪われたプロセスがなければ、この作品はこのようにはでき上がらなかったと思います。自意識ではなく、プロセスが創造するのだと思います。
モンゴメリは、日曜学校の善良で真面目な主人公が成功していく物語を書こうとしてやめてもいたそうです。その設定では、モンゴメリのなかのプロセスは動かなかったのでしょう。その主人公は自分ではなかったのです。
アンは学校で1番をとり、朗読で街の人たちから拍手喝采を受けます。なんだ、結構サクセスストーリーだなと思ったのですが、この物語は、アンが自分自身に対してそうしたように、読む子どもたちの傷ついた心や諦めた心をやさしい幻想で包もうとするものだと思います。
この物語は、居場所を持てず傷ついた子どもたち、そして制限され十分に恵まれて生きられない子どもたち、絶望の気持ちを感じている子どもたちをしばしほっとさせ、慰め、生きていく望みを少し先につなげさせるものなのだと思います。だから現実の生活で評価される夢を感じさせるのは大事なことなのだと思います。
居場所のない「孤児」であっても、いつか素敵な家ができて、自分を愛し、助けてくれる人たちに囲まれて、失った尊厳をとりかえすことができる。そんなやさしい幻想に包まれ、生きていくことにまた少し希望を感じられるようになることが、この物語を熱烈に受け取った多くの人たちに必要だったのだと思います。
しかし、アンはどこまでも社会的地位をあげていくわけではありません。アンはせっかく手に入れた奨学金の権利を断り、目が弱くなったマリラから離れず、アヴォンリーで先生になる道を選びます。弱きものと共にいることを選ぶアンに読者は安心するのではないでしょうか。アンがさらにさらにと社会的地位を登りつめていくなら、読者たちはそこに自分を重ねていくことができなくなるのではないかと思います。
自分が善人になることに憧れながらそれを諦めているアン、マリラに厳しいことを言われても歪んだりせず受け入れる健気なアン、赤毛というすごいコンプレックスがあるアン(やがて赤毛は美しいとび色になりました。)。
そのようなアンの健気さは、アンがこの物語を読む自分たちのような存在を決して置いていかないということを読者に確信させるのではないかと思います(健気さが物語においてこのように使われることには問題もあると思いますが。)。
アンはもともとの性格はいいのですが、一方で価値観的には、友達も美人がよくて、流行がよくて、ロマンチックでないものは好きでなくてといったように、俗物の塊です。といっても、その俗物性を恥じる気持ちもあり、マリラからも強い牽制を受け、さらには善人でないこと、赤毛であることなど強いコンプレックスはアンをいつも地に叩き落とすので、鼻高々の嫌な人間にはなりません。
むしろアンが高みに行けば行くほど、地に落ちる落差も激しくなるので、読者にとってアンは結局「可愛い」ということになるのでしょう。読者は、アンに憧れながら、アンがやらかしてしまう失敗をみて、優越感にも浸ります。そして失敗を含めて奔放に生きられなかった自分のかわりをアンが生きてくれることで、不本意で心が乾いていく現実のなかで死んでいた自分の気持ちが再生されるのだと思います。マリラやマシューが、そしてアヴォンリーのまちがアンによって蘇生されたように。
マッチ売りの少女がマッチを擦って白昼夢に癒されたように、モンゴメリは自分自身に対して物語をつくってあげる必要があったのだと思います。結婚した牧師(アンも牧師と結婚することに憧れていました。自分が「善人」でないので諦めていましたが。)の夫はうつ病になり、生涯快癒せず、モンゴメリも神経を病んだということです。
こういう話しを聞くと、生後21か月で母を失い、お父さんに放っておかれ、孤児として居場所なく生きたモンゴメリの境遇は、その後も回復しきるということはなかったのではないかなと思います。『赤毛のアン』は、彼女にとって、大道あやさんにおけるしかけ花火のような作品だったのではないかと思います。
僕はあまりウィンウィンみたいなことは信じていません。モンゴメリは孤児だった経験を生かしたんだね、よかったね、みたいなことでは済んでないと思います。彼女は回復しきることのなかった大きな傷を抱えており、その傷はアンを書いた後も彼女をだんだんと地に沈めていくものであったのではないかと思います。
そんなに簡単なものではないと思うのです。マリラがマシューが死んだその時以外で、心に思うことをそのまま言葉にすることが難しいように。人はそんなにきれいに変わりえないのではないかと思います。しかしそのことと同時に、その傷を抱えながらも大きく回復しようとするプロセスも彼女のなかにあったということなのだと思います。
モンゴメリが読者に贈ったものは物語ですが、その物語はモンゴメリの傷によって生まれたものだと思います。決して読者を置きざりにせず、遠くに行ってしまわないアンは、置き去りにされ、居場所を持てず、育めたはずの何かを育めなかったモンゴメリの傷から生まれたやさしさのありようではないかと思います。読者はモンゴメリの深い傷からの贈りものを受け取ったのだと思います。
そう思うと、モンゴメリはアンであるとともに、一層マリラであったとも思えます。マリラは未婚ですが、若い頃は恋人がいました。その恋人はアンの恋人になったギルバートの父でした。しかしマリラはある時、その彼に怒り、彼を赦さずにいました。すると彼は本当にマリラから去ってしまったのです。
アンのほうも、ながらくの間、赤毛をからかったギルバートを決して赦さないという体裁をとったままでした。実際はアンは川で流されそうなところをギルバートに助けてもらった時には赦していたのですが、アンが自分の赦しの気持ちをギルバートに告げたのは大分後のことでした。
しかし、後といっても、結果としてギルバートはアンから去りませんでした。マリラの代では叶わなかったことが、アンの代では叶ったのです。マリラはギルバートの父を赦す機会を得ませんでしたが、アンはギルバートに自分の気持ちを伝えることができました。
マリラの失ったものの大きさ、取り返しのつかなさはアンとは比べようがありません。残酷です。でもそれがこの世界の現実なのでしょう。そしてモンゴメリはもう変われないマリラであって、自分自身にアンをプレゼントしたのではないかと思うのです。