降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

回復と重さを知ること L・M・モンゴメリ『赤毛のアン』(山本史郎訳)

摂食障害希死念慮を抱えた精神科医の当事者本『人は、人を浴びて人になる』のなかで、筆者が大きく影響を受けた一冊がモンゴメリの『赤毛のアン』でした。

 

 

 

僕はある人の心に深く残ったということのなかには何かがあると思っていて、考えるときの参照点にしています。それは、心を湖にたとえるなら、かなりの深度を持ったところにある何かなのであって、その点を端緒にして考えていくと見えてくることがあると思っています。

 

 それで図書館で山本史郎訳の『赤毛のアン』を借りてきて読んでいます。

 

訳者によると、村岡花子訳の同書では、アンのヒロイン的キャラクターをひきたてるために、アンをひきとった養育者のマリラは、ちょっとこわいおばあさんのようなイメージに演出されており、マリラの心理を描いた部分が省略されていたり、最終的にこわいいなかのおばあさんにとどまらないというありようが大幅にカットされているとのことです。

 

このことが山本さんをして新しい訳を書くことの一つの大きな意義としてあったそうです。今、僕がこの本を読んでいて、心が動くところもアンを描いたモンゴメリ自身が孤児であったこと、そしてアンが想像力(癖)によって、それまでの惨めで、乾いた現実のなかで精神を生き延びさせてきたことなどもありますが、それらにも増してマリラの内面に対してだなと思います。

 

マリラは強い女性ですが、自分の強さを維持するためにつくった鎧は彼女を世界との応答性、影響をうけあうみずみずしい連動性を奪っていました。彼女の自意識にとって、自ら努めて作り上げる強さが何より重要であり、いわば戦闘状態を維持するために気を許さず、揺れないように、この現実に負けないようにということが最優先されていました。

 

弱みをみせず、弱くなることを拒否しようとするマリラ。当初アンを引き取るのを拒否したのも、このサバイバルの世界で不十分な労働力である女の子の面倒をみるという弱さを引き受けることへの恐れが大きかったのだと思います。

 

この現実のなかでは、自分の底にある気持ちなどは重要ではなく、自分を守るためには自分を強くするルールを自分に課すしかない。マリラは生きてきてずっと強い恐れと不安のなかにいたのだということです。しかし、その強い恐れからマリラが解放されるために必要なことは、強くあるためのルールに従い、自分を要塞化することではなく、たとえ一時的に弱くなっても、自分の細やかな気持ちや揺れに対して応答していくことでした。

 

アンは、マリラの代わりであるかのように、マリラが自分自身へ応答できなかった気持ちに応答して生きているような存在でした。マリラはアンのなかに自分自身を発見し、アンを育てることによって、自分自身の生きられなかった「時間」を生き直していったのだと思います。

 

マリラのアンを引き取ることに対する感情が変わったのは、アンを引き取りたいと願う兄のマシュー(マリラはマシューと二人暮らしです。)の気持ちの強さだけでなく、自分が生きてきた厳しい現実をアンのなかにも見ることができたためです。マリラはアンを送り返そうとする馬車でアンと話しながら、気持ちが大きく変わりました。

 

馬車から見える景色に感激し、そこから触発される想像の世界のリアリティを語るアン(それはアンの精神が乾いていく現実から生き残るために獲得したものでした。)をおさえ、マリラはアンに自分自身のことを語らせるようとします。

 

「あんた、どうしてもおしゃべりがやめられないみたいだから、いっそのこと何か役に立つことをしゃベってみたらどうかしら。そう、あんた自身について知っていること、話してみたら?」

「まあ!自分について”知って”いることなんてわざわざ話すほどの価値はないわ」とアンが勢いこんで言った。「自分について”想像して”いることを話させてくださったら、もっと面白いとお思いになりますわよ」

「いいえ。想像したことなんてけっこう。飾らないで事実だけを話すのよ。いちばん最初から初めてね。どこで生まれたの?いま、いくつ?」

 

役に立つことを話せ、事実だけを話せ、というあたりがいかにもマリラらしいところです。一方、アンのほうでも自分自身の現実を再確認することへの拒否感はアンらしいところではないかと思います。アンは常に想像で現実と思われるものを塗り替えたいのであり、そのことによって自分の精神を保っています。もう決まってしまったもの、自分を規定してしまうものなどは、それに対して真逆のものであり、見たくはないのです。

 

さて、マリラがアンの想像癖に付き合うのが大変だったこともありますが、マリラがアンのこれまでを聞こうとするという行為自体に、マリラが揺れ動き、変わっていっていることが示されているように思います。その人の生い立ちなど聞けば、もしかしたらアンを追い返す気持ちが変わってしまうかもしれない。マリラはそのことを意識していたでしょうか? 

 

マリラがこれまで作りあげてきた自意識、マリラの殻とマリラの揺れる部分は別々に存在しています。マリラのなかで自分の止まっていた「時間」を動かそうとするプロセスが、自意識の思考や防衛を巧妙にすりぬけ、間隙を縫った結果に現れてきたことが、「想像癖がうるさいから生い立ちでも聞こう」といった、自意識を「騙し」てプロセスをすすめようとする選択だったのかもしれないと思いました。

 

アンの両親はアンが生まれて3ヶ月で死に、アンはトマス夫人に引き取られます。トマス夫人の夫は「酔っ払い」でした。アンはその後8歳になるまでトマス夫妻の小さい4人の子どもの面倒をみる仕事をさせられ、それはとても大変なことでした。(アンはマリラと話していいる時点でまだ11歳です。)ですが、トマス夫人はいつもアンに対し自分がわざわざ手塩にかけて育ててあげたのにアンが悪い子であると繰り返し言い、アンに罪悪感や自分は悪い子だという信念を持たせています。

 

やがて夫が汽車に轢かれて死亡し、夫の母がトマス夫人と4人の子どもを引き取りますが、アンだけはその時に引き取りを拒否されます。しかし、アンは子どもの世話が上手だということを聞いたハモンド夫妻という人たちがいて、アンはそちらに引き取られます。小さな製材所を営むハモンド家は、森をわずかに切り開いた人里離れた寂しい場所にあり、アンはハモンド家の8人の子どもの面倒をみます。しかし、2年後には稼ぎ手であるハモンドが死亡し、一家は離散し、アンはまた引き取り手がいなくなってしまいます。

 

アンは孤児院に行くしかなくなりました。ホープタウンの孤児院はすでに定員オーバーで、引き取りがらなかったのですがなんとか引き取ってもらい、アンは4ヶ月を孤児院で過ごしたあと、男の子が欲しいと希望していたマリラとマシューのもとへ「手違い」で送られたのです。いわばアンは子どもでありながら労働力としてだけ期待され、用がすめば捨てられ、要らないと言われてきました。アンにとっての過去の事実とは、自己否定そのものです。そして希望に胸をふくらませていったマリラたちのもとでアンはまた拒否されて、今、送り返される馬車にマリラといるのです。

 

マリラはアンが学校に行ったことはあるかと尋ねます。アンは孤児院での4ヶ月とトマス夫人のところにいた最後の年だけ学校に行っていましたが、トマス夫人のところにいたときは学校はとても遠く、冬は歩いていけないほどだったので、春と秋にしか行けなかったと答えました。

 

そしてマリラはアンが引き取り手に親切にされたかと尋ねます。

 

「その人たちーーつまりトマス夫人とハモンド夫人ーーは親切にしてくれた?」と、目の端からアンを見ながら、マリラがたずねた。

 

「ええっと」とアンは口ごもった。彼女の繊細な小さな顔が突然まっ赤になり、額のあたりに気まずい表情がうかんだ。「もちろん、そのおつもりはあったのよ。できるだけ親切にしてくださろうとしたことは、私にはよく分かっているの。で、親切にしてやろうという気持ちがあれば、それだけで十分ねーーかならずしも、いつもそうでなくってもね。それに、あの方たちには心配なことがいっぱいあったのよ。酔っ払いのご亭主なんていれば大変よね。それに三組連続で双子が生まれるのもとっても大変でしょうし、そうお思いになりません? でもきっと、私に親切にしてやろうって気持ちがあったのは間違いないわ」

 

 マリラはもうそれ以上質問しなかった。アンは黙ったまま浜辺の道の美しい風景にうっとりと見惚れている。そしてマリラはというと、馬の手綱を取る手もうわの空で、考え込んでしまった。子どもを可哀想に思う感情がとつぜんかの女の心に押し寄せてきた。今までどんなにひもじく、愛されない人生を送ってきたのだろう? どんなに貧しく、面倒もみてもらわないで、働かされてきたことだろう? アンが語った生い立ちの行間を読んで、真実を見抜くことのできないマリラではなかった。本当の家(うち)が自分のものになると思ってあんなに喜んでいたのも不思議はない。

 

アンが必死で自分の養育者たちが親切にしようと思っていたとかばうのは、どういう気持ちからなのでしょうか。アンの表情からは、アンは受け入れがたい扱いをされてきたことがわかります。ひどい扱いだったと、惨めな境遇を受け入れること、愛されていなかったことを受け入れること自体をアンは拒否したのかもしれません。もし養育者たちが大変でなかったら、本当は愛されていたということにアンは自身の救いを託しているのかもしれません。自分は悪い子であるという自己認識も、もし自分が悪い子でなければ愛されているのだという余地を残すために要請されることであるのかもしれません。

 

やがてマリラはアンの存在によって、自分の奥底に眠っていた生き生きとした気持ちを取り戻していきます。誰かの存在に自分が大きく左右されてしまうように、弱くなることを拒絶していたマリラもアンの存在が自分にとって欠くことのできない存在になっていくことをだんだんと自覚し認めていきます。

 

若いアンと違い、歳をとってしまった人たちにとって、変わることはとても難しいことです。しかし、だからこそそこに繊細な心の機微があらわれるのだと思います。変われた人は変わったということを得るかわりに、その心のひだを持つことができないのではないかなと僕は思っています。人にとってどれだけ変わることが難しいのか、そのことを自分自身のこととしてよく知った人は、変わることができた人以上に、同じ立場の人たちに対して深い共感を届けることができるのではないかと思います。

 

マシューを失ったとき、マシューがいない自分とマリラはどうしたらいいのかと泣くアンに対して、マリラはアンに対しての気持ちを打ち明けます。

 

「アン、わたしたちにはお互いがいるじゃない。もしあんたがここにいなかったら・・・もしあんたがここに来ることがなかったなら、わたし今ごろどうなってしまったことかしら。ああ、アン。たぶんわたし、あんたに対してある種厳しくて、つっけんどんな態度をとっていたことは、自分でもよく分かっていたの。だからといって、マシューとおなじくらいあんたのことを愛してはいなかったのだとは、思わないでね。こんなことも今なら言えるから、ぜひ言っておきたいわ。心に感じたことをそのまま口にすることは、わたしには簡単じゃないの。でも今みたいな時だったら、それが簡単にできる。わたしあんたのことを実の娘のように可愛いと思っているの。あんたがグリーンゲイブルに来て以来ずうっと、わたしにとってあんたは喜びで、なぐさめだったのよ」

 

成功の物語では、人はイモムシが綺麗な蝶になるように変容していきます。しかし、変容できたということは、同時に、それが変容できる程度の重さのものだったということでもあるのかもしれないとも思います。

 

マシューの死に際して、ようやく「心に感じたことをそのまま口にすることは、わたしには簡単じゃないの」とアンに告白するマリラ。それもまた今みたいな時しかできないのです。

 

回復とは「傷」が綺麗に治ることのようにイメージされるかもしれません。しかし、僕は今はそのように思えません。誰もがアンのように、快活に、心に思ったことをそのままに表現でき、そのことが誰かの心を動かしていくという世界は理想的に思えるかもしれません。しかし、その世界は少し、軽くないでしょうか。

 

僕は、回復とはあることの重さを知ることではないかと思っています。それは価値を知るということでもあるかもしれません。変容が手軽におこることと思っているというからこそ、それができないことに苛立ち、自分を否定するのではないでしょうか。何かの契機を得て、自分におこっていたことの困難さ、重みは、自分が知っているようなものではなかったと知るときに、和解がおき、受容がおきるのではないでしょうか。

 

逆にいえば、そのことの本当の重みを知っているとき、その人は変容していなくても、そのことに過剰に強迫されることもなく、 淡々と自分に必要なことをしていく過程にあるのではないかと思うのです。

 

 

 

d.hatena.ne.jp