『人は、人を浴びて人になる』の著者が子どもの頃読んでいた本が、『赤毛のアン』と『ノンちゃん雲に乗る』だった。
『赤毛のアン』を読んだので、こちらも読もうと結構前から図書館に予約していたのだけれど、来るのが今頃になった。思っていたより文量があるので少し驚いた。
正直、『赤毛のアン』に比べると、入っていきにくかったけれど、そもそも僕は相性のあう本のほうが珍しくて、結構頑張って読まないとどの本も読めない。
気持ちが動いたのは、ノンちゃんが自分が兄にいじめられるのが馬鹿にされていたからじゃないと知ったところ、兄のタケシの犬が15歳で死んで一緒に亡骸を埋めるところ、ノンちゃんと雲の国で一緒だった長吉が出征して帰らなかったところ。
この物語の終わり方はちょっと変わっていて、8歳だったノンちゃんの話しのあと、15年後のノンちゃんとその周りの話しになる。
お父さんとお母さんはいるけれど、前景化せず、セリフもない。
兄タケシはサン・テグジュペリのように飛行機乗りになって、言っていることも詩人のようになっている。
「にいさんたちに想像できる飛行機の上昇限度って、どれくらいのもの?」
「さあ・・・だから、僕は無限っていいたいんだよ。星になるまでさ。」
とにいさんは笑ってこたえました。
けれど、かなしい戦争はかなしいおわりをつげ、星にならなかった兄さんはふたたび家に帰ってきました。
長吉はタケシの代わりに死んだんじゃないかなと思う。
ノンちゃんが行った雲の国は死の国だったのだろう。お母さんはその話しを聞くのを嫌がり、ノンちゃんは主治医の田村先生にしか話さなかった。飛行機乗りになった兄が雲の話しをしても話さなかった。
兄の話しは、練習飛行中に雲から出られなくなって苦労したというものと、今日のような晴れた日は空は青くなくて黒くて、死んだら自分は星になるんだなあと思ったということと、羊のようなかわいい雲が嬉々として遊びたわむれているなかで飛行していたということ。
雲の雲は生と死、この世とあの世の境界にあるものなのだろう。
犬のエスは、その15年後の2、3年前に死んだということ。
にいさんはしあわせだった子ども時代の半分をその穴にほうむったのです、という描写がある。
物語は読者に衝撃を与えるような、直接的な出来事はおこさない。戦争も表面上は批判していない。
ノンちゃんは、いつか自分のような娘ができて、雲の話しをその娘にするという想像をする。
この物語は戦争がおこっているときに書かれたものということで、その当時は出版社に相手にされず、戦後に出版されたとのこと。
戦争で人々の心は抑圧されたのだろうと思う。それはエスの埋葬だったり、ノンちゃんが自分の体験をまだ来ない次世代がきてようやく伝えられるという夢を見たりするところにも現れているように思う。
その頃のことは、まだ許されず、記憶ごと埋められたままなのだと思う。その記憶は、雲の上という、この世界と対になるもう一つの世界のこととして描かれることでとむらわれる。
星の王子さまはサン・テグジュペリがレオン・ヴェルトを慰めるために書かれたという。慰めるとは生きている人に対してであっても、慰霊のことなのだと思う。
『赤毛のアン』もまた、モンゴメリが本来そうあるべきだった環境を作品として自らに提供するものだったように、そこには埋められた悲しみがある。
ノンちゃんが雲の上のおじいさんに話したように、多くの人たちは自分の気持ちを正直に話したかっただろう。しかし、それは雲の上の人のように別の世界にいる人にでもなければ現実的にはなし得ないことだったのだろう。
雲は死んだ人の魂でできている。その魂は、この世でできなかったことを雲となって実現している。