降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「自己肯定感」はまだ使われるのか

自己肯定感という言葉は、学問などの言葉になるにはあまりに一般的な言い回しというか、かなり適当な言葉だと思うのだけど、いつまでも使っていていいのだろうか。この言葉のおかしさはもっと指摘されなければならないだろうと思う。

 

「自己肯定感」は、HPとかAPとかゲームのプレイヤーのステイタスのパラメータみたいに本当にそういう個人的なパラメータがあるかのように言われる。でも本当にそういうものがあるだろうか?

 

いい幼児時代を過ごしたら高く、そうでなければ低くて、その後の生きやすさを左右するパラメータ。高く獲得できなかった人たちはその低さを嘆き自分をもう一度否定し、高い人たちのステイタスを羨む。

 

だがそれは本当に高いとか低いとかというパラメータ的なものなのか。そういったもう決まったパラメータの反映なのではなく、もし現在の状態としてそういう状態があるというふうに、動きのある状態として考えるなら、他者との関わりにおいて現在そこに阻害要因があるということではないのか。

 

たとえば徳島の自殺希少地域において、地域の人はあなたは幸せですかと聞かれても、自分は特段幸せではないと答えるという。一方で不幸せとも思っていないようだ。この例から想像されるのは、自分の幸せ感、高揚感が高まっているのがいいのではなく、ただ普通に否定性を持たないほうが健康的なのではないかという可能性だ。むしろ高い高揚で何かを相殺しなければいけない状態は内在化された否定性を抱えこんでいる反動としてあらわれていないだろうか。

 

自己肯定感を高めるとか考えだすとどうしても自分を高めていくマッチョ志向になる。強さをアピールし、弱いものを馬鹿にするブラック企業の社長みたいな人が自己肯定感が高いのだろうか? 

 

自分像を高めて乗り切ろうとしている人は鈍感になり盲目的になる。それは自分の丸裸の弱い部分を見ないために、ミノムシのように自分を高揚させる記憶を自分にひっつけ、自分の感覚と外界から自分を覆うからだ。

 

肯定性や否定性は「自己肯定感」というように自己の内にあるのではなく、自分と外界の間にある。ミノムシのようにひっつけたものは、外の世界を彩るメガネ、あるいは映像を映し出すプロジェクターのような役割を果たす。世界はそのミノを通して感じられる。

 

ミノは身を守る殻であり、同時に自分をその風景のなかに閉じ込める牢でもある。自分の声に応答していくとき、そのミノの外に踏み出す必要が出てくる。その時体験されることがミノから受けるリアリティを更新する。応答の繰り返しは世界への信頼を回復させる。

 

自分の状態はミノによって同じ状態のままにとどまる作用を受ける。だが頭だけでもミノから出さなければ自分に必要なエネルギーを獲得することもできない。ミノのなかにとどまれば活力は減衰していく。また自分でなくミノとして振舞っても体験とならない。

 

自己不信と他者不信が結局どう違うだろう?

 

これは自分と外の世界の間の状態の問題なのであり、それは通路が詰まっているような状態だ。その詰まりをとっていく。感じるリアリティを更新していく。自信を高めるのではなく、通路の状態を更新する。そのために自分にリアリティをもたらすミノ、固定された幻想が現実と違うことが自分の目で目撃されなければならない。

 

応答によって、幻想のミノの外に踏み出すことによって、世界への信頼は回復されていくだろう。世界が完全に愛に包まれた世界である必要はない。ただ自分が抱え込んでいた否定性が現実とは乖離していることが確認され、思い込みが破綻すれば十分だ。

お題「どうしても言いたい!」