昨日は講座「多様な性のあり方と人権」へ。
講師は谷口洋幸(金沢大学国際基幹教育院准教授)さん。全く存じ上げなかった方でしたが、講義は、伝えたい内容、たどり着こうとする高さ(目標)に対して、バラツキも無駄もなく、理解するのに無理もないよう計算された段差をつけた階段のような完成度で、基本的な事柄から本質的な焦点まで、90分でよくここまでいけるなと思いました。
彼の講義はグループワークでもアクティブ・ラーニングでもないのですが、フレイレの批判する「預金型教育」というようなものでもなさそうだと思いました。いわゆる「預金型教育」批判は、教える人(支配者)、教えられる人(被支配者)の関係性が固定化されたまま長期にわたって人の矯正(支配に対する諦め・主体としての自信の喪失・ロボット化)が行われる制度に対してのものかと思いました。
単に一時的に誰かがその場で話しの主体となることをもって「預金型教育」とはいわないのではないかと思います。重要なことは、ある人がその人のなかにあるものを刷新して、作られた体制を前提として、人より上手く「適応」して手に入れられるものを多くすることではなく、自分の根源的な問いを軸にして、世界との応答性を回復していく主体になっていくことなのだと思います。
教育哲学者林竹二は、吟味することなしに「ただ活発な意見のやりとりがおこる」ことに意味があるとみなしていませんでした。林の授業は、ちょっとした事例をだしてすぐに「みんな、どう思う?」と聞いて思うことをわいわいいったら「色んな意見が出てよかったね」というようなものではなかったようです。
林の授業を聞く子どもがそれまであぐらをかいて座っていられた自分の場所が取り去られ、それを手近な考えで間に合わすこともできず、問いを突きつけられます。といって、林は生徒一人一人を直接問い詰めたりもしません。
林は今までの自分が成り立たないような「状況」を詳細に提示するのです。それはまず映画をみるようなことかもしれないと思いました。
僕は塚本晋也監督の「野火」をみて、今の自分の生きるということの理解では、もはやこの目の前に突きつけられたことを受け入れることができなくなりました。
しかしそれは、僕にとって不幸な体験ではなかったです。むしろ僕はそのように、今自分がいる場所が安定しているかのような欺瞞から追い出されることを求めていました。
林の授業によって最も大きく変化した生徒たちは被差別部落の定時制の子どもたちでした。人は自分が信じてしまった、内面化した世界に疎外されてしまいますが、それによる苦しみの強さはそこから出ようとする力の強さでもあると思います。
話しを戻して、林もまた生徒をある状況に投げ込むために、最初の何時間かは、林だけが話している時間として設定していました。肝心なことは、無自覚に欺瞞的にあぐらをかいているところに、非暴力的な働きかけをしてそこに居られなくするということだと思います。またそれが非暴力になるためには、内面に作られた欺瞞のなかから出たいという求めが先にあることが必要だと思います。
谷口さんのお話しの核は、人権の二つの要点を提示することだったのではと思います。一つは、人権は全ての人が等しくもつものであるという多くの人に共有されているものですが、もう一つは人権とは国家(公権力)に課された義務であるというものです。後者の概念はほぼ世間的には抜け落ちている概念だと思います。
正確に同じ段差の階段をつくって、聞いている人をそこに連れていった谷口さんの講義は、人権とは国家の義務であり、それを国家が怠っているのなら、それは市民によって正される必要のあるものだという捉え方に対して、聞いている人が逃げを打つことができないものにしていたように思います。それは権力関係を身体化させる「預金型教育」ではなく、主体を解放する対話であったといえるのではないかと思います。
Twitterに次のようなツイートがありました。
フランス人と結婚した人の話として「昼休みは2時間、有給は2ヶ月、バカンスの国の国民は、我々はその権利を勝ち取るために不断の努力をして来た。ただ口を開けてお上が施しをくれるのを待っている国民に言われたくないね。」というような話を聞いたことがある。福留敬さんから
— kuremachisu(一般人) (@kodomonoogao) December 7, 2018
奴隷であることをどうやめていくのか。それがこの社会の課題であるのだと思います。