降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

時間のありよう 誰かの時間が動けば周りの時間も動く

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何度か取り上げていますが、仲が良かったおじいちゃんと死別した孫はその喪失を受け止めることができずにいます。おじいちゃんはルー大柴にそっくりで、孫はテレビでルー大柴を見るたびにおじいちゃんを思い出して悲しくなってしまいます。

 

お母さんからの依頼を受けて桂小枝と一緒にやってきたルー大柴は最初はいつもの調子でその子どもにも説教したりするものの、小枝にたしなめられるとおじいちゃんの役割を引き受けます。

 

時間が動き出すのは、その時間が止まった時のリアリティを提供するときです。まるっきり本物でなくても、「あたかも〜のようだ」という感覚で必要は満たされるようです。止まっていた時間を動かし、必要な経験を自分に与えることで、止まっていた時間は流れていきます。

 

先に紹介したヘルパーセラピー原則(癒すものが癒される)が成り立つのも、相手にかつての自分、必要な体験が与えられなかった自分のリアリティが喚起されているからだと思います。

 

興味深いのは、ある人に時間が動くことで、その人だけでなく、周りの人の時間も動くことです。

 

孫のお母さん、つまりおじいちゃんの娘ですが、お母さんはおじいちゃんには認められない結婚をしたりしていて、お母さんにとっても、気持ちの和解はされぬまま、おじいちゃんは亡くなっていました。

 

ルー大柴がお馬さんになって子どもを背中に乗せる場面をみるお母さんには、おじいさんが自分の娘を回復させてくれているという感覚に加え、小さかった頃の自分が喚起され、お父さんが小さかった頃の自分とお馬さんになって遊んでくれている感覚がもたらされたのではないかと思います。ルー大柴のその姿はお母さんにとっての赦しでもあったのだと思います。

 

子どものために呼んだ探偵でしたが、子どもはある種、お母さんのために、お母さんのかわりにおじいさんの喪失を引き受けていたかのようでもあります。

 

亡くなった人、別れた人、その喪失で止まったままになっている時間はその人本人がいなくても動かすことができるようです。そしてその体験の仕方は二種類あると思います。

 

子どもにとってのおじいちゃんのように、そのままにリアリティを喚起する人と関わること、そしてもう一つは、お母さんが子どもに提供したように、自分のような誰かに必要な経験を提供することです。

 

一家と別れた後のルー大柴の大泣きの顔は、彼の時間もまた動いたということなのだと思います。ある人の動きだした時間はそこに関わる人の時間も動かすようです。