降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

2回目のプリズン・サークル 機械と震え

京都シネマでの最終日。

prison-circle.com

 

平日の4時開始だったけれど、受付近くではこのために半休をとって来たというような話しをしている声も聞こえた。

 

2回目のプリズン・サークルは体感としてはあれよあれよと進んだ。あれ、もうこのシーン、このセリフが来たかという感じ。そこから比較すると、1回目は自分にとってジリジリとした時間だった。

 

性暴力の語りはもう一度聞くまですっかり記憶から抜け落ちていた。ただ、いじめによる堪え難い屈辱を与えられる話しをしていたとだけ覚えていた。キツい話しだったからだろうか。小学校6年だったかのいじめで性器を咥えさせられた、殺してやると思ったという部分。

 

自分はそこまでではないけれどいじめを受けていて、強いと見なされている人の取り巻きの「三下」みたいなのまでが調子にのってきて僕のものをとって逃げ回ったりした。そのことをそうとらえる僕の視点が差別的であるけれど、「三下」にまで馬鹿にされた屈辱は自分を失うほど強かった。後になって思い返されるたびに、傷害になろうが自分が前科者になろうが、相手に一生の苦しみを残すぐらいのことをしてやればよかった、なぜそれがあの時できなかったのかと思った。

 

今でも思い返すと震えがくる。つまり自分はまだそこにおいて止まった時間を抱えているということだ。30年経ってもまだ残っている。

 

整体の稽古で、身体において一度できた反応の回路は放っておけばいつまでも同じままでいることを知り、そういうことかと思った。体は部分部分において、一度決まった反応を何年たっても繰り返す。たとえその反応の仕方が不自然なものであっても。稽古ではその決まった反応を更新するために、意思的な動かし方を型によって一度殺し、自律的な動きをもって動かし、その感覚を感じることで、その部分の反応のあり方を更新する。

 

身体のあり方と同じように、心の反応も30年前にできあがった反応と20年前にできあがった反応などがごちゃ混ぜに組み合わされ残っており、特定のトリガーに対して同じ想起や感情をひきおこすのだろうと推測する。

 

仮に心にたとえて、心臓をレゴブロックで作ったとイメージしてみる。それぞれのブロックは、それぞれの止まった時間によって別々の反応をする。それは統合的ではなく分裂的な、無秩序な反応だ。

 

それらの止まった時間を動かし、反応のあり方を更新するためには、それぞれ時間が止まったその時のリアリティを喚起させ、そのうえで動きだしたプロセスを止めないように経過させる。プロセスが進むのに必要なことが語りであれば語りをし、踊りであれば踊りをする。自分の感覚へ応答する際、どのような方法をとったらいいかはその感覚自体と対話し、応答として編み出すしかない。

 

回復共同体(TC)という集団のなかでは被害者と加害者が自然と両方とも存在している。陰惨ないじめの被害者がおり、別の場所と時間においてであるが、そのようないじめを行った加害者もいる。それぞれ個別の案件に関しては、受刑者たちは被害者か加害者かのどちらかなのであるけれど、回復共同体のなかではその両方の心情が語られる。

 

そのことによって、おそらく受刑者たちはモノや単なる概念としてとらえていた相手の存在を震える存在である人間としてとらえ直す体験ができるのだと思う。被害者にまるで共感ができなかった加害者が被害者の苦しみを受け取り、被害者は単なる暴力や悪でしかなかった加害者像に揺れ動く感情や弱さを読みとる。その人の震えをみる。そのことによって加害者像は動かせない絶対的リアリティから降りてくる。

 

ブーバー的な捉え方をするならば、回復共同体におけるその多様性は、相手を利用対象やモノとしてとらえていた「われーそれ」関係から、凝り固まった非人間(機械)となっていく自分を人間として再生させる「われーなんじ」関係にみちびく。

 

生き延びるために辛さを感じることが抑圧されれば、喜びを感じる感覚も同時に薄れる。また辛すぎる自分の体験を、感情や感覚を乖離させることによって感じなくした場合、相手の痛みに対する感覚も失われる。そして躊躇なく相手を苦しめることができる。

 

過酷な環境におかれた場合、その人の意思以前に、自動的に感情の乖離はすすみ、またその人はそもそも思考の選択肢さえない状態におかれるようだ。人に助けを求めるというようなことが選択肢としてそもそも思い浮かびもしない。自動的に、そのような過酷な状況が続いても生き延びるための機械になる。機械は人と扱われたこともなく、同様に人を人として、震える存在として扱うことも知らない。

 

そのように抑圧された感情が取り戻されるとき、人として自分の代わりに傷ついてくれる人の姿を見ること、人として自分の代わりにその役割を引き受けてくれた人の姿を見ることが必要であると思う。

 

負の感情を自分の心のうちに引き受けられない状態にある人は、そもそも葛藤することもできなくなっている。そのとき、自分の心のうちに引き受けられないものを代わりに引き受けてくれる存在がいると、その人は相手の苦しむ姿から自分自身を見いだす。そしてそのことによって回復し、以前より自他の痛みを受け取れるようになるようだ。

 

回復者は決して一人で回復しない。自分の代わりに傷つき苦しんだ人の姿のなかに自分を見いだすこと抜きに回復しない。回復したということ自体が、たとえ直接に相手に危害を加えたわけでなくとも、誰かの苦しみを糧にしたということなのだと思う。その認識において、回復者は回復を自らの手柄にすることなく、自分を達成者の側に置くことなく、より人間に戻っていく存在として、震えを持ちつづけることが可能になるのではと思う。

 

これでいい、こうすれば自分は正しくあれる、などという割り切りで日々を送れるようになったとき、その人は震える心を失っている。犯罪を犯していなくても、人はそのように日常においてごく自然に機械になっていく。自分のなかにあって取り扱うのが難しい痛みを感じなくしようとして、痛みを塗り込め、抑圧に無自覚になり、人間をモノとして扱うことに抵抗がなくなっていく。同時に自分も奥底の痛みから自分を解放することから遠ざかっていく。

 

人間は、震えから生まれると思う。震えが奪われるとき、人間も奪われる。震えを奪われたものは機械になる。機械は呪いをかけられたように既知の世界に閉じこめられ、止まった時間と倦んだ絶望の生を強いられる。震えは機械に生を与える。震えを与えられた機械は今まで知らなかった新しいものが自分に生まれてくるのを感じる。時間が動きだし、感じられる世界は更新されていく。