降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

せやろがいおじさん 差異化された差異 解放としての笑い

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せやろがいおじさんのインタビュー記事があった。

 

せやろがいおじさんは、沖縄にあるオリジンコーポレーションというお笑い事務所に所属しているリップサービスというお笑いコンビの榎森耕助さんだそうだ。

 

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――しかし、なんでこんなにウケたんでしょう。
ネットとかで意見を発してる声の大きい人たちって、ちょっと言葉が汚かったり、偏っていたりすることが多いと思うんですよ。

「せやろがい」も、「自分の意見はこれですよ」っていうのをはっきり言うけれど、「相手のスタンスもわかるけど」と理解を示した上で、汚い言葉は使わないようにしています。
そのうえで「笑かしたいんです」といったのが受け入れられたのかな。

 

 

せやろがいおじさん、バランス感覚なのだろうと思った。現実を追究したときに、伝わるということがどういうことなのか。「正しいこと」はたとえ妥当であっても、別の側面では強迫と何かしなければいけないような押しつけがましさを与えてもいる。

 


正しいか正しくないかをおいて、多くの人に何かを伝えるには、直接的に訴えるのではなく、まずそのことを受け入れられる基調、基盤をその人に提供する必要があるのだろう。

 


また人に対する表現はまず贈る行為なのだということでもあるだろう。波及効果を目指すなら、義務や強制を感じさせるより、喜びや解放のほうを贈るのが目的であると先方に感じ取られる

 


矢原隆行さんの『リフレクティング』にはアンデルセンの言葉が引用され、人は自分と距離(差異)が大きすぎるもの受け取れないこと、「適度な差異」が変化を生むと述べられている。相手に何かを伝えたい際に工夫することができるなら、提示する差異を、気づかないような小さな差異、受け取れない大きすぎる差異でもない「適度な差異」に調律することなのだろう。

 

ベイトソンが情報とは「差異を生む差異」であると指摘したことはよく知られていますが、アンデルセンは、それを踏まえてさらに「差異を差異化する」ことの重要性を指摘しました。そこで示されるのが、「小さすぎて気づかれないような差異」「気づかれるのに十分な差異」「システムを壊してしまうような大きすぎる差異」という三つのタイプの差異です。これらの差異のなかで「適度な差異」だけが次なる差異、すなわち「変化」を生み出すことができます。アンデルセンは「意味を創造する者たちが、お互いに他の者から丁度良いずれをともなった意味を生み出すなら、彼らは相手のアイデアを受け入れることができるだろう」と述べています 矢原隆行『リフレクティング』

 

意見が極端になっている場合、そこに「正論」はもう通じないのだろう。排外主義など極端になっている場合にも、そこから移行するには情報のグラデーションが提供されることが必要なのだろう。

 

あと笑いということがそもそもどういうことなのかなと考えたとき、高まっている圧力が解放されることなのかと思う。人を蔑み馬鹿にするような笑いも、背景にはその人のなかに高まる耐え難い圧力の存在がある。ガス抜きというような言葉もあるように。その圧力が高まれば、人は不適切なことでさえやってしまう。

 

日常でも様々な場面で笑いがある。それは放っておいても圧力は自然と高まって人を圧迫しているということなのかと思う。高まる圧力は新しい行動や創造的な活動につながるものでもあるので、単に圧力が解放されたらいいというものではない。圧力に乗っ取られず、自分が自分としてある方向で、その解放をめざすことが重要なのだろう。

 

せやろがいおじさんの動画は、贈るものとして、綺麗な海の映像やお笑いとして日常で高まる圧力を抜くと同時に、メッセージも一方だけの価値基準の宣告でない、ほどよい差異化がされている。ドローン撮影でおじさんが芥子粒のように小さく消えていくのもアップでのメッセージや圧力の強さや圧倒性の副作用、おじさんが強く正しくなり過ぎてしまう効果を打ち消すものだろう。

 

ところで、見過ごしてしまいそうだったが、一点気になるところがあった。「笑いの純度100%」という言葉だ。

 

本当は笑ってほしいんです。実はこれって卑怯な動画で、笑いの純度100%の動画ではないんですよね。僕は漫才という笑い純度の手法でしっかり注目集めたかったんですが、10年近くやってそれができなかった。

だから、とりあえずみなさんが興味のあることを喋って、そこにちょっとでもお笑いの要素を入れれたらな、みたいな。ある種芸人として悔しい部分もあったりする感じですね。

もちろん漫才での勝負も並行してやってて、全然諦めてないです。せやろがいおじさんが入り口になったらいいなと思います。

 

「笑いの純度100%」というものはあるのだろうか。非政治的な笑いだろうか。社会問題と関わらない笑いだろうか。ある笑いが「笑いの純度100%」だという思想があるとき、僕は逆にそこにとても政治的なイデオロギーがあるとしか思えない。あらゆるいびつなもの、強迫的なものは笑いの対象たり得るだろうと思う。

「純粋な笑い」とは、笑いを「こうあるべきもの」と権威化していて、そこに序列化をもたらすものともいえるだろう。そんな笑いの権威化もまた笑いの対象にしていいのではないだろうか。

おじさん、ブログも書かれているようだ。

 

「沖縄終わった」と言ってる人に一言。という動画について - せやろがいおじさんのブログ