社会的共通資本のお話しの2回目。
前回のお話しの復習と宇沢弘文さんの著書である『自動車の社会的費用』の前半部分が取り扱われる。
市民が話しあいを通して、社会的空間を作っていくというのは現代では空虚なスローガンだろうか?四条の歩行者道は広げても、身の回りの自転車がガンガン行き交う細い道を通るお年寄りに対する政策はないなどの声がでる。若い世代の無関心、無意見、現実逃避的な傾向など指摘がある。若い世代はその上の世代に教育されているから、若い人というときに上の世代、その上の世代などのことも視野に入れることは必要だろうなと思いつつ。
フレイレの『希望の教育学』の序章では、なぜ希望という言葉を使わなければならないのかが説明されると共に、ブラジルの政治に対する批判が述べられている。80年代とかの当時のブラジルの話しなのだが、引用の前半はまったく今の日本のことのようだ。そして後半のようになるには、フレイレのいう対話が必要になるのではないかと思う。
たしかにこの国で政治の舵を撮ろうとしているのは、なんでもありの利権屋たちであり、かれらのお手盛りの「民主化」である。公共性はコケにされ、不法が大手を振って罷り通っている。この状況は今後もますます深まり、一般化していくだろう。
とはいえ、ブラジルの国民も立ち上がって、抗議の声をあげはじめている。大人も子どもも街に出て、政治批判をするようになった。彼らは政治の清廉さと、透明性を要求するようになった。汚職者たちの偽証にたいして、民衆は怒りの声をあげている。広場は再々、たくさんの人波で溢れている。
パウロ・フレイレ『希望の教育学』
- 作者: パウロフレイレ,Paulo Freire,里見実
- 出版社/メーカー: 太郎次郎社
- 発売日: 2001/11/01
- メディア: 単行本
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (14件) を見る
前にも書いたけれど、惰性が優先される飲み会とかではなく、勢いの強い人だけが他をおさえて喋り続けるようなことのない、リフレクティングのような設定された場での話しあい、やりとりが必要なのだと思う。
先日行われた対話の文化祭の振り返りででた2つのことが現状をついていると思う。そもそも対話がおこるような場所は日常にない。そしてほとんど誰も対話的になるコミュニケーションなど知らない。
理性的で、そこに行動が伴い、現状を変えていく個人、市民みたいなものは、育てないと存在できないのに、やる気と根性と啓蒙で正しいことを伝えれば市民は正しく行動するようなイメージがまだ支配的な感じがする。
ある人が意見をいうことは、結果的な現象であり、それまでその人がいた環境や人間関係の反映と捉えるのが妥当だと思う。自分の周りに応答的な関係性をつくる。あるいはそのような場所と繋がる。その結果として、内在化されてしまった規範からの脱洗脳がされ、自分が取り戻されていくだろう。どのように小さくとも、応答的な人間関係をつくること、そのような空間をつくることがまず必要だろう。
今、日本で権力の後ろ盾のない「強い個人」など絶滅危惧種なのだから、ハッパをかけるのではなく、リハビリと回復の場所を周りにつくっていくことが必要だ。どのように些細であれ、自分が自分として主体を回復していくための場所をつくっていくことによって、そこがコロニーとなり、漁礁となり、生態系を派生させうるだろう。命令をきくゾンビになった自分たちが人間に戻っていく場所をつくる必要がある。ゾンビには自己主張も希望も自信もないのだから。