個人の回復とは何なのか。
たとえば日常的な差別や人権の軽視がある社会で、個人の回復ということがあるのだろうか。体の傷が治るようなことだろうか。何がしかの「症状」を呈しなくなればそれは回復といえるのだろうか。取り立てて痛みを感じなくなれば回復なのだろうか。
社会が規定する日常生活が何とか送れるようになる。それはもちろん心強いことであるし、当事者にとって切実な願いだろう。
ハンセン病の当事者が偽名から本名を名乗りたいと希望するとき、親族がそれを止めようとした。そのときの親族のほうは、「回復」した人であるのだろうか。当事者が自分の尊厳を回復するために本名を名乗ることを止めさえすれば、少なくとも現状の水準での日常生活は送れる。現状で「問題」さえなければその人たちは回復している人なのだろうか。
そのようには思えない。
痛みや苦しみや劣等性などを感じなくなることは、感じなくなったというだけのことだ。痛みによって今の自分と別のあり方を強いられることがなくなった。それは行くべきところに行く力、感じるべきものを感じる力を失った状態ともいえるのではないかと思う。
痛みを感じなくなった人は、痛みの根源を解決したのではなく、代替的なもの、自分に高揚をもたらすような強い刺激によって、その感覚を塗り込めて感じないようにさせている。そのことはごく自然に、半ば無意識にさえ行われる。
多くの人が、そのような抑圧によって自分を成り立たせていると思う。回復というのは、実のところ痛みを感じないなら求めないものなのだと思う。そして誰もがその感じない状態を維持しようとする。傷ついた他者を抑圧したり、見ないようにしたりしても。
そして再び、痛みを感じさせられることに怒りを感じるだろう。その怒りは自分の秩序を乱したものへの攻撃となるだろう。
そのような状態の個人を回復しているといえるだろうか。苦しみを感じなくなっていることは感じていることよりもむしろ後退しているといえる。どうしようもない痛み、惨めさ、苦しさ。そういうものを自分のものとして感じることは既に回復の歩みをはじめているといえるのではないかと思う。
ここまできて、僕が考える回復とは救いのことだと思う。救いの半ばで自らの痛みをぬり込める人とそのようなごまかしはきかない水準の苦しみや痛みをもっているのかという違いだ。
生物にとって、生きることの目的は生きることであって、そこに意味などない。生きるというその強烈なバイアスは、肯定できるほど素晴らしいものではなく、むしろ強い呪いに近いものだ。
回復した人は世界をまるで別のように感じることができるようになるだろう。だが、痛みを感じることができなければ回復に向かうことはできない。つまり誰もが回復に向かうことはできない。痛みを感じられなくなった状態は、個人の回復ではなく、回復の中断なのだ。