降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

フランケンシュタインとハカイダー

読む!倶楽部の話題提供で「ヨコハマ買い出し紀行」を題材にする。

 

 

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それまでと違った角度であらためて読み直し、まとめる機会は貴重で話しをもらってよかった。何かの発表とかはそういう位置づけをしたらいいと思う。

 

あらためて物語におけるロボットについて見渡す。ロボットという造語はチェコの劇作家カレル・チャペックの戯曲「R.U.R」によるものだ。

 

 

R.U.R.ロボット (カレル・チャペック戯曲集 (1))

R.U.R.ロボット (カレル・チャペック戯曲集 (1))

 

 

 

だが有名なアシモフのロボット工学三原則は人間に反逆をおこすものとしてのロボットへの危惧、フランケンシュタイン・コンプレックスに対応するものであるように、チャペックに100年先立つフランケンシュタインが一般に認知されたロボットの始まりなのだろうと思う。

 

第一条
ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条
ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
第三条
ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
— 2058年の「ロボット工学ハンドブック」第56版、『われはロボット』より。   wikipedia ロボット工学三原則

 

 

 

 

フランケンシュタイン (新潮文庫)

フランケンシュタイン (新潮文庫)

 

 

 

ロボットというと、機械を想像するがチャペックのロボットは痛みを感じず、感情がないアンドロイドであって、金属でできていないし、機械でもない。フランケンシュタインも同様だ。

 

興味深く思うのは、フランケンシュタインが世にも醜い者として生まれてきたということだ。

 

国分孝一郎さんと熊谷真一郎さんの対談で、アイデンティティとは傷であるというふうな指摘がある。自意識を持ったロボットは、外見が美しくても、人間ではないこと、生きものの流れをくむものではないことに深い劣等性や疎外を感じている。

 

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ロボットは、永野護の『ファイブ・スター物語』にでてくるファティマたちのように人間以上に美しく、人間を虜にするようなロボットも描かれるが、そのようなロボットでも、存在として、用途や外見を含めたスペック以外の点では誰からも迎えられておらず、自然から拒否されているものとしての醜さに心をさいなまれているとも考えられるだろう。

 

 

 

映画ブレードランナーのレイチェルやロイなどからは、人をこえた自然としての美しさを表現している。反自然であると思われたロボットが人間以上の「人間性」をもつ。ターミネーター2のように敵を倒した後自ら溶鉱炉に身を沈めるロボットなど、保身すら超越した善意や愛をもつロボットが描かれる。

 

 

 

 

いいや、でも人間はロボットと違って!と息巻いてみても、人間が持ちうるものは、失いうるものばかりだ。失ったとき、あるいは世間が認めるようなものをはじめから持っていないとき、その人は人間ではないのだろうか。

 

伊藤計劃の『屍者の帝国』を読もうと思っている。アニメでは、屍者は出るけれども、扱っていたテーマは、死に切れぬものとしての生ではなく、モノに魂はあるか(注入できるか)というロボットのテーマだった。主人公と一緒に闘う人造人間ハダリーは、屍者たちを口笛か超音波みたいなものでコントロールできる。(自意識によって)コントロールされるものとコントロールできないもの。コントロールもロボットものの主要なテーマだ。

 

屍者の帝国 (河出文庫)

屍者の帝国 (河出文庫)

 

 

 

 

別に専門家でもないし、ロボットものを調べつくすつもりもないけれど、ついひろがっていく。人造人間キカイダーに登場した悪役のハカイダーは、アンチヒーローとして、スピンオフ作品が出るほど人気で、Wikipediaによるとダークヒーローの頂点とまで言われているそうだ。

 

 

 

キカイダーは変身ものなのだが、主人公が変身して機械化した時には良心回路という装置が完全に働いていて、悪魔の笛という笛によって操ろうとする敵の精神攻撃は効かない。一方、人間である時は良心回路の働きは不完全であり、敵にコントロールされてしまう時すらある。しかし主人公は完全に機械化することは拒否しているため、その不完全な状態をよしとする。

 

ハカイダーには自律した精神性があって、全て上の言うことに服従するわけではない。キカイダーを破壊するいう一念を何が何でも達成しようとする結果、上に逆らう結果となり、またキカイダーを別のアンドロイドに壊され、ゲシュタルト崩壊をおこし、自身の創造主を殺そうとする。フランケンシュタインを倣う末路だ。

 

善と悪の葛藤を続ける主人公に対して、ハカイダーは一念として振り切れた力として描かれる。情念の純粋なかたち。悪というのは、秩序の維持ではなく、純粋なとむらいを求めている。その姿は光を当てられなかったものに対する強い共感となるのだろう。

 

ロボットは純粋さの表現媒体として人間より訴えかける強さや深さがある。疎外を蓄積し反逆するあり方は、世界が外部だけではなく内面まで誰かにとっての有用性に支配され、システム化されていくことよる軋みを表現するには、現代では亡霊などよりもロボットが適しているのかもしれない。

 

しかしただの現代社会へのアンチみたいなのではなく、ロボットというテーマはもっと掘り下げられるのではないかと思っている。存在として(醜く)作り出されること。自意識を(強制的に)与えられること。そのあたりのことをもう少し見ていきたいと思う。