降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

読む!倶楽部 2018年7月例会 芦奈野ひとし『ヨコハマ買い出し紀行』

7月29日(日)に高槻で芦奈野ひとしの『ヨコハマ買い出し紀行』の発表をする。


ヨコハマは一度自分なりに整理してまとめてみたかったところ、ちょうど5月の例会に行った際に発表を提案され、お引き受けさせてもらった次第。

 

大学院時代、この作品をコミックスでちゃんとまとめて読んだとき、もう既に自分の考えてきた方向性は表現されていると思った。世界の主人公だった人間が、自然に敗北し、主役という意識を降りた黄昏の時代。

それは自意識が自分をコントロールして何かを成し遂げることに破れ、なりもできぬ支配者という自己認識から、自分の内からくるシグナルに謙虚に誠実に応答していく調整者という認識へ変わることでもある。自意識の強制コントロールは結局自然を超えられず、むしろ自分を疎外していく。

ロボットはカレル・チャペックの造語だが、それより100年前にメアリー・シェリーが「フランケンシュタイン」のなかで人造人間を書いている。フランケンシュタインにおける人造人間の反逆は、アシモフロボット三原則を導くことになった。

人間は自分にはない力をロボットを作ることによって発揮する。ロボットは人間を超えた力を持っている。しかし人間は知性や感情、心、生命(自然)といったもので自らのアイデンティティの優位を保とうとする。ロボットが人間を超えたものとは認められない。

 

また人間はロボットに対して疑いをもつ。人間を圧倒する力を持っているから、いつか自分に反逆すると。物語においてロボットとか巨大コンピュータは大抵局所的な合理性によって人間や環境を抑圧しはじめる。僕はこれはつまり自意識が自分の身体や自然を抑圧しはじめているということに対する体からの表象なのだと考えている。

自意識こそ人間みたいな人間中心主義は、結局は疲弊を招く。知性だとか、「人間性」だとか、正義だとか、どれも人間の価値としたところで、全ての人がそこに辿り着けるわけではない。人間は結局自分があげた価値に自分がたどり着けないことによって苦しむだろう。「転落するために設定する王座」のような本末転倒だ。

僕は自分がロボットのように人に対して共感性がなく、欠落した人間だと感じている。だからロボットに関心が向いたのだろう。鉄腕アトムで、自分に心がないこと、両親がいないこと(生命としての流れを持たないこと)、などを気にするシーンがある。ロボットとは「人間」になり切れない人間のことだ。

 

僕は幾つもの物語をみて、物語が何を語るかをみていった。カレル・チャペック、メアリー・シェリーの時代から、物語は繰り返し表象していた。モノには心がある、と。心とはつまりは自律性だ。モノはそれ自体が自律的な運動性をもつ。「生命」になって初めて自律性を獲得したのではなく、もともと自律的な運動性を持っていたのだ。ゼロのものは何をかけてもゼロなのだから、「非生命」から「生命」が生まれるわけはないだろう。逆にいえば、「非生命」とか「生命」という分け方がそもそも未分化すぎるのだ。

 

自意識は自分は自然であり生命であると思っている。だが自意識はオペレーションシステムであって、機械だ。人間が劣位のものとみなしている機械なのだ。そしてその機械によるものに価値があるのではない。獲得した知識、技術、それらは機械として優れている。だが、機械は世界との対話によって更新されなければ過去の閉じた世界にとどまり、その死の世界を外にも敷延していこうとする。機械である自意識の時間は止まっており、古いOSがアップデートされないまま、自分と世界とのズレによる苦しみを過去に戻ることによって取り戻そうとする。それは全くの転倒であり倒錯だ。

 

そして僕に見えてきた世界は、この自意識の統制状態は、環境の設定などにより一時的に打ち消すことによって、自分と世界とに対話的やりとりがおこり、変化や更新がおこるというものだ。

 

自意識でいかに自分をコントロールするかという世界から、自意識の統制状態をいかに打ち消すか、という逆の世界にいる。「開け」はこちらにあるだろう。自意識の得意は実のところ強制停止機能なのであり、うまく動かすことは得意ではない。そうではなく、中動態的な、自律的な状態や流れを発見し、それに繋がったり委ねたりすることによって、新しい状況が開いてくる。

 

 

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